2020年6月4日木曜日

山本真也「万愚節俺と結婚せえへんか」(「船団」125号)・・・




 「船団」125号(船団の会)、「では、完結です。お元気で。」と坪内稔典は記している。ただ、予告によると増刊号が秋に出るらしい。その特集は「船団 1985~2020」。また、「船団の集い」の最終回は秋以降に予定されているという。さしずめ、散在、わたしたちの、新しい俳句生活・・・、というところであろうか。
 今号は第12回船団賞の発表。受賞作は山本真也「結婚せえへんか」、もっぱら大阪弁で俳句を作る俳人に、坪内稔典の「日時計」時代の同志・矢上新八がすぐにも思い浮かぶが、ここにも頑張っているヤツがいるという感じである。他の候補作は、加藤綾那「し・たたる」、衛藤夏子「虹」、平きみえ「花のモーロク」。選考委員は、池田澄子・小西昭夫・ふけとしこ・火箱ひろ・坪内稔典。以下に、受賞作、候補作の一人一句を挙げておこう。

   流星の生駒山上遊園地        山本真也
   思い出すときは横顔花ミモザ     加藤綾那
   肉好きの女と暮らす敬老日      衛藤夏子
   中くらいのモーロクですか梅咲いて  平きみえ

 本号には、前号に続いての特集「俳句はどのような詩か」である。主要には、井上泰至と坪内稔典の対談「俳句ー発生から今日まで」。後半に議論「俳句を考える」があり、対談会場での参加者の質問に答えている。論考は三編、林桂「定型を引用するということ」、青木亮人「敗北と片言」、神野紗希「俳句は『らしくない詩』」であるが、それぞれの内容が良い。奇しくも、林桂と青木亮人は二人とも高柳重信と坪内稔典の言に触れている。愚生は特に、林桂の論に共鳴するいところが多かった。愚生は、若き日から現在まで、進歩なく、坪内稔典が言挙げしていた「過渡の詩」に追随してここまで来ている。林桂の孫引きになるが、

 (前略)過渡の詩としての俳句形式を追求することが、たとえこの形式の消滅という所まで進むとしても、それはそれで回避するべきではない。(『正岡子規 俳句の出立』(俳句研究社、昭和五十一年)

 そして、結びには、

 冒頭に述べた認識は、この坪内の影響下にあってそれを出ていないものだろう。必敗の詩であるためには、定型に絡め取られる場面でその接線にいる必要がある。また、戦う者だけが敗れ続けることが可能である。 

 と、涙ぐましく記している。また、青木亮人は、

(前略)その高柳の論や句に多大な示唆を受け、自身の俳句観を培った坪内稔典氏が俳句を片言の詩と定義したのは、偶然ではあるまい。同時に、坪内氏は高柳重信の逝去後、『さらば、船長』二冊を刊行した後に俳句集団「船団」を結成し、「大衆の詩」(高柳)に敢然とまみれる道を選んだ。「日常や世俗に思いっきりまみれること」(「さらば、船長②」特集)が、高柳や戦後俳句を乗り越える革新運動たりえたのだ。

 と指摘している。最後の神野紗希は、これも彼女らしい言い方で、

 俳句は「らしくない」詩だ。詩らしくない、蛙やたんぽぽやクリスマスらしくない。母親らしくない、俳句らしくない。「らしくない」ものも世界の一部として許容することで、その言葉には実感が生まれる。歴史的な蓄積よりも、眼前の輝きを大切するとき、俳句はどんな詩よりも鋭く、どんな詩よりも優しく、そこにすっくと立つ。詩の光りはどこにだって宿る。

 と評している。信じられない何かを、なお信じようとする姿勢が眩しい。愚生などは、もはや戦わずして敗れているのかも知れない。

 


    撮影・鈴木純一「そうおっしゃるですタンスにごんはない」

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