2018年7月27日金曜日

高山れおな「駅前の蚯蚓鳴くこと市史にあり」(「俳句四季」8月号より)・・



 「俳句四季」8月号(東京四季出版)に、筑紫磐井による「俳壇観測」という連載記事がある。迎えて187回(月刊誌だから、約16年になろうとする超長寿連載である)は「速報!朝日俳壇新選者・高山れおなー最年少新聞俳壇選者から見る新しい俳句」である。それには、高山れおなについて述べた卓見がいくつもある。それは、いわゆる俳壇においてはバッシングとおもわれる褒貶を受けている朝日俳壇新選者の紹介に多くを費やしているのだが、何と言っても、高山れおながが生み出してきた俳句作品について、じつにまっとうに、俳句作品としての表現レベルの俳句史的な意味ついて高く評価をしている点である。彼の俳句を例に挙げて、

 だから、ありていに言えばもはやここには戦後俳句は存在しない。戦後俳句の誰もここまで到達していないからだ。それにもかかわらず「正統のインチキ」に対する糾弾という意味での兜太の承継を見ることが出来るのである。朝日俳壇の一層の変質を期待したい。

 と述べ、また、「高山の俳句の特色とは何であろうか」としたあとには、

①無季や自由な言語遊戯、②俳句の枠組みの破壊(しかし完璧な俳句)、③諧謔的社会性、④脱俳句性等であろう。これらは、一部は兜太の言語原理(例えば定型)を更に逸脱する新言語原理でもあった。もちろんそこには高柳重信や加藤郁乎、攝津幸彦らの前衛原理もそこはかとなく漂っていたが。

 とも述べている。いずれにしても高山れおなが結社を知らない俳人でありながら、また俳句に師匠が要らない格好の例(高山の作句信条に定家卿の「和歌無師匠只以旧歌為師」)としてあげ、攝津幸彦をはじめ「無結社」「無師匠」の系譜が現代俳句に歴然と存在することを言い、さらに『新撰21』(邑書林)の刊行を企画し、ブログ「俳句空間―豈Weekly」を中村安伸と運営し、もっぱら俳句批評に力を注いできたことや、そうしたことがなければ、現俳壇において、まさに層として、かたまりとして若手俳人の多くも登場しなかったにちがいない、と述べている。にもかかわらず、

 これほどの活躍をしながらも、角川書店の最新版「俳句年鑑」の主要俳人の活躍を取り上げた「年代別二〇一七年の収穫」の四二八名のなかには高山を上げていない。俳壇主流から疎外されていたという意味で、金子兜太によく似ていると思う。

 この疎外されていたという意味で、愚生は思い出したことがある。愚生が「俳句空間」(弘栄堂書店版)を編集していたころだから、すでに30年前のことになるが、そのとき、愚生は、金子兜太に「金子兜太読本」を作らせてもらいたいと申し込んだことがある。その時、金子兜太は「お前さんとこでやっていいよ。角川からは絶対に出ないから・・・」と言っていた。そして、金子兜太の年譜を武田伸一、書下ろしの論を安西篤にお願いし、その原稿はほぼ出来上がっていたのだ。ただ、愚生の非力、力不足により、「俳句空間」は休刊になり、ついに読本は実現することはなかった。その意味で愚生には、安西、武田両氏と兜太氏には返せない恩がある。
 時代は変わり、河出書房から「金子兜太全集」が出版され、「兜太ばかりがなぜもてる!」となって、兜太逝去後にさいしては「俳句」が総合誌ではもっとも重厚な読本(特集)を作った。だが、それは、兜太の俳句作品そのものへの評価というよりも、社会的な平和運動に寄与したことなどの影響が大きいように思われた。そして最晩年の兜太は、日銀時代に従業員組合長だった頃の思いを、その挫折した志をもう一度、今度こそは、死ぬまで手放さず、社会的な行為として闘い続けることを選んでいたのではないだろうか。
 ともあれ、同誌より高山れおな作品を孫引きしておこう。

   陽の裏の光いづこへ浮寝鳥        れおな
   麿 、変?
   吊革に葱より白き君は夢
   げんぱつ は おとな の あそび ぜんゑい も
   きれ より も ぎやくぎれ だいじ ぜんゑい は
   でんとう の かさ の とりかへ むれう で します

 高山れおな(たかやま・れおな)、1968年、茨城県生まれ。
  



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