2020年5月18日月曜日

宇多喜代子「夏燕生存年齢のしるし」(『l暦と暮らす』より)・・




 宇多喜代子著『暦と暮らす』(NHK出版)、副題に「語り継ぎたい季語と智慧」とある。帯の惹句は、

 立春から大寒まで、俳句で語り継ぐ、昭和日本の「季語暮らし」の逸話集。俳優小林聡美さんご推薦!「宇多さんから『昭和』のバトンを繋ごう!」とある。

 昨日、愚生の目の前を燕が舞って行ったので、本書の中から「夏燕(なつつばめ)来ることの」を紹介しておこう。

     夕暮は人に近づく夏つばめ    大井雅人(おおいがじん)

 田植え開始のころ、田の水口に幤(ぬさ)を立て、田上に植える花や酒や煎(い)った籾(もみ)などを置き、田の無事を願いました。機械による農作業が普及するまでの昭和三十年代まででしょうか、このような景が見られたのは。
 祖父の没後、田宰領(たさいりょう)をやっておりました祖母は、その籾を田の神さんにまで運ぶ役目を担うのが燕だと信じていたようです。田神と山神は同じ神で、春に季節の神として遠くから来臨するという類の民俗信仰はひろく日本に分布していたようで、わが家の軒下に来る燕に対して好意的であった祖母の謂(いい)もこれに準じたものだったようでした。(中略)今も私には、いかなる民俗学の資料や論考よりも、春から夏の間の「燕」を見る祖母の顏つきのほうに納得できるものがあるのです。

 宇多喜代子は、愚生と同じ山口県の生まれ、同じような光景をみて育ったのだ。田んぼの草取りや牛や鶏への餌やり、野菜作り、冬は畑仕事で、それらを手伝ったこともある。その所為というわけでもないだろうが、その頃から、愚生は農業だけはやりたくない仕事の一つだった。だから、今でも(もうその体力は無いが・・)、たとえ家庭菜園であってもやりたくない。つまり、愚生には、農作業をするほどの根気はもとより無いのだ。

 燕は、春の社日(しゃにち・地の神に豊作を願う祭りに来て、秋の社日地の神に収穫の感謝をささげる祭りに帰ってゆくといわれていました。

 という。ともあれ、本書中よりの燕の句を以下に挙げておこう。

  来ることの嬉(うれ)しき燕きたりけり   石田郷子
  みちのくは草屋ばかりやつばくらめ     山口青邨
  つばめつばめ泥が好きなる燕かな      細見綾子
  燕来る軒の深さに棲みなれし        杉田久女
  山塊(さんかい)を雲の間にして夏つばめ  飯田蛇笏 
  燕去るや山々そびえ川たぎち        相馬遷子

 宇多喜代子(うだ・きよこ) 昭和10年、山口県生まれ。



★閑話休題・・・小川軽舟「男役トップの出待ち燕舞ふ」(「ふらんす堂通信」164号より)・・・


 燕つながりで「ふらんす堂通信」164号、今号では「競泳七句」の連載で、「後藤比奈夫先生はご体調を崩され、しばらくの間連載をお休みさせていただきます。4月から一年間にわたって西村麒麟さんにご参加いただきます」とあった。以下その連載一人一句を、

   あちこちに新茶旗立ち新茶買ふ      深見けん二
   ぁまぁしあわせ新茶のための湯を冷まし   池田澄子
   さう言へば新茶呉るるは君のみか      西村麒麟

