中田雅敏『小林一茶の生涯と俳諧論研究』(角川書店)、帯の惹句に、
2016年筑波大学人文社会系国際日本研究科提出の博士論文に加筆を施し、関連する論文二編を補論として加え、再編集。時代をつぶさにすくい取り、そこから浮かび上がる一茶の全貌を明らかにした”小林一茶研究”の集大成。
とある。A5版箱入り、約590ページの大冊、文字通りの研究書である。主要目次を挙げるだけでも、その内容が伺える。
「はじめにー一茶が生きた時代背景」、序章、第一章「世事の記録師か記述魔かー小林一茶とその時代ー」、 第二章「一茶の童児俳諧と小動物ー子ども句と動植物句をめぐってー」、第三章「一茶の『日の本』意識」、第四章「一茶稿本『志多良』の題名」、第五章「一茶俳句の方言使用」、第六章「一茶の家族描写と説経節」、第七章「一茶の自己俳諧の確立と宗教性」、第八章「渭浜庵執筆から宗匠へ」、第九章「俳諧説話と一茶の俳文」、第十章「武蔵国新方連会頭と一茶」、第十一章「一茶の教育教材化」、第十二章「一茶の信仰心と俳諧師」、終章「課題」。
となっている。もちろん、愚生の手に余る内容だが、文は読みやすいと思われるので、興味ある方と、これまでの一茶研究のおおよそは伺い知ることができるので、直接本書を手にされるとよいと思う。「はじめに」から、一部を以下に紹介しておこう。
近代俳句は正岡子規から始まったとするのが俳壇の共通認識であるが、江戸後期、とくに文化・文政期はすでに「近代社会」といえる。明治維新はこうした時代状況や人々の生活状況が「維新」によっ一新されたものではなく、身分制度と引き換えに競争社会に変わり、世界的な「産業革命」の変貌のなかで「生きてゆくために早く、より便利な機械という近代的道具」を手にした過程にすぎないのである。人々の生き方や人情や通俗道徳は競争を強いられる個人に分断され「生きづらさ」が増幅される社会になった。このように歴史観や、時代変貌、社会構造が変化するなかで、明治と地続きの「文化」のひとつとして「俳諧」を考えるならば、その後の近代俳句は実は小林一茶から始まったとも考えられる。(中略)「近代俳句」は小林一茶から正岡子規につながり、高浜虚子から多くの近現代俳人が輩出したが、その萌芽はすでに江戸時代後期の文化・文政期にあったということができるだろう。
小林一茶が小林家の長男でありながらなぜ江戸奉公に出され、どこの家に奉公し、俳諧師になる素養を獲得し、文学の歴史に残る「芭蕉、蕪村、一茶」と並び称される俳諧師の一人としての学識は誰に授けられたのか。こうしたさまざまな疑問と課題は、「元禄文化・文化文政」といわれる江戸を中心とする文化圏と地方文化(とくに農村)との関わりから解さなければならない。本論考の目的はそこにある。
と認められている。そして、また、「あとがき」には、
本論文では小林一茶という俳諧師がなぜ江戸を去って故郷柏原に帰在し、信濃俳壇を形成することができたのか、葛飾蕉門派の白眉と目されていた一茶が葛飾派を破門されたのはなぜか、あるいは自ら離脱したとしたらなぜなのか。さまざまな疑問は残るが、二万句に余る一茶の俳句作品に解釈を加えるのではなく、それら二万句における特徴を拾い出して「小林一茶の生涯」をまとめることとした。また一茶の生涯に焦点をあてることで、文化・文政期から天保期にかけての幕藩体制の揺るぎを反映した「俳諧論」を形作ることを目指した。
とあった。ともあれ、本論考に引用された一茶の句をいくつか挙げておこう。
芭蕉翁の臑をかじつて夕涼み 一茶
目出度さもちう位也おらが春
這へ笑へ二ツになるぞけさからは
これがまあつひの栖か雪五尺
花の影寝まじ未来が恐しき
卯の花もほろりほろりや蟇の家
椋鳥と人に呼ばるる寒さかな
夕月や鍋の中にて鳴く田にし
かきくけこくはではいかでたちつてと
やせ蛙負けるな一茶ここにあり
けふからは日本の雁ぞ楽に寝よ
中田雅敏(なかだ・まさとし) 昭和20年、埼玉県南埼玉郡生まれ。
撮影・中西ひろ美「好きなもの一に梅の香二に山河」↑
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