大高霧海第7句集『鶴の折紙』(本阿弥書店)、その「あとがき」に、
(前略)第七句集『鶴の折紙』は平成二十五年から同三十年の間の三七一句を収録した。句集名は〈大統領の鶴の折紙淑気満つ〉から採用した。オバマ大統領が平成二十八年五月二十七日、米軍により原爆投下された広島市を訪れて今年五年になる。その日に私はたまたまこの「あとがき」を書いている。現職の大統領が広島市を訪問し、原爆資料館・原爆ドームを見学し、慰霊碑に献花して被災者を慰霊された。戦後七十一年にして初めてのことであった。そして原爆の残り火の「平和の火」の前で十七分にわたる演説が、謝罪は別にして大統領の良心にあふれ、核兵器の非人道性を現実に確認した上で、広島・長崎の罪科(つみとが)なき被災者に追悼の言葉をかけたことは画期的であった。(中略)「なぜ私たちはここ広島を訪れるのか。私たちはそう遠くない過去に解き放たれた恐ろしい力に想いをはせるために訪れたのです。十万人を超す日本人の男女そして子供たち、何千人もの朝鮮人、十数人の米国人捕虜を含む死者を悼むために訪れるのです」と広島訪問の使命を述べ、「私の国のように核を保有する国々は、恐怖の論理にとらわれず、核兵器なき世界を追求する勇気を持たなければなりません」と世界平和を宣言している。最後に「しかし今日、この街の子供たちは平和に暮らしています。 なんて尊いことでしょうか。それは守り、すべての子供たちに与える価値あるものです。そしてそれは私たちが選べること出来る未来です。広島と長崎が『核戦争の夜明け』ではなく、私たちが道徳的に目覚めることの始まりとして知られるような未来なのです」と結んでいる。(中略)
私は日本が二度と戦争をしてはならないと、ひたすら祈念している。私は原爆投下の日はまだ小学生であった。夏休みであったので、広縁で「幼年俱楽部」という雑誌を読んでいたときであった。ピカドンの「ドン」の音を確かに聞いた記憶が今でも残っている。(中略)その夕刻から黒い雨が降り始め、わが町に多くの原爆被災者が避難して、小学校校舎に収容された。母は婦人会のメンバーとして看護に動員された。そして日々死亡する人が多く、小学校の運動場で火葬に付されていた。この悲惨な記憶が今でも明白に残っている。
と記されてあった。思わず長い引用となってしまった。ともあれ、本集よりいくつかの句を挙げておきたい。
朧夜や地球おぼろの中にあり 霧海
十薬や野にあり祈り忘れざる
パスカルのパンセに耽る冬木かな
鷹鳩に原爆ドーム群翔す
アテルイの怒りもまぎる虎落笛
走馬燈考妣(ちちはは)と逢ふ媒(なかだち)を
夜なべてふ昭和貧乏物語
「風の道」三十周年
三十年の菊の賀客に先師も在り
忍を持せし妣の生涯寒椿
昭和の日激動の焦土と敗戦と
虹の橋島より出でて未完成
白寿まで生きれば亀も鳴くでせう
銀河仰ぐ戦あるなと兜太の声
大高霧海(おおたか・むかい) 昭和9年、広島県生まれ。
芽夢野うのき「政局はバタバタひまわりは作りもの」↑
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