 その他、巻頭のエッセイ、高橋睦郎「こわい俳句」は、眞鍋呉夫の「雪女あはれみほとは火のごとし」。



撮影・鈴木純一「死から生/蟻から蟻/生から死」↑

2020年5月17日日曜日

飯田龍太「冬ふかむ父情の深みゆくごとく」(福田若之「ここに句がある」より)・・




  「東京新聞」5月16日(土)夕刊、俳句時評欄の福田若之「ここに句がある」が、「〈文法の時代〉と伝統」の見出しで、

 雑誌『俳句αあるふぁ』は今年の春号に「俳句と文法」と題した特集を組んだ。編集部の署名のもとに、(中略)「史上もっとも文法に注目が集まり、句のよしあしの判断材料のひとつにしている」その一方で「古典文法勉強しないと使えないものとなり、教わった用法のみが正解であり、文法書に載っていない用法は「間違い」に見えるという、なんとも難しい時代」だという。(中略)規範意識に憑(つ)かれたある種の教条的な伝統主義に対し、同誌が編集部の名において生きた伝統を擁護する立場を明確にしたことに注目しておきたい。(中略)
 この一冊(愚生注・『飯田龍太全句集』)にも収められた《冬ふかむ父情の深みゆくごとく》という一句の自句自解に、おもしろいことが書かれている。「母情という言葉があるから多分『父情』という言葉もあるだろうと思った。ところが活字になってから辞典をみるとそんな字は出ていない」(中略)
 実際には、日本語における「父情」という語の用例は龍太の句より前に遡(さかのぼ)ることができるが、ここでは句をきっかけとした語の広まりに目を向けたい。伝統とは、こうしたいとなみのなかで繰り返し掴(つか)みとられてきたきたものだ。辞書にない言葉を否定するためにだけ辞書を持ち出すといったふるまいの貧しさを思う。そうしたひとの語彙(ごい)は、辞書を超えた言葉の豊かさに達することをついに知らない。

と、至極真っ当に述べている。




★閑話休題・・・虚子「秋風や眼中のもの皆俳句」(「枯野」創刊号より)・・


  愚生、資源ごみに出すべき古い雑誌などを少し整理していたら、すっかり忘れていた「枯野」創刊号(南方社・1982年6月刊)と第三号(1983年7月)が出て来た。それで一応このブログに書影を留めておこうと思った次第(「鵞」〈端渓社刊〉も少し出てきたが、FBで橋本直が購入などと言っていたので、資源ごみに出すのを思い止まった)。
 思い起こすと、ん十年前、「枯野」を何故購入したのだろうか。たぶん坪内稔典の連載「高浜虚子1/〈花鳥諷詠の思想〉」を読みたかったからにちがいない。「枯野」の発行は「枯野の会」で発売元が南方社である。副題に「日本文学研究誌」とあり、執筆者のなかに、当時立命館大学の教授だった国崎望久太郎「真渕歌論の構造」、「本居宣長」が別格のようである。その坪内稔典「花鳥諷詠の思想(上)」には「山本健吉は、高浜虚子には『及び難い東洋的大人(たいじん)の風格』があると言った」と書き出されている。

 (前略)明治三十六年に、
   秋風や眼中のもの皆俳句
 と詠んでいた虚子にとって、大正元年の俳壇復帰以来は、それ以前にもまして〈眼中のもの皆俳句〉でああった。眼中のものすべてが俳句になりえたのは、自然に随順することで日常を優遊の場に化したからだが、そういう句が〈大人の風格〉と見え、そうしてそんな句を書く虚子が〈大器〉と見える、そこに日本近代の人々の生のあり方がうかがえるのではないだろうか。それは、圧倒的に多数の人々の生であり、近代日本を支えた基層としての生であった。

 そして、「枯野」3号「〈花鳥諷詠〉の思想(下)」では、「近代日本における〈家〉は激しい解体にさらされていた」として、

 (前略)しかし、その困難を、〈家〉と〈個人〉の対立として把握するとき、ことに〈個人〉を優位において〈家〉を否定的に捉えるとき、私たちはしらずしらずのうちに或る歪みを正当化しているおそれがないとは言えない。〈家〉が、私たちの多くが根ざしている場所である限り、その〈家〉を積極的に評価する視点をも欠くべきではないだろう。
 ともあれ、虚子にとって〈家〉は、否定的な対象ではなく、積極的に仮構された生の拠点であった。そうした虚子の〈家〉に注目するとき、はたして何が見えてくるだろうか。

 と書きつけている。坪内稔典、たぶん38歳、38年前のことである。


2020年5月16日土曜日

攝津幸彦「懐手犬と月とに触りけり」(「子規新報」第2巻・第78号より)・・




 「子規新報」第2巻・第78号(創風社・子規新報編集部)、三宅やよいが連載エッセイを始めたらしい。タイトルは「動物アラカルト 1」である。「犬」「イヌ」などの呼称には差別や蔑視があることなどに触れつつも、ブログタイトルにした句については以下のように記している。

