茨木和生『季語を生きる』(邑書林)の季語に関することについては、愚生の出る幕もないので、云々しないが、最終章「繋がる交わり」に収められたエッセイは実に身近な感じがする。
後藤綾子が亡くなって、宇多喜代子宅で行われるようになった句会では、その手料理の素早く出てくることといい、またその料理の品数のことなど、愚生もかつて、仁平勝と一緒に泊めてもらったとき、酒宴の後の夜おそくだったにも関わらず、さっとお茶漬けが出てきたり、翌朝の味噌汁の美味だったことなど、つい思い出してしまった。
また、中上健次の熊野大学で「運河」同人の松根のオジ(松根久雄)との殴り合いの喧嘩になった件には、
ある日、熊野山中の温泉宿でだったか、松根のオジと健次さんが「お前ら知るかい」と取っ組み合いの喧嘩を始めた。
ぶんなぐりの喧嘩を始めようとする二人に、宇多さんは健次さんを押え、私は松根さんを羽交い絞めにして引き離した。松根のオジは私の言うことを聞いてくれるほうだったし、健次さんは宇多さんを年上の俳人として尊敬もしていたから、二人が中に入って止めると、そんなに大事にならないで、翌朝には、「おい、健次よ」「なんない、オジよ」と仲直りしていた。しかし、宇多さんの脚には大きな青あざができていた。健次さんの仕業である。
あるときは、また、
なんのことからか、健次さんの分の悪い話になってゆき、逃げ場のなくなった健次さんが宇多さんを殴ったことがあった。そのとき、私もびっくりしたのだが、宇多さんはすかさず健次さんの頬に平手打ちを食らわした。あっという間のことだったが、その後健次さんはおとなしくなってしまった。
何ヶ月かの後、「あのとき健次の腎臓癌、進んだったんやねぇ」と松根のオジはつぶやいた。
その昔、愚生は「俳句空間」で中上健次と夏石番矢の対談に立ち会ったことがある。そのテープ起こしの校正に、実に細かい字で、それが行われていたのを思い出す。中上健次は原稿用紙を使わずに、大学ノートに細かい字でびっしりと文字を埋める作家だったのだ。
超零細の「俳句空間」では校了にしてから、大出版社や週刊誌のように、数日で本になるなんてことはない。中上健次が折悪しく海外に行って連絡のうまく取れなかったこともあって、校了ぎりぎりで冷や汗をかいたのだったが、そうした事情は、中上健次は知る由もなかった。また、愚生が三鷹に住んでいたころ、駅前に、今は無き第九茶房という下が本屋で、二階が喫茶店だったのだが、そこに中上健次がよく来ていたことを思いだす。松根久雄には、今は失念してしまったが、書肆山田から見事な句集が出ていたはずである。
そして、南方社版「現代俳句」に坪内稔典からの依頼で『枯木灘』を芯にして「中上健次論」を書いたこともあった。それもこれも30年近く前のことだ。
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