「OPUS(オーパス)」(OPUS俳句会)第59号、愚生は、作品評「句の姿佳し」を寄稿させていただいた。以下に恥ずかしながら紹介する。もう一人の評者は祐森水香「精神の風景」、選句が重なったりすると少し嬉しい気がするのも、わけなく不思議だ。
句の姿佳し
死は月に従つてゐる木の芽どき 和田耕三郎
木の芽に宿る生命力。それは同時に、生と死が交代することをすでに含んでいる。それを「月に従つてゐる」としたのだ。月は闕ける大陰の精、これもまた摂理というべきか。
始業ベル葉裏へもどす蝸牛 上野みのり
校庭の隅、葉裏に見つけた蝸牛と遊んでいる子ども。始業ベルが鳴る。そっと、もと居た場所に戻し、教室に駆け込む。気持ちの優しい子にちがいない。句の姿もいい。
青葉山ヤッホーポイント子らの列 上野みのり
前句と同じく子どもへの眼差しが溢れる。子どもらの溌剌とした声がこだまする。「青葉山」が山の名であるか、青葉の茂った山のことかは不明だが、それは気にならない。
痩せるまで桟の拭かれて宵祭 宮崎静枝
暮れて間もない宵の明かり。宵祭の山車か神輿か、痩せるまでとは、よく拭かれた、いや、磨き抜かれた桟に、ほれぼれするような好ましい艶を見出しているのである。
青空の広がつてゐる種物屋 宮崎夕美
青空の広がる光景には、種物屋がいかにも相応しい。花種であれば、なお明るい春を想像させる。気持ちの好い眺めだ。〈空歩く人ゐて土手を歩きけり〉もその延長線上の景。
木洩れ日をたたき青梅落としけり 村木高子
〈退院の日の待ち遠し柿若葉〉のように、病気療養中の句もみえるが、掲句には、そうした気分は、文字通りたたき落とされて、少しでも強い意思に向かおうとする感覚がある。
家族づれ子は片陰に収まらず 渡辺陽子
片陰は、元は夏雜としての夏陰であるが、炎暑の日陰である。大人はとにかく日陰を求めて歩くが、子どもはそんなことは意に介さない。元気な証拠である。
踏青やマラソンの背の遠ざかり 和田ゑみこ
戸外の光景。都会では青草を踏んで、その上で過ごすことも稀になったが、それでもそういう場面に出くわすと解放感が生まれる。マラソンランナーの背を目で追っているのだ。
夕べには落ちて玉めく夏椿 池部月女
本号、いずれの句にも姿の良さがある。中七「落ちて玉めく」には、どことなく潔い感じがある。それは夏椿の花の白さがもたらしているのかもしれない。
秒針のとまらぬさくらふぶきかな 亀割 潔
時は移る。秒針の動きよりも速く。秒針が象徴している時間を落花もまた吹雪のように、眼前に乱れ散る。〈羽搏きの止めばしづまるさくらの実〉には、逆に止まるかにみえる時間。
鳥雲に帆柱きしむ船溜り 木村弥生
船は北方を目指して出港することなく、帆柱は鳥風を受けて音を立ててきしんでいる。そのとき鳥は、名のとおり鳥雲の風に乗って一気に海を渡るべく北上する。微妙に淋しい。
たんぽぽの絮吹き終へて笑む少女 桐原桐々生
気持ちの良い光景である。少女が吹いて飛ばすたびに、タンポポという音まで聞こえてきそうだ。その音とどこまでも飛んでいきそうな絮には、少女の眼差し、そして微笑み。
名人の金魚すくひと仰がるる 坂本 登
金魚すくひだから縁日だろう。ただ、「名人の金魚すくひ」だから「金魚すくひの名人」ではない。囲碁か将棋か、落語か何かで名人と呼ばれ、世俗を超越した名人気質の人だろう。
漆黒にして深紅白昼の薔薇 斉藤かずこ
印象明瞭な句。漆黒にして深紅とは、思わず白昼しろひると読み下したくなる。悲運だが、まことの艶を持つ薔薇。題に「アンネ・フランクの薔薇」とあるように、薔薇連禱の句。
かなしみのちらばつてゐる辛夷かな しなだしん
「かなしみのちらばつてゐる」の断定が決め手だろう。花の姿に傷みが出やすいので、率直な表現と相まって、おのずと哀憐を湛えている。
幼き姉妹陽炎の奪ひ去る たかはしさよこ
景への観察がよく働いている句。陽炎に子が消えていくのは「原爆地子がかげろふに消えゆけり 石原八束」があるが、同工異曲、本句は「奪ひ去る」に妙味。
実梅落つ背中に一つもうひとつ 日置久子
青いうちに採って梅干や梅酒にするが、実梅は熟して黄色になったもの。落下しやすく「背中に一つもうひとつ」というのが面白い。実梅への親愛の情がある。
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