2018年1月7日日曜日

高橋龍「終わりなき年の始の窓秋忌」(『十太夫』)・・



 高橋龍第14句集『十太夫』(不及齋叢書・高橋人形舎)、著者「あとがき」には、

 書名、十太夫(じゆうだゆう)は、千葉県流山市(わが郷里)の地名であるが、元々は流山市の成立前の旧八木村の字名で、十太夫新田といった。つまり十太夫なる地元の有力者が荒地を開墾して新たな農地を作り出したもの。現在は新田がとれて「郵便番号簿」では十太夫(〒二七〇ー〇一三三)で登録されている。

と、その由来が記されている。また、上掲写真のように、攝津幸彦揮毫の句が扉に掲げられていたので、筆は攝津幸彦のものだが、絵は?と龍さんに確かめたたところ、それは不明とのことで、ハガキにしたためられていたのだという。句は、

  比類なく優しく生きて春の地震(なゐ)   幸彦

であるが、この句が収めらているのは、『悲傷と鎮魂ー阪神大震災を詠む』(1995年4月・朝日出版社)である。愚生は「涙を飛ばし叫べよ春の石の像」という句を寄稿しているが、じつは攝津幸彦の本句掲載を確認するために改めて見たのだが、愚生の記憶からはすっかり抜け落ちていた。これもどの雑誌かは失念してしまったが、仁平勝は攝津幸彦はこの句を、阪神淡路大震災(1995年1月17日)を契機に作ったのではなく、すでにあった自分の句の中から選んで寄稿したのである、という趣旨のことを述べていたように思う(間違いだったらお許しあれ)。この本には、俳句・短歌・詩、随想による二百九十七名が寄稿したと「あとがき」にあった。「編集の余白に」で齋藤愼爾は、「大震災を文学的、思想的、歴史的な視野でとらえる作品はこれから書き継がれるでしょう。本書はその最初の記念碑と確信します」と記している。

話題を『十太夫』にもどすと、高橋龍は、高柳重信の『前略十年』Ⅱに載っている

   春の蝿馬の瞼にとまりけり
 をぼんやり考えていると、『構造としての語り・増補版』小森陽一の第五章「〈語る〉ことから〈書く〉ことへ」に、横光利一の「蠅」について書かれているのが目についた。(横光利一忌十二月三十日)
 これは、真夏の宿場の隅の蜘蛛の巣に引っかかっていた大きな眼の蝿が、巣から抜け出して馬の背中に止る。馬は馬車を挽いて崖の上の道にさしかかるが、馭者の居眠りで馬車も馬も崖から墜落してしまう。だが、大きな眼の蝿は、一瞬馬の背中から飛び上がって悠々と青空を飛んでいった。わたしは、この小説を高柳さんが読んでいたのか、読んでいなかったのか。そういうことを調べるのが本当に調べるということなのであろか。
 俳句はますます堕落、口から出まかせ、髙柳さんから強く言われた、俳句作品で直接生の論理や主張を書いてはならない。も、全く無視した俳句ばかりである。

と「あとがき」の結びに書いている。なかなかどうして、現在只今、高橋龍ほどの出まかせの俳句を書ける人はそうはいない。

   前衛の転(こ)けたる保守や福笑     龍
     梶井基次郎忌(三月二十四日)
   安保理に核爆弾の檸檬置く
   朱鷺おそし泥鰌はすでに鍋の中
   綱渡りするかのようにさす日傘
   ミス、ミセス、ギャル、レディスはみな裸
   爆撃の跡津波跡すべりひゆ
   創(はじまり)は終(つひ)を蓄へ天高し
   キスマーク・あけび・原潜そつくりだ
   寒空は雲を重ね着するばかり




   




 

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