2016年12月29日木曜日
攝津幸彦「さやうなら笑窪荻窪とろゝそば」(「塵風」100号より)・・
「塵風」100号(塵風編集局)。「塵も積って百号なり!」と表紙にある。そのエッセイに長谷川裕「東京百句」があり、連載の37回が攝津幸彦の掲出句「さようなら笑窪荻窪とろゝそば」。その攝津幸彦の句を評して長谷川裕は、
愚鈍な言い方がお好みの人ならば、攝津だけがうっとりしている。他人に通じぬひとりよがり、独り言ということになるやもしれぬ。しかし、なんとも魅力的なひとりよがり、独り言ではないか。
と言い、
「さやうなら」も「笑窪」も「荻窪」も、「とろろそば」も、たがいにまったくなんの含むところもない。当初はまったく無関係のはずだ。ところが、こうし並べられると、さようなら性、笑窪性、荻窪性、とろろそば性がそれぞれきわだってきて、最終的に荻窪駅中心のあるイメージが浮かんでくるから不思議だ。
と上手い事をいう。ともあれ祝意の「第百回塵風句会」(於・西念寺)の一人一句を以下に挙げておきたい。
霧雨のそこまで届かない梯子 烏鷺坊
曼珠沙華おんな並んでやってくる 吾郎
釘箱にどんぐり一つ紛れ込む 仁
ひがんばな一本入れて焼いてしまえ 裕
颱風のとろりとろりと蒸かし芋 栞
すこし野蛮とても優雅な夜の鹿 月犬
葡萄ひそひそ昼に熟しきる 十四郎
しらたきに煮汁しみゆくちちろ虫 槙
はるばるや胡桃は胡桃老いは老い 亞子
赤い赤いよほほづき玉は悲しみは 赤土
幾つもの傷もつ梨と女です 貞華
きぬかつぎ上手くむけたら話すから たりえ
秋雨や十年振りの駅静か 子育
虚栗ばかりが落ちゐる広場 苑を
親方の他ヘルメット松手入 風牙
ジャズ止んでおちょこに菊をちょっと入れ 啞々砂
秋暑し褪めし女の青き爪 由紀子
声ひとつ挙げて花野に消ゆるかな まにょん
姉ちゃんのズロース干され天の川 かまちん
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