   懐手月と犬とに触りけり   摂津幸彦

 この句にいる犬は現代の生活のあちこちに存在している犬だろうか。手を差し込んだ懐の闇。その温みは犬の体温のようだが、それと真逆にひやりと冷たい月が並列に述べられているのが不思議だ。手に触れる感触と同時に月に向かって吠える犬のイメージが立ち上がってくるのは「懐手」という古風な言葉の作用だろうか。もはや着流しに懐手をする男の姿も、月に吠える野性的な犬も失われたものであるがゆえに、古典的な犬と月との原風景が呼び起こされるのだろう。

 ところで、愚生の年齢だと、犬と言えば、すぐにも思い出すのが、「草田男の犬論争」の犬の句、

   壮行や深雪に犬のみ 腰をおとし   草田男

 であるが、そうすると、三宅やよいの言うように、たしかに、「(前略)さまざまな俳句にいる動物たちも時代によって違う顏を持っているのではないか」ということになろう。因みに、「懐手」の句は、攝津幸彦第4句集『鳥屋(とや)』(富岡書房、1986年刊)所収。
 他に、本号の「子規新報」の特集は「中川青野子の俳句」である。その略年譜に、1962年、松村巨湫の死によって、「『樹海』終刊後も『樹海同人』の自恃をもって以後、他のいずれの俳誌にも属さず」とあった。「樹海」といえば、思い出すのが、彗星のように戦後俳壇に現われ去った、鈴木しづ子の所属した俳誌であった。ともあれ、いまどきは珍しい、中川青野子の自恃に敬意を表して、「中川青野子30句」(小西昭夫抄出)から、いくつかの句を挙げておきたい。

   春光の一つが動く乳母車       青野子
   青大将消えたる草のまだうごく
   石に腰おろして吾も枯れゆくか
   書き初めや一といふ字を百あまり
   広島忌首突き出して鳩あるく
   冷奴まづ直角のところより
   雪片のぶつかるもあり日本海
   水入れるプールに星のふえうつあり

 中川青野子(なかがわ・せいやし) 1926年~2002年、享年77.

   
   
 撮影・芽夢野うのき「ばら散らす風の名前は俄交尾(にわくなぎ)」↑

2020年5月15日金曜日

三島広志「死の見ゆる人と新茶の話など」(『天職』)・・




 三島広志第一句集『天職』(角川書店)、序は黒田杏子「『天職』の作者」、その中に、

 (前略)「藍生」の賞もほとんどすべて受けて下さっている。何年間も「游気通信」という個人誌も発行されている。その通信を愛読していた私は、この三島広志という俳人が、東洋医学を出発点として、西洋医学その他を含む幅広い手法で人間のいのち、生と死を深く見つめる治療家になってゆかれる過程をまのあたりにしてきた。
 人間のいのちを見つめ、そのいのちをよりよく護り、看とってゆく専門家のひとりとして、日々活動を持続している人物となられたのだ。

 とあった。集名に因む句は、

   天職の一生と想へ石蕗の花      広志

 である。黒田杏子は言う。

 一生と想へ。いつしか作者の心の奥にこのような想念が生まれ、定着してきた。(一生想ふ)ではない。〈想へ〉と書いて、あらためて来し方を振り返る。石蕗の花がよくこの一行を支え、受けとめている。『天職』という句集名を提案したのは、私であるが、この句一句から発想したのでは全くない。この二文字はこの人の治療家として前進を続けるたゆみない人生を遠くから、三十年間選者として見つめつづけてきた私の心にごく自然に浮かんできた日本語なのであった。

 また,著者「あとがき」には、

 句集を編む気は全く無かった。
 人生と俳句を一如と為すのが俳人、明確な意図を持って俳句を創作するのは俳句作家。自分は俳句と適度な距離を置き、生活者として趣味的に関わっている俳句愛好家だ。伝統を掘り下げ未来へ繋ぐ意志もなければ、未開の地を開拓する力量もない。そんな理屈から句集を編む気は全くなかった。

