2016年2月29日月曜日

田中三津矢「定型の軋みー火渡周平に聞く」(「戦後俳句史研究会 会報2」)・・



あるコピーの探しものをしていたら、「戦後俳句史研究会 会報」2冊(会報1・昭和57・9・26、会報2・昭和58・12・10)が出てきた。
すっかり失念していたのだが、田中三津矢が「会報1」に「火渡周平の戦後」を書き、「会報2」では「定型の軋みー火渡周平に聞く」と題して、火渡周平へのインタビューと、さらに「火渡周平自選百五十句」では,句集『匠魂歌』以前と以後の句も収録されているのであった。
他にも、妹尾健「アジア的感性についてー二年間を顧みて」として1981年1月から毎月行われた戦後俳句史研究会の総括もしている。報告者には、大本義幸、坪内稔典、宇多喜代子、江里昭彦・増田まさみ・富岡和秀、今井豊、鈴木六林男、三浦健龍、亘余世夫、徳弘純、中岡毅雄などの想い出深い名も挙がっている。
会報の発行人は妹尾健・富岡和秀、事務局は大本義幸・田中三津矢がそれぞれつとめていた。
越川憲司歌集『拗音』の書評を大本義幸が書き、掉尾を以下のように記しているのが改めて眼についた。

 越川憲司『拗音』は内なる母親殺しの儀式であり、以後の彼は、犯罪というものを主要な考察の材料として人間を追及する方向へとむかっているのだとわたくしは考える。劇画や映画や絵画は、夢みられる犯罪のテキストとして彼の内で位置しているにちがいない。

現在では、もはや忘れてしまっている人が多いと思うが、歌人・越川憲司とは俳人・江里昭彦でもある。当時の彼は、俳句と短歌を同時に書いていた。

   孫抱きて入水のさまに母屈み                  昭彦

   レマン湖のそのときは秋
     いとけなき吾を抱(いだ)くに腰を抱(だ)く母        憲司

話題を、伝説の俳人となっていた火渡周平にもどそう。
インタビューなかでは、「俳句の伝統というもの」という小見出し部分で、以下のように語っている。

  今の時代の俳句を見ていると、手の内を覗かれているような作品が多いですよね。私は「花鳥昇天」の頃から、つとめてそのような事を排除してきたつもりなんですよ。俳句は、哲学・宗教・観念を超えるものですから、何もかも捨て去ったところから産まれるものです。哲学的・宗教的・観念的であっては、駄目なんです。そうすると、どうしても「ホトトギス」の虚子の写生で満足出来なくなり「爛々と昼の星見え菌生え」の句となり、もうひとつ屈折したものを作ってゆこう、と思ったんですよ。それが歯車となって、私の俳句意欲をかきたてたんです。

以下は、火渡周平自選百五十句より・・・

    半身は薔薇 特攻機炎上す          周平
    セレベスに女捨てきし畳かな
    東西に南北に人あるきけり
    中心に生殖器あり毬投ぐる
    水泡(みなは)より美しき旅了りしや
    鶴の檻 鶴の頭が 指先へ
    兄弟(はらから)よ鳥居が泳ぐ夕ざくら

火渡周平(ひわたり・しゅうへい) 1912年~1994年。大阪府生まれ。




    

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