2019年9月3日火曜日

芭蕉「辛崎の松は花より朧にて」(『切字と切れ』より)・・



 高山れおな著『切字と切れ』(邑書林・1819円+税)、帯の惹句には、

 総合的切字論57年ぶりの登場

 平安期の前史から現代に至る切字と切字説を通覧。
 「切れ」が俳句の本質でもなければ伝統でもなく、1960~70年代に切字説から派生した一種の虚妄であることをあきらかにする。

 平成俳壇を覆った強迫観念を打破する画期的論考!

 とある。だが、この惹句が大袈裟ではなく、今後に切字や切れを論じようとする人があれば、本書を抜きにしては、まず語れないだろうという労作の一書である。必読の書と言って差し支えないだろう。以下に目次を挙げるだけでも、その内容の濃さが分かろうというもの。

 主要目次
第一部 切字の歴史
    第1章 切字の誕生(短連歌から長連歌へ 平安~鎌倉時代など、5項目)
    第2章 芭蕉と切字(『去来抄』の切字説・三冊子の切字説など、5項目)
    第3章 「や」の進撃と俳諧の完成(上五末の「や」をめぐってなど、4項目)
    第4章 古池句精読(古池句という謎など、9項目)
第二部 切字から切れへ
    第5章 「切字/切れ」の現在(エポックメイキングだった『俳句と川柳』など)
    第6章 切字の近代(切字など論ずるは愚の至りー子規の場合など、7項目)
    第7章 国語学と切字(松下大三郎の非歴史的切字説、など2項目)
    第8章 切れという夢(切れと実存?見出された切れ、など8項目) 

 切字、切れの定義など実際の文献を示しながら、かつ、高山れおな自身の作句経験のなかから考察された、説得力に充ちた物言い、その語りに思わず引き込まれてしまう面白さがある。「はじめに」では、冒頭近く、

 (前略)すぐに思いつくのは、しばしばいわれてきた「平成無風」のフレーズである。(中略)一方で、俳句研究者の青木亮人(まこと)はこの時代には、〈俳句史上、最も「平均値」の高い句が詠まれ続けているかに感じられます〉と述べている。まとめれば、波風たたずいまひとつ面白くないが、作品を作る技術はそれなりの高さでたもたれているということになるだろうか。「平均値」の見つもりについては異論の出る余地もありそうだが、ともあれ平成の俳句界についての右の要約は、大方の実感とおそらくさほどかけはなれてはいまい。私としてはそこに、平成とは人びとがなぜか「切れ」に過大な夢を見た時代であった、という一項をつけくわえておきたいと思う。

 と述べ、「あとがき」には、巻尾近く

 (前略)切字の発生史的な目的である脇からの切断は、明治以降、発句がジャンルとして連句から独立してしまった以上、たてまえとしても無意味になっていたから切字の目的はもはやどこまでも修辞の上にしかない。山本はその空白を質量感とか固有性といった価値基準で埋め、あとは芭蕉を盾にして俳人たちを威嚇したのだった。
 しかし、それでも地球はまわる。新派俳句・新興俳句・戦後俳句は切字説を神棚にまつり上げながら、実作においてはみずからが望むように前進を続けたのである。個々の切字は修辞上の実体としてなお生きているが、制度あるいは観念としての切字はもはや維持できなくなり、現代俳人はこれに代えて切れという新たな言説ツールを発明した。切れ説もまた切字説と同様、修辞学の部分と、虚妄の夢の部分とからなる。修辞学の方は(私もそんなに重要とは思わないが)ともあれそれをもとめる初学の人びとがいるのであれば、提供するのもよろしかろう。夢の方はただただ(愚の至り)である。いや、そうではない。夢は見るべきだが、形式の外形性への期待を夢ととりちがえてはならないのだ、といいなおしておこう。

 と記している。スリリングな一書である。先日のフェイスブックでは、坪内稔典も推奨していた。是非、手にとってみていただきたい。いたるところの卓見をすべて引用したいところだが、本ブログの紙幅がないのが残念。ところで、一年に一度の刊行なって久しい「俳句空間ー豈」62号は、10月には発行予定である。高山れおなの本書にもたびたび登場する川本皓嗣、仁平勝、筑紫磐井等の執筆で「現代句俳句の古い問題ー切字と切れは大問題か」も特集される。こちらも面白いと予言しておこう。

 高山れおな(たかやま・れおな) 1968年 茨城県日立市生まれ。



撮影・葛城綾呂 ボスの彼女↑

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