2019年3月15日金曜日

永瀬十悟「村ひとつひもろぎとなり黙の春」(「小熊座」3月号より)・・




 「小熊座」3月号(小熊座俳句会)の武良竜彦「俳句時評」は「八年目の『震災詠』考(1)ー永瀬十悟氏の深化する非日常の眼差し」の指摘は、だれが震災詠をわがものとして(当事者であるか否にかかわらず)深化させてきたかを論じている。ブログタイトルにあげた「村ひとつ・・」の句には、

 「ひもろぎ」とは古語で「ひもろき」といっていた神事で、神霊を招き降ろすために、清浄な場所に榊など常緑樹を立て、周りを囲って神座としたものである。畏敬の念をもって、無人と化した荒涼たる「帰還困難地」が表現されている。

 と述べる。あるいは、

 第二章「三日月湖」には、「原発事故後、放射線量の高い地域が三日月湖のように残された」のパラフレーズが置かれている。(中略)

  鴨引くや十万年は三日月湖
  月光やあをあをとある三日月湖  (中略)

 春になり北方へ帰っていく鴨の群れのことを季語で「引鴨」といい「鴨引く」という。そんな生物の生態的リズムの地球的命の様。句はそこで切れて、「十万年は三日月湖」と続くが、この「は」は曲者だ。素直に地球史的大地の変遷の永い時の表現と読んでもいいが、放射線物質の無害化に要する時間という途方もない環境破壊、人類への加害性を象徴する時間でもあるという知識は、原発事故によって一般人が知ることになったことだ。

 とまっとうに読んでいる。今号の本誌の特集は、金子兜太の一周忌に因むと思われる「追悼 金子兜太」である。関悦史「極私的兜太忌」、小田島渚「世界のはじまり」、樫本由貴「時の中の芽吹き」、菅原はなめ「平和と自由の俳句」、各氏とも自らに引きつけてあって、読ませるエッセイである。さすがに関悦史は、兜太の人柄、あるいは唱導してきた言説について踏み込んで評している。例えば、

 兜太がいうアニミズムとか生きもの感覚とは、個人の枠を抜け出ての、他の生命との交感というふうにひとまず理解できる。しかしその交感は兜太の場合、肉体を離れて浮遊する精神や魂といった手応えのない抽象性に場を移して行われるわけではいささかもなく、あくまでも、弾力に富んだ、野太い肉体感覚を保持したまま行われるものなのだ。(中略)兜太の講演に必ず出てきていた秩父音頭とは、その原体験に他ならないから重要だったのだ。(中略)
 兜太が一茶や山頭火を参照し始めたり、アニミズムを口にし始めたりと、次々に重点をシフトしながら、つねに一線に居続けたことを「転向」と見る向きもあるかも知れないのだが、これはむしろ、時代の変化に応じて生き続けていくなかで自分の核心部分を彫り上げていく営為だったのではないか。

 と、述べている。



★閑話休題・・・『金子兜太戦後俳句日記』第一巻(白水社)・・・・


「小熊座・金子兜太追悼」つながりで、『金子兜太戦後俳句日記』(白水社)、全三巻の発行予定である。解説は長谷川櫂「兜太の戦争体験」、それには、

 金子兜太は六十一年間、ほぼ毎日、日記をつけていた。はじまりは一九五七年(昭和三十二年)一月一日、終わりは二〇一七年(平成二十九年)七月三日、正確には六十一年七か月と三日、兜太の年齢でいえば三十七歳元日から九十七歳盛夏まで。一八年(平成三十年)二月二十日、九十八歳で亡くなる七か月前まで日記を書き続けたことになる。
 逝去後、十八冊の三年日記と八冊の単年日記、計二十六冊の日記帳が遺された。
(中略)
 日記の書かれた時代は戦後の昭和と平成、二つの時代にまたがる。そして昭和を生きた兜太と平成を生きた兜太は明らかに印象が異なる。単に年輪を重ねただけのものではない。
(中略)
 「末期的大衆俳句」とは一言でいえば批評を喪失した俳句のことである。平成三十年間の俳句大衆は兜太とは何か、兜太の俳句とは何か、兜太俳句の方法とは何かと問う代わりに、兜太を長寿社会のシンボルの一人に祭り上げた。

と記されている。本日記は著作権者である金子眞土の校訂をえているが、日記の総てが収録されているわけではない。「俳句関連の記述を中心に収録し、必要最小限の範囲でその他の部分も補足した」(凡例)とある。従って、1957年2月2日からの収録になっているが、有難いことに「日記全体の雰囲気を知ってもらうために」(解説)、長谷川櫂は一月一日を入れてくれている。それを以下に引用する。

  一九五七年(昭和三十二年)一月一日(火)晴
九時半、家族寮夫妻一同、表に集まり、新年のご挨拶。着物の苦労するご夫人もいるとか。
 十時半、銀行の監査室で店の者一同祝賀。文書課長、最後に「支店長万歳!!」と三唱したのは大傑作。マージャン。調査役訪問。彼大いに傍系の苦況を語り、へベレケに酔う。帰り、またマージャン。

 こうした、日銀に関する記述の多くは略されているのだろう。下世話な愚生などは、それも読みたいと思う。もちろん、俳壇状況が当時のリアルタイムな感情としても読めるというのは、たしかに一級資料である。因みに第1巻の月報は、稲畑汀子「金子兜太さん」、佐佐木幸綱「造語とあだ名」、藤原作弥「日銀時代の金子兜太」、前川弘明「長崎時代の金子兜太」、安西篤「『海程』創刊時の金子兜太」。
 第一巻の収録期間は、1957(昭32)年(兜太・37歳)~1976(昭51)年(56歳)。第二巻発行予定は本年8月。

金子兜太(かねこ・とうた) 1919年~2018年、享年98。埼玉県比企郡小川町生まれ。



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