2019年3月13日水曜日
多田薫「夏潮へ旅路の基点六分儀」(『谺せよ』)・・・
多田薫句集『谺せよ』(花乱社)、遺句集である。序文は筑紫磐井、題字・山本素竹、序詩・森崎和江、画・長谷川陽三、装画・西島伊三雄、装丁・別府大悟。集名に因む句は、
全山の木の実降らせよ谺せよ 薫
からだと思うが、多田孝枝の「あとがき」には、
四季順の形をとっておりますが、薫さんが秋の千草・蜻蛉・紅葉の頃を好んでいたので、あえて秋から始めています。また、学生時代から山登り、山歩きが趣味の薫さんと各地の山を吟行しました。やまびこはいつも、孝べえ、薫さんでした。そんな夫婦をよく知る別府さんが、題を「谺せよ」と名付けてくださいました。命響き合う、薫さんの叫びが聞こえてくるようです。
とある。また、序詩・森崎和江の色紙には、「いとしい人よ/はるばると/無量の風/の中」とあった。序文の筑紫磐井「多田薫句集『谺せよ』に寄せて」は、冒頭、
西日本新聞社論説委員、九州造形短期大学学長を務めた谷口治達氏が、代表となって刊行していた「ばあこうど」という雑誌がある。その実質的な取りまとめを子なっていたのが多田薫さんである。
と書き出し、
考えてみると、多田さんはこの道何十年の俳句で煮染めたような作家ではないような気がする。例えば、多田さんの俳句活動の拠点となる「ばあこうど」を創刊したのは、小原菁々子に初めて俳句の指導を受けてから五年後、「ホトトギス」に入会してから三年後、「花鳥」に入会してから二年後なのである。一般的にいっても余りに早い。これは多田さんの本質が俳句コーディネーターであったということになるのではないかと思う。(中略)
コーディネーターであっても俳句についての知見が必要なことは言うまでもないが、特定の流派にこだわることは、コーディネーターの広い識見とは少し矛盾するところもある。多田さんはその意味で必ずしも花鳥諷詠や客観写生でがんじがらめになった作家ではなかったのである。だからこそ「ばあこうど」や「六分儀」の成功を導き出せたのではないか。
と述べている。平成12年に、多田薫はくも膜下出血で倒れ、奇跡の生還を果たし、しかも、妻の孝枝もまた車椅子生活を余儀なくされ、リハビリなどの闘病生活、そして、夫唱婦随の俳句は作り続けれられていく道行などは、愚生には、遠く及ばず、到底真似のできないものである。それにしても享年が67とは、やはり残念なことにちがいない。ともあれ、集中より幾つかの句を挙げておきたい。
舌鋒をさけて枝豆つまみをり 薫
蜻蛉や空の青さに見失ふ
ひとつでも萩の主をしてをりぬ
どの柚子も小さき枝を母として
初春の都会にふたり生きてをり
生と死のちいさなちがひ冬木立
いぬふぐり土のにほひをむらさきに
息を吹きかけては蟻の列乱す
風鈴の青き音より町の朝
滴りに口づけをしてさあ行かう
手をつなぎほつこり紫陽花ロードかな
多田薫(ただ・かおる) 1951年5月25日~2018年11月15日(享年67)、福岡市直方生まれ。
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