2019年3月26日火曜日

草間時彦「ほのめきて恋に至らず利休梅」(「汀」4月号より)・・・



 「汀」4月号(汀発行所)、連載に堀切実「最短詩形随想(四)ー取合せ文化」に石井隆司「烏兎怱怱(4)ー十六句」が、それぞれ面白い。ここでは、愚生の思い出もあるので、石井隆司のエッセイにする。じつは、前月3月号での「烏兎怱怱(3)-俳句のために」は、石井隆司が仕事上で初めて出会った俳人が草間時彦であり、

  「石井君、俳句のために、とにかく頑張ることだよ」。
「俳句のために」と言って励ましてくれた、最初の俳人が草間時彦先生だった。

 と述べている。当時、草間時彦俳論集『伝統の終末』(永田書房)を上梓していたが、彼の師の石田波郷が俳句の弔鐘は俺が打つといったというような「昂然たる自覚」について、高柳重信は、

 (前略)だが、草間時彦の終末観には、もはや、そのような昂然たる意気は、どこを探しても見当たらないのである。(中略)
 もちろん、あらゆる終末観と全く無縁の定型詩人など、この世に存在するはずはないし、俳人とは、いつも何かに向かって踏みとどまろうと志す者である。草間時彦も、その例外であろうはずがない。

 と「俳句研究」(昭和52年7月号、特集・草間時彦)の編集後記に記している。そしてまた、ときに高柳重信は、草間時彦の立ち居振る舞いについて、敬意をもって語っていた。俳句文学館創設の最高責任者・理事長になるについても、「鶴」を辞し、結社からは無所属の俳人なったこと、不偏不党の立場で文学館を創ることに尽力したこと、そうした俳句への無私の志についてなどであった。前述の「石井君、俳句のために・・・」という言葉に出会って、愚生もそれらのことを思い出したのだった。そういえば、高柳重信もよよく「俳句形式のために」、また阿部完市は「俳句の神さまのために」とよく言っていた。こうした言説を、今の俳句界から聞かなくなって久しいような気もするが、それも時代の流れなのかも知れない。
 本誌今号の「烏兎怱怱(4)」は、石井隆司所蔵の草間時彦の手作りの小冊子『俳句(十六句)』(英訳・中国語訳付)の紹介と、それにまつわるもので、

 (前略)この冊子の扉には、先生の次の一句が肉筆で書かれてある。
   ほのめきて恋に至らず春隣     時彦
 (中略)句の初出は、NHK・BS放送で放映されていた「俳句吟行会」に出句されたもの。抒情の濃い句だが、当時の私はこんな句が大好きだった。
 しかし、数か月後の俳句総合誌を見て、私は驚愕した。
   ほのめきて恋に至らず利休梅    時彦
 一句に賭ける俳人の熱情を知らされ、同時に先生の作句工房を垣間見た思いだった。

 と述べている。当時も今もたぶん、本質的には変わってはいないと思うが、初出句を推敲によって変えていく俳人は多くいた、と思う。むしろ、現在の俳人が雑誌に掲載した句をそのまま句集に収録するなど、句集収録句数の多さにもつながっているのではなかろうか。これも時代の流れというものであろうか。愚生の若い頃の句集の収録句数は100句台からせいぜい250句、300句くらいだった。しかし、句の中味は濃かったような・・。
 折角だから、16句を以下に孫引きしよう(原句は総ルビだったらしい)。

   冬薔薇や賞与劣りし一詩人     昭和29
   出船あり春外套に夕日泌む     昭和32
   馬車の荷の百花に風や復活祭    昭和35
   運動会授乳の母をはづかしがる   昭和35
   泳ぐ少年見守る少女夕蜩      昭和36
   掌に満てり音のさみしき胡桃たち  昭和36
   三月の風は移り気花売女      昭和38
   原爆度ドーム仔雀くぐり抜けにけり 昭和42
   花野から虻来る朝の目玉焼     昭和45
   恋せむには疲れてゐたり夕蜩    昭和46
   咲き満ちし椿の中の恋雀      昭和47
   犬のみに許す心や秋時雨      昭和47
   オムレツが上手に焼けて落葉かな  昭和49
   橋暮れてかりがねの空残りけり   昭和52
   人声の登りゆくなり枯木山     昭和55
   冬の夜のスープに散らす青パセリ  昭和58
   
草間時彦(くさま・ときひこ)1920年5月1日~2003年5月26日、東京府生まれ。


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