2022年2月14日月曜日

樋口由紀子「快適を舐めてみたけどデカすぎる」(「晴」第5号)・・


  「晴」第5号(編集発行人 樋口由紀子)、その「後記」には、


 今号の巻頭文は歌人の荻原裕幸さんにお願いしました。荻原さんに名古屋みどりの会で初めてお会いしたのはもう二十数年前になります。『現代川柳の精鋭たち』(二〇〇〇年・北宋社刊)の解説を堀本吟さんと共に書いていただきました。巻頭文で書かれている「自己規定」発言は衝撃的でした。こうして、ずっと川柳を温かい目で見つめ続けて下さる人がいる、心強く、ありがたく、涙が出そうになります。「自分の居る場(川柳)を居心地よくしましょう」と荻原さんに言われたことも川柳を続けていく指針になっています。


 とある。その巻頭文の萩原裕幸「母としての/他者としての川柳」の後半に、


 その一つは『川柳×薔薇』(二〇一二年、ふらんす堂)、この本は、川柳観、句集論、柳人論、一句鑑賞などで構成された樋口さんの川柳論集である。私の知るかぎりでは、その発生史をはじめ、川柳史に頼らないところで書かれたきわめて稀な、現代の川柳論集である。(中略)一冊を読んで、理屈っぽい感じはあまりないのだけれど、私がかねてから求めていたようなジャンルの「自己規定」が、とても柔らかなスタイルでなされているように感じられた。一からあるいは無から構築したような川柳論集は、現代の川柳にとって画期的なものだったのではないかと思う。

 また、もう一つ『金曜日の川柳』(二〇二〇年、左右社)にも、私は、樋口さんの川柳に対する情熱や良い意味での執念のようなものを感じた。(中略)樋口さんが長く望んで来たのであろう、何々川柳でも、できるだけ多くの人に川柳のおもしろさを知ってもらいたい、という思いがそこに溢れているのを感じた。私が煽ったような、やや狭い明確なジャンルの規定、を真っ向から否定するように、広く、ほんとに広く、柔らかに、豊かに川柳を語っているのを読んで、私は脱帽したし、それらを素直に楽しむこともできた。


 とあった。思えば、『現代川柳の精鋭たち』は、当時、北宋社(渡辺誠)から、何か企画はないかと持ち掛けられて、「豈」の同人であった樋口由紀子や小池正博の川柳が佳かったので、現代短歌も現代俳句もアンソロジーがあるのに、現代川柳にはそれがない。それで、川柳界に無知な愚生は、その全ての実現を樋口由紀子に委ねたのだった。その次に、邑書林のセレクション川柳のシリーズも、社主の島田牙城が、二つ返事で引き受けてくれた。そのいずれの実現も樋口由紀子あってのものだった。そうしてみると、現在、愚生のような、門外漢にも、現代川柳の活きの良さが伝わってくる事態になっているのは、実に嬉しいことである。さらに、若き俳人や川柳人や歌人、あるいは他の散文のジャンルの方々とも交流されているようで、こうした刺激が実を結ぶのも楽しみである。愚生がお会いした頃の樋口由紀子は、冗談のように愚生が本格俳句を目指しています、と言ったら、私も本格川柳を目指しているんです、と答えていた。いずれ本道を歩いているのだという自負が頼みの頃のことである。ともあれ、本誌本号より、愚生好みに、一人一句を挙げておきたい。


  生き死にの匂いに満ちた水飲み場      松永千秋

  慰安所で空回りするオルゴール       月波与生

  戦後史を寿ぐ前に定規じゃね?      きゅういち

  (中略)のところに咲いていたという   広瀬ちえみ

  どうしても雨から雨へ雨の森        妹尾 凛

  静謐や薄手の服が流行ります       樋口由紀子

  無駄花と眠たいことを言うオウム    いなだ豆乃助

  目をとじて花火大会見ていた子       水本石華



       撮影・芽夢野うのき「ひとりふたりと風のなか」↑

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