望月至高句文集『俳句のアジール』(現代企画室)、句集としては第二句集、句の一部と散文「吉本隆明の訃に接して」と「擦過のひとりー唐牛健太郎」「七〇年目の追跡ー叔父望月重夫の戦死」が書下ろしである。既発表のなかの大道寺将司一句鑑賞(「月刊「俳句界」2012年8月号、愚生が文學の森に在籍していたときに執筆者の一人として推薦したので、よく覚えている)で「額衝(ぬかづ)くや氷雨たばしる胸のうち」を評して以下のように結んでいる。
日本の近代詩歌が苦闘の末に口語体を獲得したが、擬古体が噴出する時期があった。戦間期、新興俳句を除いては戦争翼賛歌のほとんどに擬古体が使われた。その詩歌人たちは現実的な環境世界を見ようとせず、自己意識が自己幻想としてのみ関わるところに作品を作った。(中略)
戦争翼賛詩歌人たちは意図的にそれを見なかったが、大道寺は見ることを禁じられた。見ているのは残影ばかりだ。鬱屈した情念は俳句作品として昇華していくのであるが、内面と形式は分裂して平衡を保とうとする。口語体は環境世界喪失ゆえに実在を欠いた虚しい指示性としてのみ意識され、自己価値の表出とはなりえない。擬古体こそが自己価値を担保し、自己承認の自己表出として意識的な特権化が図られるいるとみてよいだろう。
望月至高は鈴木六林男の最晩年の弟子である。
鈴木六林男「憲法を変えるたくらみ歌留多でない」を踏まえて
憲法の成りをたくらむ将棋でない 至高
かつて六林男は、確か「俳句は上手く作ろうと思えばいくらでもできる。しかし、それはあえてしないのだ」と、また「俳句を作るときは30%くらいは新しいものを、すべてが新しいと理解されない。」と自らの俳句作法っを語っていたことがあったように思う。
望月至高の句の方法はその六林男を承けついでいよう。ともあれいくつかの句を以下に挙げておこう。
冬銀河非対称的時空間
征けば死にきり末枯れし戦没碑
一錠に今日を委ねて青き踏む
オンとオフ同じボタンに春暮るる
冬の霧方位不明のそこに入る
明らかに道は尽きたり鳥雲に
第二回尹東柱追悼詩祭献句・同志社大学今出川キャンパスにて
自主自立紫紺の旗の幾星霜
亡き父母を偲ぶ
三寒の墓碑と四温の父母の恩
八月の海や亡者の澎湃と
望月至高(もちづき・しこう) 1948年、静岡県生まれ。
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