『沖積舎の50年』(沖積舎)、沖山隆久は、巻末の「五十年に」と題して、
学藝出版として、小出版社として、沖積舎は昭和49年2月個人会社として創業以来五十年になる。その間、二千点近い書物を出版した。(中略)
尚、本書『沖積舎の五十年』は先に出版した『沖積舎の四十三年』『沖積舎の四十五年 総出版目録』と共に、三部作を成すものである。
記している。ブログタイトルにした句は、和田悟朗「『橋閒石全句集』の刊行にについて」の中で、
後日、遅れていた栞について最後の校正をしたが、そのとき、栞の中に引用されていた閒石句「春雪へ庇をのばす女の部屋」の「庇」が「屁」になっていることに気付いて驚いた。校正は何と恐ろしいことだ。もし気付いていなかったら、まことにはずかしいことだったであろう。
とあったことによる。また、ここでは、愚生にとっても、沖積舎時代の林あまりについて、わずかながら思い出があるので、高柳蕗子「季節が変わる」から、部分を引用紹介しておきたい。
まっ赤なワンピースにまっ白なGジャンをはおって、チュリーップが立っていた。
私の第一歌集『ユモレスク』(1985)が沖積舎さんから刊行される少し前のこと、打合せで神保町の事務所を訪ねたら、そこに若い林あまりさんがそこにいたのだ。
季節が変わる。ーーあのころ言語中枢でそう感じていた。新しい季節が景色を塗り替えるように、短歌の言葉の世界は変貌しつつあった。その空気のなかで、新しい季節をもたらす新人の歌集をせっせと刊行していたのが沖積舎だ。
その翌年、沖積舎から刊行された林さんの第一歌集『MARS☆ANGEL』(1986)は、鮮やかな赤い本で「生理中のFUCKは熱し/血の海をふたりつくづく眺めてしまう」など、当時としては刺激的な内容を含んでいたために、ずいぶん物議を醸したものだ。折しも俵万智さんが角川短歌賞を受賞、翌年には『サラダ記念日』(河出書房新社1987)が大ベストセラーになって、若い女性歌人として、カンチューハイの俵万智、ファックの林あまり、と対極のように取りざたされもしたが、共通しているのは、それまで短歌で見かけなかった言葉や言い回しをいっぱい使っていたことだ。(中略)
早速「かばん」に入会し、八五年六月号では『ユモレスク』評もいただいたが、それにも増して忘れられないのは「かばん」八六年一一月号の林さんの歌壇時評、「スゴイ新人が登場した!である。さっき俵万智さんの角川短歌賞に触れたが、そのときの次席が穂村弘さんだったのだ。林さんは次席作「シンジケート」から十二首も紹介し、「話題フット―と思ったがいっこうその気配がないのはおかしい。穂村弘をものがせば必ずや現代短歌の大損失となる」と、時評一ページまるごと使って、その魅力や新しさを褒めちぎったのだ。穂村さんもやがて「かばん」に入会。そして第一歌集『シンジケート』(1990)も沖積舎から刊行されたのである。(中略)
沖積舎さんの功績は新人発掘だけではない。歌人の業績の集大成のような全集なども多く手掛けられている。もう出版業から退いてsまわれたようなので、私の集大成はお願いできないが、まだ自分の最前線にたどりついていない私には、そのことを嘆く資格がないのである。
とあった。愚生といえば、沖積舎の創業時は、吉祥寺・弘栄堂書店員だったので、時代の流れもあって、詩の棚の充実期にお付き言い合いさせていただいた、と思う。後年、沖山隆久に会うたびに、もう、出版社は辞めるとよく漏らし嘆いていたが、どうやら本当にそうなってまった。それにしても、沖積舎が咽頭癌で、声を失い、その後も再発を繰り返し、闘病していた大本義幸の句集『硝子器に春の影満ち』(2008)を全句集として、栞文に池田澄子「まぼろしの『八甲田』、攝津資子「笑うスナフキン」、坪内稔典「海光と闇ー大本義幸の原風景」、永田和宏「黄金海岸の頃、仁平勝「泣きたいような抒情」を得て、企画出版されたのは、何より、沖積舎創業時からの彼との熱い友情によるものだったろう。
朝顔にありがとうを云う朝であった。 大本義幸
硝子器に風は充ちてよこの国に死なむ
月へ向かう姿勢で射たれた鴨落ちる
芽夢野うのき「一息つくまもなく紫の風がふく」↑
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