2017年4月19日水曜日
田中裕明「大学も葵祭のきのふけふ」(『季語になった 京都千年の歳事』より)・・
井上弘美『季語になった 京都千年の歳事』(角川書店)。井上弘美(いのうえ・ひろみ)1953年京都生まれ。
愚生は京都に三年暮らしたことがある。19~21歳の頃、学生には住みよい街だったと思う。愚生はと言えば、最初に読んだ句集が虚子句集であり、最初に読んだ俳句入門書は中村草田男だったにもかかわらず、俳句形式において季語をどのように断念することが可能なのか(俳句形式が自立できるのか)、悩んでいた年頃のことだ。従って、若いゆえばかりとも言えなかっただろうが、本著に書かれた様々の情緒に興味を持てなかった頃だ。時代もそれどころではなかった(70年安保闘争)、まだ生きる事への混沌が続いていたのだ。高度経済成長直前、所得倍増計画に突き進む直前の頃だ。
四条河原町から祇園に至る、円山公園下・八坂神社付近の交差点はデモの解散地点に入る前のジグザグデモの最終地点だった。
時代祭、祇園祭はアルバイトで衣装を来て練り歩いた。五山の送り火には旅館で蒲団敷きのアルバイトをしていた。修学旅行シーズンには皿洗いのバイトもしていた。ようするに二部の学生だった愚生は、アルバイトに明け暮れていた訳である。もっとも長期間に渡ったアルバイトは大映撮影所でのエキストラに小道具係。そういえば「祇園祭」「人斬り」を撮っていた。三島由紀夫を見かけたのは、その「人斬り」のラッシュの時だった。勝新太郎は将棋が好きで、撮影合間によく差していた。馬に乗るシーンは大嫌いで、一発オーケーにするしかないようだった。みんなは少しの待ち時間にも麻雀など、さまざまな賭け事していた。入れ墨のある人たちも多く働いていた。かの柏木隆法著『千本組始末記』通りの世界だ。それでもすでに映画界は斜陽だったころだ。
白朮火を傘に守りゆく時雨かな 大谷句佛
そういえば、白朮詣(おけらまいり)には、一度行ったことがある。まだ京都市内縦横に路面電車が走っていた。ごく普通にお参りできた。井上弘美が本著に記した、
十二月三十一日午前零時。一時間前から歩行者天国になった四条通を八坂神社に向かって歩いていくと、祇園一力あたりで前に進めなくなった。
というような事態もない頃のことだ。もう50年以上前になる。
井上弘美の除夜の句は、
しんしんと闇積もりゆく除夜の鐘 弘美
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