2020年3月31日火曜日

飯田龍太「春の鳶寄りわかれては髙みつつ」(「兜太」VOL.4 ・終刊号より)・・・



 「兜太」VOL.4・終刊号(藤原書店)、特集は「龍太と兜太 戦後俳句の総括」である。表紙に記されてある名誉顧問の金子兜太、そして、編集主幹・黒田杏子、編集顧問の瀬戸内寂聴、藤原作弥、残念なことに、芳賀徹は先日亡くなられたばかりだ。戦後俳句の総括という副題に相応しく、「龍太と兜太」である。しかも、兜太127句、龍太150句の自選句集が、編集長・筑紫磐井によって編まれていることは興味深い。兜太の生まれ年は1919(大正8)年、龍太は1920(大正9)年とほぼ同じである。文字通り、二人とも愚生の父の世代にあたる。乗り越えるべき壁であったことは当然の成り行きだ(愚生の非才を思い知らされるばかりだが・・)。記憶にあるのは、愚生が若き日、総合誌に初めて書かせてもらった論は飯田龍太論(「俳句とエッセイ」)、また、「金子兜太の挫折」(「俳句研究」)。内容は、ほぼ忘却の彼方だ。龍太と兜太の関係で思い出すのは、飯田龍太「長崎の一夜 ー金子兜太」(初出・「金子兜太全句集」附録『思い浮かぶこと』〈中公文庫・昭和56年〉所収)である。その結びには、

  (前略)その夜の歓談は、お互いに酩酊し、二十年近くたったいまは、もう記憶もさだかではないが、どうもこれが、兜太との初対面であったように思う。それほど気がねのない一夜で、ことに作品評価の点では、ことごとくわかれた。私が氏の作品に触れると、すかさず、
 「うん、あれは天下の名作です」
 くさしても即座に、
 「いや、天下の名作です」
 しかも一向に不愉快にならぬばかりか、なにがしという地酒に、一段と風味が加わる塩梅。こうもぬけぬけと自慢し、しかも相手を楽しくさせることが出来る、こんな特技は、考えてみると、明治以降の何万、何千万の俳人のなかで、あるいは高浜虚子と金子兜太ぐらいではないか。
 ただし、まったく対照的な俳人だというなら、その説にも反対ではない。

 とあった。もうひとつ、本誌の井口時男「野生とユーモア―前衛。兜太(四)」は、近年、兜太を論じて出色だと思う。今思えば、1968年末頃、夭折した中谷寛章が、指摘して、兜太を批判した「社会性から自然への成熟」は、50年を経て、井口時男によって、的確な評価となっていよう。それを、

 (前略)なるほど、兜太は社会性から自然へと撤退(・・)しつつあった。しかし、彼は、実存主義的人間ともつながる「存在」概念を媒介にして「自然」を発見したのである。
 したがって、この「自然」はたんに「天然」としての自然ではなく、あくまで「あるままの」「存在意識」の基底に見い出した人間的(・・・)自然である。

 と述べている。納得する。その井口時男は、『蓮田善明ー戦争と文学』(論創社)で令和元年度第70回芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。祝!



 さらに、もうひとつ、思い出話を・・・。仁平勝「天敵ではなくて」の次のくだりだ。

  (前略)あるパーティの席上で。誰かが私を紹介したのだと思う。
金子さんはいきなり、「うちの浜崎いうのがあんたの本のことを書いているが、私を進歩主義者と呼ぶのはやめたたまえ。あれは君の誤読だ。あとは書きたいことをかけばいい。私はそれを読むだけだ」というと、足早に去って行った。

 という場面だ。この時、愚生は仁平勝の隣にいた。仁平勝はさすがによく覚えていて丁寧に書いているが、愚生のいい加減な記憶では、「俺が近代主義者だって!」と金子兜太はやおら近づいてきて恫喝するような口調でいった。そのときの愚生らはむしろ兜太はスゴイと思ったのだ。愚生ら当時の若造のいうことにも、真剣に反論しようとしていたのだ(無視が相場の俳壇だった)。当然、大いなる誤解だが、兜太の眼に、愚生らは、宿敵のように言われていた髙柳重信一派だと思われていたフシがある。その後、愚生も幾度となく、兜太に会い、その後の仕事で、文學の森山本健吉賞の選考委員会や対談やインタビューなどで、立ち会ったりもした。兜太晩年の俳壇では、「兜太ばかりがなぜもてる」という雰囲気だったが、それもむべなるかなである。龍太の時代、兜太時代は確かにあったのだ。

   白梅や老子無心の旅に住む      兜太
   死にし骨は海に捨つべし沢庵噛む
   暗黒や関東平野に火事一つ

   紺絣春月重く出でしかな       龍太
   大寒の一戸もかくれなき故郷
   一月の川一月の谷の中




撮影・鈴木純一「軍手ではペットボトルが開けづらく脱げばすなはち触れるアルプス」↑

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