2018年7月17日火曜日

佐山哲郎「果てしなき欲望を観る祖父とゐて入谷金美館便所臭いよ」(「塵風」第7号)・・



「塵風」第7号(塵風句会編集部発行、発売・西田書店)の特集は「映画館」、インタビューは、「ハビイ氏が語る 新宿昭和館の日常」。ブログタイトルに挙げた佐山哲郎の一首には、以下の前書がある。

 祖父は好きだった(と思う)。上野あたりの娘義太夫にも通っていたが、それが下火になったのか、小学生の私を出汁にして入谷金美館に私を連れていった。演者はなんと今村昌平の果てしなき欲望。青年長門裕之を誘惑する渡辺美佐子の色気に目を瞠った。

  果てしなき欲望を観る祖父とゐて入谷金美館便所臭いよ

 写真やイラストもふんだんなので、愚生のようなあまり映画館に通ったことのない者にも楽しめる。といはえ、愚生にも思い出がないわけではない。二十歳代なかば、下は店舗になっている三鷹駅前の団地に住んでいたころのことだ。ごく近くにあった三鷹オスカー?に仕事の休みの平日に暇つぶしに幾度か入った記憶があるが、見た映画は覚えていない。もう一つは、飯田橋は佳作座での解雇撤回闘争をしていた争議団の支援の、抗議申し入れ行動でけっこう行った記憶だけがある。遠い昔の話だ。
 本特集の記事の多くに共感させられたが、とりわけ、久保隆「『映画』をめぐる共同性の場所」に、

 歌舞伎というものは、わたしは観劇したことはないが、芝居の中で役者の通称名が客席から発せられるようだが、むろん、当時の文芸坐や昭和館の観客たちは、誰も歌舞伎座を観劇したことはない、といい切っていいと思う。例え清順映画に、歌舞伎的様式美があったとしてもだ。

というあたりの、挑発的なものいいには、思わず納得させられた。愚生もそうだったからにすぎないが・・・。ともあれ、以下に同号よりの一人一句を挙げておきたい。

  歌舞伎町一丁目一番地嫁が君        啞々砂
  あやとりのこの娘飽かずや花の雲      亞羅多
  中横と躑躅閉じつつ常世かな       井口吾郎
  三月の対話がうまくいかぬチェロ     井口 栞
  階段をヌードの降りる春の暮        伊 豫
  息白しラインダンスの端のひと      笠井亞子
  明日死ぬよと九官鳥は言わず       かまちん
  風飼いのかいやぐらから薄狼煙       ことり
  凍て窓を開け放ちたる幸福論        虎 助
  うらゝけし掃除当番だろお前       小林苑を
  余生とは期日なきもの初硯        小林暢夫
  「また独りごと言ってるし」言ってるし 近藤十四郎
  父の日のぼんやりかかる月の暈      斉田 仁
  みながみなみなしでいへばみなしぐり   佐山哲郎
  擦れ違うマスクの女みなふたえ       子 青
  春の夜の廊下が濡れてゐて怖い       月 犬
  白髪の息子がつくる蕪汁          貞 華
  春先の志村坂上女子多し          東 人
  ハクモクレン夜が余白へ流れ込む     長谷川裕
  木が切られ寒く晴れ             温
  革命の話枝豆尽くるまで          風 牙
  沙羅の花咲くここにをりいちにちをり    振り子
  アフリカやオクラを切れば星がある      槇
  啄木の酸ゆきサラドよ初夏よ       皆川 燈
  睡蓮の家まづ描いて街の地図       村田 篠
  病棟にマグロ解体ショーのデマ       喪字男
  吹かれてはたんぽぽたんぽぽから自由  山中さゆり
  いつまでとこの湯たんぽに問うている    由紀子
  新居者の鍵かけて出る春のをと       ラジオ



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