2020年3月8日日曜日

髙橋修宏「はらわたのなきすめらぎのすもももも」(「俳誌575」5号」・・



 俳誌「575」(草子舎)、編集後記に、「本書の装丁がデザイン展に入賞しました」とあり、その審査評の引用には、

  スイスタイポグラフィの本かと思い、手に取ると、なるほどと驚かされる。・・・あえて和風な表情にせず、サンセリフ書体の強めの文字を使い、新しい俳句の世界観を観じさせる。デザイン上の余白を多く取ることで、俳句の余韻も感じられ、心地よい・・・

 とある。論考、エッセイには打田峨者ん「だ。それは—―2019and」、後藤貴子「物の怪」、松下カロ「風の反語 中村苑子遠望」、武良竜彦「震災後詩学の彼方へ1 睦郎から六林男、そして道子へ」、髙橋修宏「六林男・断章十三 虚無の美学」、星野太「忌日の機能(二)」。ここでは、この度、「豈」同人になった打田峨者ん「だ。それは―2019and」のなかから、以下を紹介しておきたい。

  (前略)留守居猫 土間の凹みに青蜜柑
        *
  十一月某日。冷雨。白金のイタリア料理店に於て俳誌『豈』主催、第五回・攝津幸彦記念賞受賞式。正賞を愛く。副賞の『鳥子』『與野情話』(夫々元版)は募集時に告知がなかったゆえ、望外の喜び。受賞の言葉を求められて幸彦句二句を吟ずるを得る。即ち―「嬰児またもひんがしに馬かくしてな」「荒星や毛布にくるむサキソフォン」。後刻、嬰児句を『鳥子』の第27ページに見い出した時、この世で会ったこともない攝津幸彦その人と、言わば回天扉の風の中ですれちがったような感慨を覚えた。

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     冬ふと深みスハ横超のかまどうま 

 この『鳥子』『與野情話』の内、一冊は攝津幸彦の自筆サイン入りで、二冊を寄贈したのは、昨年、死去する以前に葛城綾呂が愚生に、差し上げて欲しいと託された句集だった。かつて、愚生とともに「未定」創刊同人の一人だった葛城綾呂の冥福を祈るとともに、副賞に相応しい打田峨者んに手交できたことで、安堵したのだった。本誌本号からあと一つは、髙橋修宏の論考の結びに記されている六林男の在り様への眼差しを挙げておきたい。

 (前略)いわゆる社会性俳句を代表する六林男は一貫して俳句形式の解体よりも固執を、俳句表現そのものの凝視と実践を通じて、渾沌とした戦後俳句における文学として行方を挑発しつづけた、もちろん、それは決して伝統への回帰などということではなく、あくまで俳句形式に対峙したときの〈個〉の問題として固執にほかならなかった。鈴木六林男の句作における方法=原理の基底には、一方では虚無的な心性と表裏をなす純粋美を求める憧憬が横たわり、時代状況への不安や絶望に似た感情が、より六林男の句作へと向かう強度を狂おしいまでに増殖させ続けたのではなかったのか。

 これらは、彼らの世代の多くが、背後に負い、逃れることのできない時代・戦争を抱えていたというこことに起因しているだろう。それは、愚生には想像もできない、過酷な絶対の境地をもたらしているにちがいない。
 ともあれ、以下に一人一句を挙げておこう。

  魔の山や厠と柩そろへてよ         柿本多映 
  止まり木に歌わぬ神もカナリアも     増田まさみ
  母が指す父の背中のゐのこづち       松下カロ
  水銀値・寡黙・曇天。天ツ川        武良竜彦
  山高帽子ありをりはべり仕舞いけり     後藤貴子
  遺棄されし液晶に泛く雪月花        髙橋修宏 



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