2016年3月6日日曜日
高原耕治「爪うすびかるのみ//玄虎(ウルトラ)/玄虎(ウルトラ)」(「未定」100号)・・・
「未定」は1978(昭和53)年に創刊されてから37年を経た。「未定」創刊後2年の1980年には、攝津幸彦・大本義幸らの「豈」が創刊されて、表面的には「未定」から「豈」は分派したように見られているが、「未定」創刊時(20歳代限定の同人誌だった)にすでに、攝津幸彦は「黄金海岸」以後の雑誌を構想していたのでいずれ新誌を持つことは、「未定」創刊時の澤好摩とも話はできていた。というわけで、愚生も含めて、「豈」創刊時には「未定」と「豈」の両方の同人だった、という人も多い。
とはいえ、当時、愚生らの年代は坪内稔典「日時計」が俳句のシーンの先頭を走っており、それが、攝津幸彦・大本義幸・坪内稔典らの「黄金海岸」と澤好摩・横山康夫らの「天敵」に別れ、その後を模索していたときに、野合と言われながらも、既成の俳句界に対峙して、若い20歳代を中心にその活躍を期待された多くの俳人を結集したのが澤好摩発行人・夏石番矢編集人の「未定」(いまだ定まらず)だった。一方で、坪内稔典は「現代俳句」(ぬ書房→南方社)を創刊する。
とはいえ、「未定」創刊時のメンバーは現在誰も残ってはいない。しかしながら、その志を一人残って孤塁を死守しているのが高原耕治である。百号を慶賀する次第・・・。
今号の特集は高原耕治句集『四獣門』の評に、外部から江田浩司「俳句の《存在学》のアポリア」、関悦史「不到達性の詩学」などだが、何といっても高原耕治への田沼泰彦によるインタビュー「『四獣門』と多行形式」は高原耕治の来し方が窺える興味あるものだ。数号前から「未定」に参加した田沼泰彦の位置取りも、現在の「未定」にとって欠かせない重要さがあるように思える。
また、「巻頭言」には、「未定」は90号より多行形式による俳句・短詩の実験誌に特化したと述べ、以下のように結語する。
そして、「未定」の運命に困惑、逡巡しながらも、私達同人は、ますます鋏状に乖離して行くこの鬱蓼たる巨大な無関係の尖端に、たった一つの奇蹟の出現をひたすら渇仰する。現俳句界の大勢に順応せぬ、この渇仰こそが、「未定」の自立的拠点となり、多行形式に蘇生を齎すであろう。
自選20句より一人一句を紹介しておこう。
ロボットの
我が身
なげくや
虎落笛 天瀬裕康
この旅
恐ろし
うみは うみ噛み
そらは そら噛み 高原耕治
重力霊(ぢうりょくれい)
中有(ちうう)
旅(たび)する
千年白日(せんねんはくじつ) 田辺泰臣
形代をながし
ひとりのかくれんぼ 田沼泰彦
塩も汚れて
母なる海が
滅びる
あした 玉川 満
素面になりて
雪が雪視る
洞舞う風よ 村田由美子
愛は青
富士は真っ赤に
死に日和 山口可久實
サンシュユ↑
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