2018年7月23日月曜日

宮﨑莉々香「ねむる鳥しりとりしりとられつづく」(「オルガン」14号より)・・

 


 「オルガン」14号(編集・宮本佳世乃、発行・鴇田智哉)の鼎談は「『わからない』って何ですか?」、愚生と浅沼璞と宮﨑莉々香。この普遍的な問いとも思える問いに、愚生は、よく答えられていると思えないけれど、具体的には、

(前略)
宮﨑 大井さんと私とで、「わからない」が決定的に違うんだな、ということが分かった気がします。今あげられた句の意味は取れるじゃないですか。「わからない」って、そういうことじゃない気がするんです。たとえば〈ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ 田島健一〉の「ぽ」のあり方は、意味ではないですよね。だからこの「ぽ」が「わからない」というのはわかる。でも、〈たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ 坪内稔典〉の「ぽぽ」は「たんぽぽ」があるからその文脈できている。つまり「わからない」のありようが違う。(中略)
鴇田 たいていの五七五の言葉は、意味が取れる。無理をしようが、しまいが意味が取れないということはまずないのでは。
宮﨑 「ぽ」が「光」を発している、とか意味を決めるのが読者だということです。「わからない」ってそういうことだと思うんです。何で今日、「わからない」の話をしようとしたかっていうと、もともと気になっていたっていうのもあるんですが、オルガンへの批判として「お前らの俳句はわからない」というのがあったからです。

と話されたことや、別のところでは、

浅沼 青畝は「俳句は言葉です」と言って、季語だとは言わなかった。伝統派の人は、季語が大切だって言ったときに本意本情が大事というが、たとえば、復本一郎さんが俳諧的視点から本意本情と言うのと、虚子以降の俳人が言うのとは当然違ってくる。季語は約束事として使っていることが多い。大方は、本意本情が共通認識になっていないんじゃないかな。
宮﨑 季語が大事っていうのは、もう季語が大事ということが形式化して空洞化している議論ですよね。

 と俳句にまつわる現状について、しごくまっとうに批判している(さらなる興味のある方は本誌を是非お読みください)。

 他に、浅沼璞と柳本々々の往復書簡が4回目を迎え、今回は「〔8〕柳本々々から浅沼璞さんへ」で興味尽きない展開となっている。鼎談で田島健一の句についての引用をしたので、ここも彼に登場してもらおう。

 わたしは田島さんの俳句を読む機会をいただいて短詩の認知についてかんがえはじめました。田島さんの俳句は、ひとが俳句を俳句として認知するしゅんかんはどういうしゅんかんなんだろう。そのことをずーっと俳句によってあらわしつづける、そしてあえて失敗しつづけているのだとおもうのです(もし成功したらそれは認知の実践としては逆説的ですが失敗になるとおもうんです。ですから、ここでは失敗しつづけることが重要なのだとおもいます)。

 と柳本々々はしたためている。なかなかいい語りだと思う。ともあれ、本誌より一人二句を挙げておきたい。

   日暮れY染色体に車輪の音      福田若之
   水の五月笹薮に仕草の交じる
   麦からだよりみちばかりしてさびし 宮﨑莉々香
   鵜を羽ペン持ちかたに線あらはれる
   玻璃ごし捩花へゆび波へゆび    宮本佳世乃
   夕焼のだんだん首になるダンス
   あじさいやひとりで扉削っている   田島健一
   泉辺を去る時がきて二人の手話   
   本を読みながらちらつく青みどろ   鴇田智哉
   歯の裏の砦を無人機が狙ふ  




          撮影・葛城綾呂 ↑
   

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