2017年12月26日火曜日

攝津幸彦「荒星や毛布にくるむサキソフォン」(「未来図」12月号)・・・



 角谷昌子が「未来図」10月号~12月号まで三ヶ月に渡って「時代を担った俳人たちー平成に逝った星々」㉞~㊱で攝津幸彦を論じている。その第一回の序論ともいうべき部分の冒頭付近で、俳句は「感動を詠む詩」だと教わってきたといい、また、

 「感動を詠む」ため、言葉は必然的に伝達性を高める。
 人間探求派を例に挙げれば、草田男の「貫通相」(対象と自分の心が響き、貫き合う)、波郷の「韻文精神」「生活」重視、楸邨の「真実感合」(人間の内面性の追求)などが俳句にとって大切なことだと信じてきた。ところが、攝津幸彦のように言葉をフラグメント(断片)のように用いて意味を拒絶する俳句がある。

と記し、その最後の部分に、富澤赤黄男、高柳重信、攝津幸彦の三俳人に共通しているのは、「抱え込んだ虚無感を反抗と否定の精神で超克し、独自の句境を切り拓いたことだろう」と続けて、以下のように断定してみせてくれたのには、思わず納得してしまった。

 「感動を詠む」ことが現状肯定に繋がるのは当然だ。三俳人は、常に批判精神を抱き、従来の言語表現を単に踏襲せずに、意味の伝達性を排除して言葉を「書く」ことに集中した。彼らの創作態度は「諷詠」ではない。(「未来図」10月号)

 連載2回目(11月号)では、「抒情への挑戦」「鮮やかなイメージ」とテーマを立てて論証している。第三句集『與野情話』の「泳ぐかなやさしき子供産むために」「生前の手を乾かしぬ春の暮」の句を例にして、

 作者は、『與野情話』の「あとがき」に、句作とは「私」から「非私」への「往復運動」であり、俳句とは「旦暮(あけくれ)の詩」と記す。日常を描きつつ、いつしか俳句は「私」を離れ、別の時空へ「私」を連れ出す。

述べる。さらに連載最後と思われる三回目(12月号)では「無意識の世界へ」「「現象への懐疑」をテーマにして、次のように語っている。

 幸彦はまた、現実とは「怪物世界」であり、自己の存在の根拠として「俳句という罠をもって、この怪物と対峙」すると語る。すべての現象を疑い、日常の怪物や心のカモメに妥協することなく、反逆し続け、言葉を生け捕っては十七音の器に解き放つ。彼の俳句は、映画「時計仕掛けのオレンジ」の映像のように多彩かつ断片的に躍動する。俳句こそ幸彦の「生」を探る存在証明だ。

 限りなく無名に近く、49歳で没する攝津幸彦の俳句の読み方を、生前いち早く示したのは、仁平勝の攝津幸彦第三句集『陸々集』の「別冊『陸々集』を読むための現代俳句入門」だった。没後10数年を経て、竹岡一郎が現代俳句評論賞を、攝津幸彦が生きた時代との照応を描出した論で受賞し、この度は、角谷昌子の手によって、攝津幸彦の大方を知ることのできる分かりやすい論述で、まさに平成時代が終わろうとする前に、平成を代表する俳人として描出した慧眼に敬意を表したい。
 ともあれ、論に抽かれた句のなかからいくつかを挙げておこう。

  姉にアネモネ一行一句の毛は成りぬ     幸彦
  南浦和のダリヤを仮りのあはれとす
  幾千代も散るは美し明日は三越
  南国に死して御恩のみなみかぜ
  送る万歳死ぬる万歳夜も円舞曲(ワルツ)
  唇として使ふ真昼のあやめかな
  階段を濡らして昼が来てゐたり
  麺棒と認め尺取虫帰る
  境涯に使はぬ言葉繁りあふ
  おほかたの我が身に倦みて更衣

角谷昌子(かくたに・まさこ)、1954年、東京生まれ。



              撮影・葛城綾呂↑


  

 

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