2018年3月11日日曜日
福島泰樹「わが夢のあおく途切れてゆかんかな旗焼くけむり空に消えゆく」(『下谷風煙録』)・・
福島泰樹第30歌集『下谷風煙録』(皓星社)、自序には6首の短歌が文中に配されている。飛び飛びに綴れば、
まなこ瞑ればいまし帝都の上空を飛行船ゆく涙拭いき
(略)遷都により、「江戸」が東京と改称されたのは、慶応四(一八六八)年七月、下谷はその後、明治十一(一八七八)年になって「郡區町村編制法」により東京府十五區に編入され「下谷區」として発足した。(略)戦時体制下の昭和十八(一九四三)年七月、都制が施行され「下谷區」は東京都に編入された。
私はこの年、都制施行前の三月に、下谷區下谷一丁目の病院で生まれている。したがって私は、最後の東京市民としてこの世に生を受けたことになる。
旧東京市民にあれば潔癖の窮屈きわまりなき美意識の
長じて、そんな私の個人史を殊更羨む人々と出会うようになる。大正十一年、府下田畑(北豊島郡滝野川町)に生まれた中井英夫、昭和二年、府下日暮里町(北豊島郡)に生まれた吉村昭。昭和四年、府下和田堀町(豊多摩郡)で生まれ、幼児期を日暮里で過ごした小沢昭一。(略)
焼跡に草は茂りて鉄カブト 雨水に煙る青き世の涯(はて)
(略)私の父は明治四十三年(一九一〇)年八月、東京下谷區入谷町一一一番地に生まれた。大逆事件の年である。
その角を曲がれば夜霧に咽び泣く金竜館の灯(ともしび)いずこ
大正十二年九月一日、中学校の始業式とあってこの日、父は級友を誘って早めに帰宅した。(略)九月十六日、妻の伊藤野枝と甥の橘宗一を連れて帰宅途中、府下柏木の自宅近くから東京憲兵隊本部へ連行虐殺。三人の遺体は本部内古井戸に投げ捨てられた。
女らのいとけなきかな奔放に生きしは井戸に投げ棄てられき
(略)慶応三年生まれの祖父も、明治十五年生まれの祖母も、明治四十三年生まれの父も、大正六年生まれの母も皆、下谷で死んでいった。(略)
この俺の在所を問わば御徒町のガードに灯る赤い灯である
と記されている。
福島泰樹には恩義がある。愚生の第二句集『風の銀漢』(書肆山田)の解説(跋)を清水哲男とともに書いてくれ、『本屋戦国記』(北宋社)の出版記念会(愚生唯一の)では、ねじめ正一の詩の朗読とともに短歌を絶叫してくれた。愚生はといえば、下北沢で行われた(会場名は失念)短歌絶叫コンサートの第一回目(まだ短歌朗読だった頃)を聴いている。その時のライブ版にブラボーの愚生の口笛が録されていた。また、「早稲田文学」や「月光」に俳句を書かせてくれたのも福島泰樹だった。あれもこれもはや30数年以上前のことだ。そして、福島泰樹は死者の魂を呼びもどすように短歌を詠い続けている。かつて20代の頃、藤原龍一郎と福島泰樹の短歌は涙無くしては読めない、と言い合ったのも思い出だ。
以下に、集中より幾首かを挙げておきたい。
二〇一六年七月七日、永六輔死去
浅草ッ子その天然の早口の爪先だって走りゆきにき
歳月の彼方にいまも燃えている曼珠沙華よりあかくせつなく
人間はどんなときにでも飯をくわなければならぬ(「日本の悪霊」)
じくじくと胃の痛むとき洗っても落ぬ血糊の 髙橋和巳よ
三島由紀夫蹶起の報を知らせくれしは立松和平いまだ学生
塒(ねぐら)を探して三日三晩飲んだくれたことがあった
「ヤスキサン何デソンナニ元気ナノ」清水昶の口癖だった
現実を忌避するためかいや違う倒錯をして虐げるため
淋しくばみな分けてやる呉れてやる春ろうろうと闌けてゆくべし
肋骨を剔出(てきしゅつ)されて喘ぐゆえ鉄拳制裁わが父知らず
螺旋状に吹きくる風のありしかば身を反り出して受け止めてやる
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