2017年5月10日水曜日
飯田龍太「一月の川一月の谷の中」(『季語は生きている』より)・・
筑紫磐井『季語は生きているー季題・季語の研究と戦略ー』(実業公報社、1000円+税)において、掲出の飯田龍太の句を本書第2章「季題・季語戦略ーその論理」結びに、以下のように述べている。
最後に、視点を現代に移そう。戦後俳句の代表作とされている次の句は太陽暦の採用によって生まれた明治新季題「一月」の名句である-江戸時代の該当する季題は「正月」であった。一月は正月と違って本意も何もない新季語であるー。しかも、「一月」の季題以外そこに何もない、実際いかなる描写もないのである。(中略)
これがまさに《本質的類想句》なのである。そして、多くの季題たちが、このように優れた俳人によって《本質的類想句》として発見されることを待望しているのである。
一月の川一月の谷の中 飯田龍太
この「一月の」句について、筑紫磐井は、その第一評論集『飯田龍太の彼方へ』(深夜叢書社)では、
「一月の川」は、内容的には全く当り前(空虚)で形式だけで保っている作品であるがゆえに俳句の固有性を説明できるだろう。そして呆れるくらいの類型的表現と一層の空白性をもつがゆえに虚子の「帚木」の句を凌いで俳句の独自性を発揮しているのだ。それは自然の匂いも甲斐の風土も感じさせないゆえに虚子に優った一瞬を龍太に与え、それはまたいともたやすく「三月の川三月の谷の中」「極月の山極月の甲斐の中」といくらでもパロディを作り得るゆえに独創性を感じさせるし、月並で怠惰な俳句作法だからこそ龍太をよき教師たり得させるのだ。
と、類型といいながら、逆に俳句形式の有している典型的な姿を描いて見せたのだった。
愚生は、「豈」の発行人である磐井のものは、当然ながら敬意をもって、目についたものは読んでいるのだが、「出典」を示した「俳句文学館紀要」は読んでいないものの、愚生には、四半世紀に及ぶ彼のモチーフとテーマを改めて知る一書となった。
それにしても巻末に付された句集、評論集などの出版物の数をたどるだけでも、しかも、その多くが、俳誌などに発表されている雑文を拾い集めたものではなく、すべてが書下ろしに近い著作ばかり、その膂力には目をみはるものがある。
もし、現在只今において、個人での著作集や全集が新に編まれる俳人がいるとしたら、その量・質を具えているのは彼をおいてはいないように思われる。
ただ、願わくば、それらの『筑紫磐井著作集』『筑紫磐井全集』が日の目をみることがあれば、レイアウトや校閲をきちんとできる出版社から出ることを望みたい(そうすれば、もっと読みやすい書ができあがるにちがいないからだ)。
ともあれ、季語と季題をめぐる問題や、日本で初めての太陽暦歳時記は何であったかなど、これまで流布されてきたものの誤謬に対して、資料を渉猟し、調べなおし、新見解をいくつも打ち立てている。「まえがき」の注に、
我々はもはや、季語の法則の下で牧歌的な俳句を作ることはできず、季語それぞれの主体的法則・戦略論理の下でしか俳句は作れない(もちろん、そこには無季という主体的法則も含まれる)。季語を否定するつもりはさらさらないが、現在、季語の主体的在り方は作者がそれぞれに考え、決断しなければならない問題なのである。そして、これら全体を含めて、「伝統」と呼んでいいのである。
と、心ばえも記している。
思えば、現代俳句協会が50周年記念事業のひとつとして編纂し、画期的だった太陽暦、生活実感にもとづいた、「無季」の項目を建てての『現代俳句歳時記』(平成11年刊)の「歳時記編纂委員」に俳人協会から唯一名を連ね、制作協力したのが筑紫磐井だった(歳時記は、毀誉褒貶を極め、旧弊たる陣営からは猛反駁をうけたが・・)。
筑紫磐井(つくし・ばんせい)1950年東京生まれ。
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