今瀬剛一『能村登四郎ノート[二]』(ふらんす堂)、著者「あとがき」に、
主宰誌「対岸」に執筆している「能村登四郎ノート」が平成三十年八月号で二百回になった。それを機に二冊目をまとめることとした。今回は一冊目以降の百一回から二百回までを収めた。次は三百回目となるわけだがそれまで命が持つかどうか心許ない。いずれにしてもこの仕事は私のライフワークである。
とあり、目次をみると、句集『民話』時代、句集『幻山水』時代、句集『有為の山』時代、句集『冬の音楽時代』、句集『天上華』時代、句集『寒九』、・・・と続いていくわけだが、愚生の年代では句集『幻山水』以降になり、その頃、定本『枯野の沖』も出版されていたようにもおもう。なかに、
(前略)「俳句研究」に話を進めると、五月号に「第一回俳句研究全国俳句大会」の作品募集が出て、登四郎も審査委員の一人に名を列ねている。審査員は龍太や澄雄など比較的若い作家たちで、二十人が選に当たっている。そうした傾向に対して登四郎は九月七日の大会当日の講評の冒頭で、次のように語っている。
大会の選者にいわゆる老大家を煩わせずに、戦後の第一期新人といわれた我々同時代の仲間たちが選ばれたのも、それはそれで大いに意義のある試みと思う。私達は、今後の俳壇にそれなりの立場で責任をもつべきだし、それは野心的なことでもなんでもない。所属の協会が違って、普段会えない人とこういう機会に話し合えるのは、非常に喜ばしいことです。
と記されている。じつは愚生は本著の冒頭から、文中に,何年のことか記されていなかったので、いつのことかわからず(つまり「対岸」の連載を読んでいないので)、その年代が知りたくなり、「第一回俳句研究全国俳句大会」の記述を手掛かりに、たまたま、愚生の手もとに「俳句研究』(昭和44年11月号)があったので、確かめることができた。この「講評の冒頭に」を書いたのは、倉橋羊村(鷹)「伝統派と前衛派の接点」と題された「第一回俳句研究全国大会の記」である。ちなみに選の講評者の名を記しておくと、赤尾兜子・石原八束・金子兜太・香西照雄・佐藤鬼房・沢木欣一・鈴木六林男・田川飛旅子・野沢節子・能村登四郎・古沢太穂・堀葦男・森澄雄・清崎敏郎・藤田湘子・伊丹三樹彦であった。加えて講演者は飯田龍太・佐佐木幸綱・金子兜太だった。佐佐木幸綱を除いて、すべての人が鬼籍に入られている。隔世の感だ。せっかくだから、長くなるが、能村登四郎の選後評を以下に引用えおきたい。
「俳句研究」(昭和44年11月号)能村登四郎 選後評部分↑
能村登四郎(前略)今回の催しは、結社はそれぞれ違っていても、選者が皆共通の世代に育っているために、おのずと横につながった世代感覚をもっている点、他の俳句大会などに見られないすっきりしたものがあり、終始気持ちがよかった。われわれ中堅の俳句作家は、今後も横への連繋をつよめて、世代の主張をはっきりしたいと思った。
今回の集まった作品も、概して三、四十代の人の作品が多く新鮮な気が流れていた。特選句が、二十人の選者うべて違っていたのも興味があった。私が採った特選句は、
星を殖して蒼ざめきつた採氷夫 佐藤凍虹
冬の湖から氷をとる男たちの姿を、リアリズムを濾過いた美しい感覚と、よく選び抜かれたことばによってイメージの美しい作品にしあげている。
今瀬剛一がライフワークというだけの500ページを越す分厚い一冊である。現在も「対岸」に連載中だという。愚生21歳のとき、俳句総合誌は「俳句」と「俳句研究」しか無かった時代、思えば、愚生が京都の地にあって、近くの本屋で、いつも一冊しか入荷していない「俳句研究」を、待ちわびて買っていたのだ。買えない時もあった。「俳句研究」(昭和44年12月号・’70年鑑)の諸家自選句10句が掲載されている。その中から、能村登四郎の句をいくつか挙げておこう。
水にくる遠漣(とおさざなみ)もすぐに消え 登四郎
冬耕の人帰るべき一戸見ゆ
一隅にくらき香りの衣がへ
こまかなる光を連れて墓詣
泳ぎ来し人の熱気とすれちがふ
今瀬剛一(いませ・ごういち) 昭和11年、茨城県生まれ。
撮影・鈴木純一「ねじのはな現象界疑はず」↑
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