「俳句四季」6月号は、愚生の知り合いや、「豈」、元「豈」、「浜町句会」などのメンバーがけっこう掲載されていた。山﨑十生句集『銀幕』評は、酒巻英一郎、安里琉太、中原道夫、宮本佳世乃の豪華メンバーだが、とりわけ酒巻英一郎は貴重だ。めったに執筆しない人なので、ともかくそれを興味深く読んだ。
次は何と言っても、「俳句と短歌の10作競詠」の筑紫磐井VS佐々木六戈だ.。その中で、筑紫磐井は、佐々木六戈に応えて「第六の定型」として、
(前略)「歌はただ」「鳥の眼の」「年輪の」はこうしたほどよい短歌性で詠まれているが、「ねえさんが」「にんげんの」は俳句性を志向しつつ、そこまでは至っていない。俳句形式に弾き飛ばされているかもしれない。といって、別にそれが悪いわけではない。前句付け。雑排は短歌や俳句に劣る詩型ではないからである。我々は、さらに第五、第六の詩型に向かい進歩しつつあると言ってよい。
佐々木六戈は、愚生にとっては、最初、「童子」の編集長であり、俳人として現れ、歌人、詩人としての面貌もある。今回の作「耳と耳の間に」から、
ねえさんが見当たらなくて近文ゆ幸恵の方へ鈴降る弟 六戈
歌はただ長身痩躯立ち尽くす針葉樹林に降る雨の罫
鳥の眼の鮮卑・突厥さながらに北狄の矢をわれに射るかも
にんげんの上空にして鳥たちよ鮮新世の汀ぞ蝦夷は
年輪の北へ詰まるを逃げながら追はれつつ来て夷狄のごとし
ブログタイトルにした「物忌の暗き六月まだ続くか」の句には「コロナ」の前書きがある。他に、
おほかみや王朝の恋みな螢 磐井
今生の未曽有水無月祓かな
法華経が救ふ殺生真夏の夜
佐々木六戈(ささき・ろくか) 1955年、北海道士別市生まれ。
筑紫磐井(つくし・ばんせい) 1950年、東京生まれ。
天空の村へは行かず不如帰 柿本多映
ひよこ売りについてゆきたいあたたかい こしのゆみこ
草紅葉ふいに足元から谺 前田 弘
からすうりはたらかないでいきている 川崎果連
走り続けてからだが青野になる 杉本青三郎
西瓜とも先生とも違う大きさ 田中いすず
疾走の記事の黄ばみや雛納 伊藤左知子
抱擁のすきま螢火吐きつづけ 鳥居真里子
★閑話休題・・・安西篤「『まあだだよ』老いふくらめる冬日向」(「海原」6月号より)・・・
一昨日のプレバト特待生・春風亭昇吉の「遊句会」つながりで、「遊句会」のメンバーである武藤幹のエッセイ「俳句と私」-「As time goes byー年男の私」から、安西篤の句を引いた。その冒頭に、
「まあだだよ」老いふくらめる冬日向 安西 篤
内田百閒を描いた黒沢映画を思い出す。「もういいかい」「まあだだよ!」
である。「老いふくらめる」此のホッコリした表現は老いのベテランでなければ言えないセリフだ。
とある。エッセイ中の残りの二句は、武田伸一「小六月うつらうつらと老いている」と木村リュウジ「なんとなく厄日レモンを持て余す」であった。
撮影・鈴木純一「猫はのら女房あくさい万物ON」↑
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