 とあり、それでもそれなりの契機があって、宮澤賢治の次の詩にも鼓舞されたようである。

  手は熱く足はなゆれど
  われはこれ塔を建つるもの

  滑り来し時間の軸の
  をちこちに美ゆくも成りて
  燦々と暗をてらせる
  その塔のすがたかしこし

 私も滑り来た時間の軸のあちこちを記した俳句を、我が塔として句集をまとめようと思った次第である。

  と記されている。ともあれ、集中より、いくつかの句を以下に挙げておこう。

  朝顔や焦土を知らぬ足の裏
  穀象のしんしんと這ふ月明り
  いつからを夕空といふ桐の花
  寒月や皿にかたよる剥きたまご
  冬の雷大都の塵にまみれむと
  胎内も命終も闇こがね虫
  本の蛾をやさしく強く吹き飛ばす
  雪霏々と地表すなはち天の底
  生き延びし父の早世原爆忌
  遠山櫻治らぬ人に触れてきし
  朝櫻濁世に生きてこののちも
  炎天を来てまた戻る処世かな
  また一人看取の汗を拭きて来し

三島広志(みしま・ひろし) 1954年、広島県生まれ。



          撮影・染々亭呆人「円光寺・原民喜の墓」↑

2020年5月14日木曜日

渡邉樹音「木蓮のひとひらマスクになら足る」(「第12回ことごと句会」)・・




 「ことごと句会」(第12回)、とりあえず、4月18日(土)の開催ということになっているが、愚生ら、おとなしき民草は散歩にも出ず、ましてや句会などという密なる会合などするはずもなく、善良なる自粛のもと、ひたすら、文通のみによって、通信句会などという名に甘んじての所業である。かつ、その郵便物も、雨は避けるものの、日に晒し、ウイルスなるものは、紙上にては、一日で死滅すると言われたことを固く信じて、そのまま、最低一日は外に放置、もしくは、郵便箱に入れたままで、翌日に取り出し、かつ消毒用アルコールをしめした紙で、表面を拭き取り、開封前には泡石鹸で手指をよく洗ってようやく、皆さんの句稿にまみえるという次第だったのである。
 かくも用心深くしているに、老齢のせまる身なれば、ウイルスに感染するのもイヤだから、と言いつつ、むしろ、筋力の衰えを日々痛感し、足許こころもとなく、歩けなくなる有様で、やむなく、屋内にて、伝授された太極拳の片足立ちなどをして、その場その場をしのいでいる有様・・・。それでも、それでも、良い句にめぐり会えればという一心、至福のときを得られるにちがいない、とばかり、希望の病にとりつかれている始末である。・・・愚生の下らぬ愚痴、ご託はともあれ、以下に一人一句を挙げて、いささの慰めとしておきたい。投句は3句+兼題「駅」一句、の合計句。

   春愁珈琲カップも落日も        渡邉樹音
   爪立ての猫春陽をたぐる示唆      照井三余
   君を待つ終着駅の初音かな       武藤 幹
   右利きの右指を刺す春の棘       金田一剛
   血まみれの鳩よお前は父を棄て     大井恒行

 次回の投句締め切りは、5月23日(土)、3句+兼題1句「綿」=4句。



撮影・芽夢野うのき「どこか似ている水音と月見草」↑

2020年5月13日水曜日

小川弘子「園丁寡黙私黙然桜餅」(『We are here』)・・

 


 小川弘子句集『We are here』(ふらんす堂)、跋は坪内稔典「グレープフルーツの咲く家で」、栞は火箱ひろ「坂の家物語」。その火箱ひろは、

   We are here We are here 夏鶯
 
 句集の題になった句だ。「あとがき」に説明がある。海外に住む娘や孫、頼りにしている息子、家族揃ってご主人のゆかりの地を訪ねたとき、皆でこの言葉を叫んだという。バイリンガル一家らしい温かないい話だ。
 その時はしきりに鳴く夏鶯を、ご主人が来ていると感じて唱和したのだ。この俳句を詠んだことで、永遠にご主人と共にいる意識が深まったのではないか。心に思えば、鶯や風になったり、獣になったりして傍らに来てくれる。生涯口ずさめる夫恋の俳句があるのは幸せだ。 

