2014年9月23日火曜日
きゅういち「ほぼむほんずわいのみそをすするなり」・・・
今日は言わずと知れたお彼岸。川柳人にとっては、柄井川柳の没した日(1790年〈寛政2年〉9月23日)でもある。その句集『柳多留(やなぎだる)』が1765(明和)年に刊行されると、庶民の間では俳句よりももてはやされたという。「川柳」の誕生だ。
愚生の所属する「豈」同人2名、樋口由紀子が序文を、小池正博が解説を書いているきゅういち句集『ほぼむほん』(川柳カード)が届けられた。
「きゅういち」の本名は宮本久(みやもと・ひさし)、1959年大阪生まれ。「ふらすこてん」「川柳カード」同人にして、とびきり美味いフランスパンを作るパン職人らしい。
門外漢の愚生にはよく読み解けない句が多い。とはいえ、常識的には「詠みおおせる」のが川柳だから、きゅういち句は難しくも、ちょっと新しい川柳なのかもしれない。樋口由紀子の序では「愛すべき半分B」と題して、Aが日常の生活を負っているものだとしたらBは、どうやら「社会に順応して生きていくとは別物の、時には邪魔になる、けれども『きゅういち』にとってはどうでもいいと片づけられない、半分Bなのである」ということになる。そして「川柳を小さな器に収束したくないのだ。川柳もやっと違う方向に行くことができるかもしれない」と結んでいる。
遠雷や全ては奇より孵化した きゅういち
上掲の句について小池正博は解説で「『孵化』は昆虫や鳥の場合に使う。ヒトが生まれるにしても、鳥獣虫魚と同じ相で眺められている。『奇』はマイナス・イメージではない。すべての起動力は『奇』にあるという認識である」と述べる。その結びには「司祭かの虚空にバックドロップか」の句を引いて「きゅういちという覆面レスラーは虚空に言葉のバックドロップを仕掛ける。その技はときに掛け損なうこともあるが、見事に決まる場合は心地よい。観客はそれを楽しめばいいのだ」と記している。
楽しみついでに気が付いたことだが、最近の『鹿首』第6号の「鹿首 招待席 川柳」に「無題」と題してきゅういちが20句を寄稿している。以下に数句挙げておこう。
歩道より最上階へさざ波さざ波
教室の装置としてのうわごと
連綿も手の湿り気も握り寿司
又貸しの魂魄がほら水浸し
言葉使いの自由さにおいては、俳句よりもどうやら自由度、想像力の幅が大きいようである。
『ほぼむほん』は「ほぼ」と記すからにはどうやら「謀反」には至らない「むほん」なのだろう。
以下に愚生勝手好みのいくつかを挙げておきたい。
きゅんきゅんと虚無あざやかに旧校舎
秘め事を徐々に消え行く測量士
内線二番血の池二名様追加
詩を挽いて獏に喰わせるおい衣装
火事ですねでは朗読を続けます
原子炉で冷たいご飯を炊かんかな
永遠の廊下を磨く銀座支社
車止め程度虚に入る漫才師
食えぬ世の暮れぬ喜劇と踊り子と
整然と公民館に虚無の靴
嫁入りの一部盗品時雨るるか
逃げ水をなるべく生きて渡ります
ユズリハの実↑
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