「575」2号(編集発行人・高橋修宏)、表2に「宇宙のように 複数であれ(フェルナンド・ペソア)」のエピグラフが記してある。論考に松下カロ「柿本多映をめぐる段落と結論のない短章」、江里昭彦「獄中への詩論」、星野太「俳句をめぐる四つの命題」、そして髙橋修宏「空無の強度」-高橋睦郎の震災詠をめぐって」だが、本論は、これまでにある高橋睦郎論としては出色であろう。
やすらへ花・海嘯(つなみ)・兇火(まがつひ)・諸霊(もろみたま) 睦郎
の句をめぐって、
(前略)ひらがなによる託宣のような「やすらへ」の呼びかけと、それに対する「花・海嘯(つなみ)・兇火(まがつひ)・諸霊(もろみたま)」という漢語古語の連なり、その表記自体が、ある言語的なエロスさえ湛えて大震災の孕む非日常の異様さを現前させるのだ。(中略)
睦郎の一句に記された兇火=マガツヒ(禍津日神)とは、スサノオのような〈周縁〉では決してない。明らかに「窮極の三神」に至るなかで、忌むべき神として排除された存在である。だが、睦郎は、このような排除され、取り零されたマガツヒ〈禍津日神〉を自らの一句のなかに召喚することによって、原子力という絶対的な〈外部性〉の形象化を試みたのではないのか。当時、一般化した原子炉や放射線、セシウムという措辞に頼るのではなく、言わば記紀神話をプレテキストとして原子力という存在を俳句という詩型の中で捉え切ろうとしたことは記憶されよいはずである。
と述べる。そして、
この魂鎮めのような一句には、阪神大震災における永田耕衣の「白梅や天没地没虚空没」、さらには東京大空襲における三橋敏雄の「いつせいに柱の燃ゆる都かな」にも通じるような、特定の時代を超えうる静かな強度を、三・一一東日本大震災八年後のいま感じるのである。
とも述べている。ともあれ、本誌の他の一人一句を挙げておきたい。
三井寺女詣の日の観月台の睦郎さんへ
秘曲かな何処に月を抱く男 柿本多映
月明に押しゆく骨の乳母車 増田まさみ
形代は髪も手指も持ちませぬ 松下カロ
目礼すいずれ火を噴く火山なれば 江里昭彦
眇の仔みな愛しけれ花吹雪 髙橋修宏
★閑話休題・・山本省吾「立ちならぶ煙突五本風光る」(昭和8年)(「中部日本俳句作家会々報」より)・・
武馬久仁裕「二〇一八年八月。サハリン、樺太俳句への旅」(「中部日本俳句作家会々報」2019年1月号)には、上掲出の句について、冒頭、以下のように記されている。
赤いはまなすの花や茎の長いえぞにうの白い花がまじる生い茂った夏草の中に、錆びたレールは消えていました。消えたレールの向うの方には四本の大きな煙突が見えました(煙突は昔五本あったようです)。(中略)
夏草を掻き分けながら、今から九十四年前、日本領の最北の地樺太で、樺太の俳句を生む出そうとした人たちが本当にここにいて、俳句のことを話しながら歩いていたのかと思うと、感慨ひとしおでした。ここは、旧王子製紙落合工場跡なのです。
落合は今はドリンスクと言います。サハリン州の州都ユジノサㇵリンスク(樺太庁が置かれた豊原)からバスで北へ一時間のところです。
大正十三年(一九二四年)二月、東京から冨士製紙(昭和八年、王子製紙)に職を得てここ落合に伊藤凍魚(一八八九年ー一九六三年)がやって来ました。その凍魚を迎えて、工場倶楽部で第一回句会が行われました。
句会の参加者は九名、凍魚は石鼎に師事していたという。のちに樺太俳句を確立した俳誌「氷下魚」が出される。この落合から南へ2時間ほどの地、大泊(現・コルサコフ)に明治45年、祖父とともに来て大泊中学に入学したのが「凍港や旧露の街はありとのみ」の山口誓子である。
ともあれ、孫引きだが、以下に当時の句を挙げておこう。
春寒の玻璃窓に倚ればくもりけり 伊藤余子(凍魚の旧号)
水辺や木木みな余寒尽きし色 山本一掬
犬の皮着て氷下魚を漁り居り 西原蛍雨
薫風や皇城南一千里 上田純煌(昭和18年)
0 件のコメント:
コメントを投稿