本書の中では、「俳句と小説」の章で、愚生の俳句修行のきっかけのひとつでもあった「ある程ほどの菊投げ入れよ棺のなか」の夏目漱石や芥川龍之介に触れられており、さらにその「『俳句と小説』について【追補】」に以下の記述がされていた。。
(前略)ここで、社会のことを、あまり言うつもりはないが、そういう社会の変革なくしては、日本の文学、俳句も含めて、の真の意味での現代化はできないということは間違いなさそうだ。俳句の座の問題とともに、いや、同じ意味といえるかもしれないが、これらが、現在の我々に突き付けられた課題と言えるのではなかろうか。
あるいはまた、「俳壇の諸相」の「阿波野青畝あれこれ」には、青畝「虫の灯に読みたかぶりし耳しひ͡兒」(大正六年)の句について、窪田般彌の解釈を引用して、
この句なども、ごく常識的に読めば、秋の虫の音も耳は入らずに読書に熱中している「耳しひ兒」の姿を思い浮かべるだろう。だが、私にはこの「耳しひ兒」は、虫の交響曲を聞きながら読書をしているように思えてならない。これは、私自身、日頃レコードをかけながら仕事をする習慣があるからだろうか。
その見事さに驚かされる、と賛意を示しているが、そういう解釈は幻想的で面白いが、事実、阿波野青畝は、幼少より難聴だったので、「耳しひ兒」は自身のことだったと思う。内発する抒情が留められている。 愚生は一度だけ、阿波野青畝宅で宇多喜代子がインタビューする場に立ち会ったことがある(たしか森田峠も健在だった)。一通りの話が終わった後、愚生は無謀にも、阿波野靑畝に、「俳句にとって一番大切なものは何ですか?」と質問した。その答えは、「客観写生」や「花鳥諷詠」ではなかった。即座に「それは言葉です」と返ってきたのだ。もしかしたら、青畝の新しさとはそうした「言葉で書く」という認識だったのではないかとも思う。
加藤哲也はまた「純粋俳句」についての論を試み、芭蕉の高みを目指すという理念を掲げているが、愚生はといえば、その才もなく、当初より「芭蕉とは歩く道を異にする」と誰かが言ったことを真似て、芭蕉の高みなど最初から放擲している始末なのである。
ともあれ、臼田亜浪の句を、もう一句、本書より孫引きする。
木曽路ゆく我れも旅人散る木の葉 亜浪
そして、本書の書名の由来となった言説は、たぶん、以下によるだろう。
俳句は、日本文学の黎明から、現在に至るまで、常に、少なくとも、その底流にはずっと流れていたのである。まさに、日本文学の「地底」にである。
という。
加藤哲也(かとう・てつや) 1958年、愛知県岡崎市生まれ。
加藤哲也(著者自身)です
返信削除丁寧な解説を、ありがとうございます。
率直なご意見にも、感謝いたします。
今後ともどうかよろしくお願いします。