「俳句界」3月号(文學の森)、第20回山本健吉評論賞受賞作・宇井十間「スンマ・ポエティカー造型論における世界観の問題」全文掲載。特集は「『読み』の深さ・重さ」、論考は青木亮人、その一句鑑賞に宇多喜代子・黒田杏子・山﨑十生・岸本尚毅・上田日差子などだが、何と言っても指を屈するのは筑紫磐井特別作品50句「虚子の非戦」だろう。ブログタイトルにした「無駄なほどの水で君等を無害にする」の句の君等は原発のことをアナロジーしていると言っていいかもしれない。しかし、原発だけではない、当然、君等は僕等である。先行する「僕等」を詠んだ句、高山れおな「無能無害の僕らはみんな年鑑に」のパロディ―であるかもしれない。時代を遡れば、かの社会性俳句時代に多くの君等や僕等が詠まれた。連帯や絆がまだ信じられていた時代のことだ。佐藤鬼房「友ら護岸の岩組む午前スターリン死す」。平成の終り近くに、まさに平成を代表する句群、それも他の俳人の誰にも似ない磐井文体を佇立させての、その圧巻の50句から以下にいくつかを挙げておこう。
古典乙1 せんじゆといへるところでふね 磐井
不図(はからずも)医者に呼び止められて死す
常に誰もいびつな顔で戦争す
買ふたびに妻は高価なものとおもふ
駄句おほく評論あふれ健吉忌
眠りては醒めない妻を冀(こひねが)ふ
子規 国を憂ふるときに詩がうまれ
信念は大河にも似た大革命
性懲りない この道を行く 帰れない
投票をボイコットしに行く日なり
医師一人患者一人に死者一人
また戦争 視力まつたき老人が
角膜に浮かぶ原爆第3号
★閑話休題・・『WEP俳句年鑑2019』「俳句の〈現在〉について」・・・
筑紫磐井つながり・・『WEP 俳句年鑑2019』(ウエッブ)で筑紫磐井は「兜太・なかはられいこ・『オルガン』ー社会性を再び考える時を迎えて」を執筆している。その中に、
ビル、がく、ずれて、ゆくな、ん、てきれ、いき、れ (なかはられいこ)
(WE ARE!三号 二〇〇一年一二月)
この予想外の内容(見て分かるようにメッセージなどはない)、表記、韻律は、明らかに社会性を持ちながらも社会性を超えた文学となっている。定型、季語、季題を破壊しなければ作者の思いが伝わらないのである。(中略)
川柳が、こと社会性に関して、優柔不断であった伝統俳句を超えた一瞬ではないか。
と記している。また、他にも西池冬扇、坪内稔典、岸本尚毅、角谷昌子、酒井弘司など多くの論者がそれぞれ持論を展開しているが、「俳句の〈現在〉について」、平成の終りに、その俳句の見取り図を明確に、具体的に描いていたのは林桂だった。以下に抄録しておこう。
昭和の社会性や前衛の兜太と過渡の詩の坪内、平成の存在者や天人合一、アニミズムの兜太と口誦性、片言性の坪内は、私などからは遠くで軌を一にした軌跡に見える。兜太は主に書く内容に拘だる変遷であり、坪内は俳句形式の認識に拘って変遷である。この二人の俳句観の変遷を追うことは、昭和俳句と平成俳句の変遷を追うとともに、その本質を考える今後の課題となり得るだろう。
そして、また、角谷昌子が「ユネスコ無形文化遺産登録についても各協会が一緒に協力してゆく必要があるだろう」と晴朗に述べているが、この問題についても林桂は、
二〇一一年に、T・トランストロンメルが俳句詩でノーベル文学賞を受賞している。ある意味、俳句は世界文学として認知済みである。俳句は日本語の属性だと考えるのならばともかく、多様な言語の中に俳句の可能性が残されているとするならば、日本の俳人が受賞でいるように、質の高い翻訳テキストを充実させる方がよのではないかと思う。そこで俳句を洗い直すことも可能だろう。
とまっとうに述べている。
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