「里」2022年1月(第196号・里俳句会)、30ページほどだが、句会報などが無く、シンプルにして、幅無限大の読み応えある同人誌。目次を挙げておくと、虎時「季語を料る その前に その四」、川嶋ぱんだ「巻頭エッセイ・不器男の三ケ日」、里程集「三十六家、三十八編」、菊池洋勝「洋勝のページ/冬林檎」、叶裕「無頼の旅・第一回/蛭子の唄ーローランド・カークという男」、早川徹「現代俳句月評 いきものがたり2/右城暮石と国内外来魚問題」、島田牙城「俳句って難しい五/正・俗・略のこと(一)」、「一里塚/月潮・瀬戸正祥・叶裕・木下周子・流牙亭七軒・中原久遠」、上田信治「成分表160」など。その中の島田牙城「正・俗・略のこと(一)」から、部分を以下に紹介する(本文は正漢字)。
(前略)かれこれ二十年も前の話だが「里」の創設の句会で、「俳句を勉強しないで下さい。不良中年になって下さい」と檄を飛ばしたのには、今も嘘はない。里人が常に心掛けることは、好奇心をもってあらゆることを疑ひ、自らその疑ひを晴らしてゆく努力の姿勢であつて、人がいふことを鵜呑みにすることなかれ、といふことだらう。里といふ字にある八つの窓、そこには季語ちゃんや十七音君やもゐるにはゐるが、だれも、絶対権力者ではない。定型さんと十七音君が同居しきれないやうに、住人たちは皆が皆、ふはふはしてをつて、上段の構へで儂らを威嚇してゐさうな切字どんなんて、部屋の隅つこで膝を抱へ、逃げ出す隙を窺つてゐる風でもある。
俳句を作り始めるにあたつて、五七五定型に言葉を入れ込み、
その単語の一つ以上を季語にし、時に切字の効用を活かす
といつた基本から入るのはいいけれど、この一つひとつの部分にしても「絶対条件ではない」といふ心構へは大切だ。「なぜ季語なのだらう」「なぜ五七五なんだ」「切字つて、何」といふ好奇心=疑ひを懐中に持ち続けるといふことになる。
この俳句の三要素についてはまだいいとして、
俳句は伝統ある詩なのだから、文語で詠みませう。
文語なのだから、旧仮名遣ひを使ひませう
などと本気で信じて垂れ流してゐる主宰者やカルチャー講師がゐて、笑ふしかないのだけれど、かうなると文学活動ではなく新興宗教に近からう。芭蕉さんも、自分の言葉で俳句(俳諧)を作つてをつた。
うたがふな潮の花も浦の春 松尾芭蕉
漱石が来て虚子が来て大三十日 正岡子規
に、文語は一つもない。先づ、俳句は自分の使へる言葉で作る。これ、すごく大切なんだ。その上で、「自分の使へる言葉」を増やす努力をしたはうがいい。(中略)
しかし、分からぬことがある。何故にみなさん歴史的仮名遣とやらで俳句を書かうとして間違ふのだらう。「自分の使へる言葉」の表記、現代仮名遣でよろしいやん。といふ疑問が沸々と湧いてきたからだ。これまた、教壇から飛んできた言葉か教祖のひと言かは知らぬが、「俳句は歴史的仮名遣だよ」を盲目的に信仰してをられるのかな、とね。使へない表記を使うて間違へるとは、滑稽なこと。使へる表記でいいのである。
因みにブログタイトルにした八木三日女の句「芽に折れるジャズ地下に無頭児双頭児」は、叶裕「無頼の旅 第一回/蛭子の旅ーローランド・カークという男」の文中から拝借した。ともあれ、「里程集」から、愚生にいくぶんか関わりのあった方の句をアトランダムになるが挙げておきたい。
炭出すやごっぽり夜を引っ張って 川嶋ぱんだ
悪たれの踏むかはたれの焚火跡 黄土眠兎
ほろほろ鳥ほろほろ歩いてゐる二月 瀬戸正洋
狼が人尿舐めに来てゐたる 谷口智行
凍蝶笑うよこなごなになるまでを 津田このみ
集落のどんどの櫓寒北斗 柳堀悦子
去りがての青鷺一羽氷柱花 雨宮慶子
角材にいよゝ火の着く焚火かな 天宮風牙
出初式顔の大きなぬひぐるみ 上田信治
空風や商家は軒を低くして 叶 裕
雪を拂はば氷あらはれ十二月 島田牙城
撮影・鈴木純一「淡雪や捨子世に出る物語」↑
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