と語っている。また、著者「あとがき」の冒頭は、

 表題を「We are here」にするまで、少し迷いました。今は亡き夫が少年の頃、科学学級の生徒として広島県の深い山里のお寺に集団疎開していました。昨年家族とそこを初めて訪れたとき、山でしきりに鳴いていた夏鶯に向かって、皆で呼び掛けたのがこれです。

という。少しシンとした。跋の坪内稔典は、

 さて、小川家句会だが、二時間くらいの句会が終わると、二次会に移行する。弘子さんが数日かけて用意してくれた弘子料理が待っているのだ。イギリス製の大きな皿、フォークとナイフが卓上に並び、息子の伸彦さんが肉料理などを配ってくれる。庭のハーブを摘んだハーブ茶が芳香を放つ。もちろんビール好きはビール、ワイン党はワインを飲む。
 小川家句会の会費は一人千円。かなりのお得感がある。その質において、この句会はとびきり上等だ。いや、これこそがまさに句会なのだと私は思っている。これに類する句会がいくつかあって、それらの句会が私の俳句生活の基礎をなしている。

 と記している。ともあれ、集中より、愚生好みになるが、いくつかの句を以下に挙げておこう。

   萌黄莊住む人萌黄春の空         弘子
   洋行といわれし頃のパナマ帽
   病院のエレベーターでキス五月
   コーヒーはブラック雑念は鶏頭
   シェリー抱き春の坂来るひとはだれ
   みじん切りとか一口大とかうらら
   麦の青すこし猫背の母が来る
   病妻を抱える夫のパナマ帽
   夏草を抜く派抜かぬ派そしらぬ派
   初夏や恒久と鳴く山の鳩
   登り来て吾より高き芒かな
   パピルスの栞挟むや一葉忌
   
小川弘子(おがわ・ひろこ) 1938年、和歌山県生まれ。



   撮影・芽夢野うのき「五月の鳥は舟のかたちの雲に乗る」↑

2020年5月12日火曜日

柴田南海子「淋しいぞわが塚に掘れ蟻地獄」(『朝ざくら夕ざくら』)・・




 柴田南海子第5句集『朝ざくら夕ざくら』(東京四季出版)、平成24年から令和元年まで8年間の句をまとめたもの。序文は坂口昌弘「目を凝らすことが祈り」、その中に、

    湖心まで詩心飛ばせと青嵐
    おほぞらを詩の一塊鳥渡る
 
 作者はいつも「詩」「ポエジー」を意識している。基本は客観写生であるが、単純な写生だけでは俳句を詠む心が満足しないようだ。湖と青嵐だけの風景には満足できない心がポエジーのようだ。詩心が青嵐にまきこまれる。心という主観が客観的風景と合体する主客一致の句風である。

 と述べている。句集名については、

   詩乞ひの目を朝ざくら夕ざくら    南海子

 の句から採ったと「あとがき」にある。また、

 「太陽」創刊以来十八年間、輝く嶺を目指しながら遠い道のりを「太陽」の仲間と旗を振りひたすら歩いて来ました。クリエーターとしてみずみずしい感性が湧き出る詩の泉を胸中にと願いながら。太陽創刊二十周年への魁の一つとしてこの一集を眺めて頂ければ幸いです。

 とあった。ともあれ、愚生好みになるが、本集よりいくつかの句を以下に挙げておきたい。

  神すさび異臭の霧を火口より
    悼津田清子先生
  津田清子師立夏の宙へ還らるる
  隠し井は逃散の口笹子鳴く
  青き踏む龍湖の照りを爪先に
  終命を水鏡して枯蓮
  右取れば詩魔の径なり青葉騒
  大瑠璃や杉の乳房が張る不思議
  遺跡への出入り自在や行々子
  千手より無尽の爽気観世音
  白萩のそより亡き人来る夕べ
  桜紅葉散るありなしの風にさへ

 柴田南海子(しばた・なみこ) 昭和15年、兵庫県明石市生まれ。




  撮影・中西ひろ美「ここだけはいつもどおりの行々子」↑