2018年1月31日水曜日

野口裕「ヒメジョオン点るや土の駐車場」(『のほほんと』)・・・

 今日は、「豈」元同人・冨岡和秀の野口裕句集『のほほんと』への鑑賞を転載させていただく。愚生自身は、このブログを、一息で書ける範囲と、ほぼ一時間以内に書き終える範囲で更新させてもらっている。その掟破りになるが、元はといえば冨岡和秀が認めたものだから、手間はない。というわけで以下にそれを貼りつけることにした。ご一読あれ・・・。
(1月3日の愚生のブログでの「のほほんと」の選句と、「空蝉の」句を除いて全く違うところは、いかにも冨岡和秀らしい?選句だ)。



ー冨岡和秀による野口裕句集『のほほんと』(まろうど社)評ー


 野口裕句集『のほほんと』が昨年の歳末に刊行された。著者は物理学を教える人である。日ごろはそのために多忙であるというが、阪神大震災が起きる少し前のある日、「のほほんと」という言葉が口をついてでたという。その頃から俳句が出来始め、その後、だんだんと、物狂いのように俳句狂になったようだ。
    思うに、達観して良いものを作るにはある種の物狂いが、古来から多々見られる。この句集「のほほんと」もまた、その末裔に連なるものであるだろう。表紙カバーの絵は御子息の画家野口毅さんの筆になるもの。ゴリラかボノボを想わせる絵が「のほほんと」の味を出している。
    この句集は「塵・仮面・動物臭・夢坂・根・空」の六章立てである。章の名前を六つ並べるとなにやら渋い異風が感じられる。印象的な句を挙げてみよう。
  ]内は読んだ感想。

      
蒼白と塗られ一つ目の木が燃える
[木が燃え尽きると塵になるが、「蒼白と塗られた一つ目の木」となると、凄みが感じられる]

生きものよ鏡の向こう   こちら側
[ものを写す鏡を境に向こう側とこちら側を指示するからには、生きものだけではないだろう。鏡は不思議さへの入口でもある。どちらかの側に魔物の如きものがいそうだ、と想わせる]

唇を消し言葉がこもる福笑い
[句に書かれたとおりに試してみると、笑いを誘われる。当然ながらユーモアがあり救われる]

無音韻光をからめ木の葉降る
[木の葉が降る情景は光がないと見えないが、その光を含んだ情景の上句に音韻の無を形容的に配したところが深みを感じさせる]

       仮面
ハッブル忌あゝ麗はしい距離(デスタンス)
[詩人の吉田一穂に、「あゝ麗はしい距離(ディスタンス)/つねに遠のいてゆく風景」という詩句がある。その本歌どりであろうが、天文学者ハッブルの名前を冠したハッブル宇宙望遠鏡とそこから見た宇宙の麗わしい画像が何万光年遠のいている距離も連想させる。ハッブルの忌日が遠くなりゆくという意味も含み、そこに麗わしい距離を感じる。そのようなことを想わせるハッブルへのオマージュの句、と読める]

柿ピーに混ざる小魚クレーの忌
[小魚のような形をした「柿ピーナツ」の菓子に、青騎士の画家クレーが描いたマジカルな小魚を連想し、クレーの忌日を想うというクレーへのオマージュとみなせるだろう。また、古代地中海世界では魚の絵はキリスト教のシンボルでもあった]

この世から染井吉野の無人駅 
[染井吉野といえば、桜。「この世」と桜から、西行の和歌「ねがはくは花の下にて春死なんそのきさらぎのもち月の頃」を想起する。下句の無人駅がこの世からの始発駅なのだろうか]

流沙の波紋液体の耳
[流沙と液体と耳という異質なものをひとつの句の中に凝結させたのが、俳句的シュルレアリスムといえるだろう]

       動物臭
紙の運命静かな千年経ちにけり
[勝手な読み方だが、紙と千年で、平家納経を想わせる。阿弥陀経、法華経、般若心経などを、平家一門が自らの繁栄を願って厳島神社に収めて千年近い約九百年を経ているが、納経の後、たかだか数十年で繁栄した平家は滅び、納経類は静かに残っている。盛者必衰の理(ことわり)。この他にも「紙媒体に残されそれを残した人達のいない千年を背負った運命」があまたあるだろう]

誕生と死とのみ記し年譜とす
[簡単な年譜が人生の無常迅速を思わせる]

箱ビルの窓を魔鏡として西日
[魔境という言葉が要になってふと見上げた強化ガラスのビルに間接的に西日が映える光景を捉えている。西であることで落日、西方浄土へ連想を飛躍させる]

ヒメジョオン点るや土の駐車場
[攝津幸彦の『鳥子』所収の句、「ひめじょおん洗面器じゅう受胎せり」の本歌取りだろう。土の駐車場に「咲く」とせず、「点る」としたのが花の命を駐車場に光る目印にもさせているかのようだ]

葉桜の隙間透き間の梵字かな
[葉桜の隙間にある空間を「梵字」と見立てたところが、生きた葉桜の隙間空間を、古代サンスクリット由来の梵字によって視えざる死者の哀悼空間に読み替え透視しているといえる]

どんぐりや言葉で語る宇宙論
[宇宙全体はどんぐりのような楕円なのか。いやしかし多次元宇宙論もある。などなど素人でも宇宙論をいろいろ語れるだろう]

      夢坂
銀河ひとつ放り出されて鼠講
[五千億はあるらしい銀河のなかで、地球のある銀河もひとつ放り出されたようにこの壮大な宇宙にある。あたかも鼠講のように、と壮大宇宙を鼠講に収斂させたような句]

万物は水    しこうして蓮の花
[万物の本質を「水」と唱えたのは古代ギリシアの自然哲学者タレスだが、これはすなわちこの世の本質は「水」だとしたのであるが、それを受けて、「蓮の花」という浄土に咲くと言われる東洋的な来世観を句の後半に配したのは理に適った感がある。西洋の地上観と東洋の天上観を対比し配された句]

生きながら我が喪に服す枯蟷螂
[蟷螂が枯れたような姿で死んであるのを目にすることがある。その姿をまだ生きていて自ら喪に服す、と捉える句。数百年前なら人間も九相図に描かれたような実態があった。他者から見れば句にあるような蟷螂に見立てた喪があったかもしれない]
        
       
曼荼羅から曼荼羅へ夏燕
[根と題された章の句。曼荼羅は世界の縮図で根幹と考えれば、夏の燕はそれを俯瞰する悠々たる洞察者的眼差しの持ち主である]

      
舌なくば歯科医は楽か夏の月
[ユーモアを感じさせる句であると同時に、舌がないと鬼にでも抜かれた話が思い出され、歯科医は鬼?]

空蝉に蝉が入ってゆくところ

[空の章にこの句があるのは著者の意図がありそうだ。蝉が脱け殻を置き去りにするのとは反対に、空蝉に蝉が入るのは真逆な現象で、空蝉すなわちこの世の空を埋める技の一つかと連想させる]


             撮影・葛城綾呂↑









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