2022年2月24日木曜日

徳田千鶴子「忘れえぬ照葉の空の明るさも」(「馬醉木」2021年10月・創刊百周年記念号)・・・

 


 「馬醉木」2021年・10月号・創刊百周年記念号(馬醉木発行所)、百周年記念祝句各3句は、宇多喜代子・矢島渚男・黒田杏子・片山由美子。ブログタイトルにした徳田千鶴子「忘れえぬ照葉の空の明るさも」は、「祖父四十年忌を修して二句」と前書を付された二句のうちの一句。記念号の記事中では、掲載された評論が興味深い。その題を紹介しておくと、篠弘「『近代』を獲得した秋櫻子」、今瀬剛一「秋櫻子・登四郎・翔そして」、能村研三「登四郎・翔の馬醉木時代」、西嶋あさ子「『仲良く』の人 水原春郎先生」、角谷昌子「水原秋櫻子の革新性」、今井聖「『新興俳句』は『花鳥諷詠』であった」、筑紫磐井「『馬醉木』と新興俳句ー特に高屋窓秋との関係」、岸本尚毅「『友』をめぐって」、坂口昌弘「秋櫻子と「馬醉木」の系譜を振興俳句に括ってはいけない」、蟇目良雨「高野素十第十一句集『初鴉』出版事情」などである。中でも、偶然にも4名が新興俳句と「馬醉木」の関係に賛否の言及をしているのだが、ここでは、事実関係を詳細に当たった筑紫磐井の論により説得力があるように思うので、その要約を、筑紫自身が論じた「俳句四季」1月号の「『俳壇観測』連載228/『馬醉木』100周年ー馬醉木と新興俳句」から、一部になるが、引用しておきたい。


 (前略)要は、秋櫻子や「馬醉木」は新興俳句であったかどうかという歴史的評価が今もって定まっていないのである。しかしこれは、評価という価値以前の事実の検証がない爲もある。(中略)

 最も注目したいのは、加藤楸邨の評論で、「新興俳句批判(定型陣より)」(俳句研究昭和10年三月号)、(中略)「新興俳句の風貌」(「馬醉木」昭和十一年一月号)と新興俳句の論争は一手に加藤楸邨が引き受けている。それも決して新興俳句に批判的ではない。最も特徴的なのが「新興俳句の風貌」で、ここでは楸邨は新興俳句作家として九名を上げ作品を紹介しているが、その筆頭に水原秋櫻子と山口誓子をあげているのである!

 面白いのは昭和十一年で,この年刊行された単行本の宮田戌子編『新興俳句展望』で「新興俳句結社の展望」(藤田初巳)と「新興俳句反対諸派」(古家榧子)が載っているが、「新興俳句結社の展望」でその筆頭に「馬醉木」が、「新興俳句反対諸派」ではアンチ新興俳句の「新花鳥諷詠派」として秋櫻子と誓子を上げている。一冊の本の中でのこの混乱が、新興俳句をめぐる当時の混乱を如実に示しているようである。因みに、今井聖が新興俳句を花鳥諷詠としているが、古家の方が今井よりはるかさきに秋櫻子と誓子を花鳥諷詠派と断じている。ことほど左様に、根拠もないラベル貼りは虚しいものがある。(中略)

 関東大震災直後、復興、再興、そして新興という言葉が生まれた。小説、戯曲、芸術、国家論、そして短詩型まで次々と新興は生れた。今日の新興は明日の新興ではなかったのだ。昭和一〇年に秋櫻子も「馬醉木」も間違いなく新興俳句であった。昭和十一年から次第に怪しくなって行く。これさえ分れば、「馬醉木」誌上の議論は解決が付くはずなのである。(中略)

 なお、余計なことになるが、新興俳句批判を書いた今井聖は実は加藤楸邨の高弟である。楸邨の新興俳句に寄せる共感を少し学んで欲しい気がする。


 そして、先の「馬醉木」創刊百年記念号に、筑紫磐井は、


 現代俳句を語るに当たって「馬醉木」が欠かせないことは誰も疑わない。昭和6年に秋櫻子が「馬醉木」に発表した「自然の真と文芸上の真」、そしてその後のホトトギスからの離脱は俳壇に激震を与え、昭和俳句史を転換した。

「馬醉木」独立の頃の中心は後述するように、高屋窓秋と石橋辰之助であり、特に高屋窓秋はその新撰な作風から、新興俳句の源流とされている。然し、だからといって「馬醉木」と新興俳句との関係は良好であったわけではない。特に昭和11年から、秋櫻子が無季俳句を排したところから新興俳句史の本流からは外されていっている。(中略)しかし、矢張り「馬醉木」がなければ新興俳句は生れなかった。(中略)

①我が思ふ白い青空と落葉降る

②頭の中で白い夏野となつてゐる

③白い靄に朝のミルクを売りに来る

④白い服で女が香水匂はせる

新興俳句はこの時始まる。このたゆたうような文体。特に〈頭の中で白い夏野となつてゐる〉は新興俳句の最初の金字塔といってよかった。現在も、その認識は変わらないが、秋櫻子の「自然の真と文芸上の真」を文字通り体現した、「馬醉木」俳句の金字塔でもあったことは案外忘れられているようだ。私は「自然の真と文芸上の真」をこれ以上に的確に表した句はなかったように思う。


 と記している。同感である。そして、楸邨の評「かういふ主観の色彩を描こうと意図した句の手法としては、たしかに新機軸である。この句はこれから開拓されるだらうと思ふ俳句の新原野を暗示してゐる点で特に注目を要求する価値がある」(「馬醉木」7年4月「合評会」)を紹介し、かつ秋櫻子の評、「洋画の光線の取扱ひ方に似てゐて、これは又立派に独立した文学的の光線の取り扱ひ方になつてゐる。在来の俳句には甚だ類稀れな行き方であるが、僕はこれで好いのだと思ふし、又ここから新しい道が拓けて行くにちがひないと信ずる」(「馬醉木」7年1月「雑詠評釈)を挙げ、


(前略)句こそ違うが、注目したいのは「俳句の新原野を暗示してゐる」「新ら道が拓けて行く」の評語であった。いこれらは馬醉木俳句の評語であった。しかしまた、「馬醉木」から生まれた新興俳句をゆくりなくも示したのである。

 晩年に窓秋を囲むシンポジウムがあり、会場から「最も強烈な印象を与えた俳人」と問われ、少し間をおいて、ちょっと小首をかしげたポーズで「水原秋櫻子です」と答えていたのお思い出す。ここに師弟は黙契したのである。


 と結んでいる。因みに記念号の祝句と「馬醉木」主宰の句を挙げておきたい。


   月山へ杖もちなほす雁の頃       徳田千鶴子

   歳月のうねりとなりて青嵐       宇多喜代子

   炎天や言葉に生きるほかはなく      矢島渚男

   「ホトトギス」離脱よかつた夕月夜    黒田杏子

   武蔵野の空の青さや雁来月       片山由美子   



      撮影・芽夢野うのき「戦をしない美しき枯れ色なり」↑

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