2021年8月17日火曜日

上田睦子「果つるまで野分を分けて行かんかな」(『時がうねる』)・・・

 


 上田睦子句文集『時がうねる』(ふらんす堂)、装幀は和兎。著者「あとがき」に、


 (前略)俳句作品は、前句集以後の新作ということでなく、これまで散文とともに発表されたもののみ収録した。「寒雷」などの俳句誌に掲載された時の形に戻し、散文と合わせて一つのユニットとなるように体裁を整え、これを本書の第一章としたところ、定型短詩と散文が筆者のなかでいかに互いを必要としているかが現れ出た形となった。(中略)第二章以降は自作の俳句をほぼ含まない散文を収録した。(中略)第三章に俳句について考えてきたこと、そして最終章には時、生きること、人についての考察など、様々なおりに書き溜めた文章を集めた。俳句作品の占める割合は散文に比べ小さいが、本書はやはり俳句の書として出来上がったと思う。


 とある。収められた初出の日をあたると、1980年代からある。最新と思われるのは、(「暖響」二〇一九年十二月号「自選五句」)である。それを引く。

    行かんかな

  母の指わが背に触れて春すでに 

  未だ遠き春の気を待ち掌を閉ぢぬ

  果つるまで野分を分けて行かんかな

  掌につつむ野の一輪の花と行く

  葉桜に切れぎれの空遊ぶかな

「自分」について「まとめ」をする時期が来た。まことに恥ずかしい過程である。うす暗い、固さのない世界がひろがる。

 心を静かにたもつことを心がけながらこの世界としっかり向きあおうと思う。これからの視野を正しくひろげて行けるように願いながら。


 そして、第三章「俳句という詩形」の「音数律からー俳句の本質」では、


(前略)一般に詩の韻律というとき、音数律だけでなく、音色、内容、イメージなど音数律に干渉するものも含めて考えねばならない。しかし俳句を五七五の詩とみるということは、俳句をそのままこの音数律に還元出来るということ、即ち、俳句の原点を文字とおりこの音数律とすることを意味する。換言すれば、こうした音数律への還元をゆるすものが、ほかならぬこの音数律の呪と私は思うのだ。


 と記されている。ともあれ、集中より、いくつかの句を挙げておきたい。

 

  流氷へひとりの帽はとがり佇つ      睦子

  がうがうと神へ口あく鯉幟

  老い母のもたぬくらがり実の芙蓉

  いちめんの菜の花この壺の底から

  枇杷熟るる十戒てのひらに透つ

  夏草やわが咎も風立つばかり

  赤葉牡丹物神(ぶつしん)くくと笑ひをり

  寒卵重り密言(みそかごと)つぶやく

  地と空と依らんもの炎の薄原

  泳ぐ指のまつすぐにのび水涅槃

  野ぼたんに流るる乳はあらざりき

  ただよふ花水木すでに死者も老い

  石在りぬ春一切の結点に

  蝶が見てひとしく生ふる草と人

  

 上田睦子(うえだ・むつこ) 1930年、東京生まれ。



      芽夢野うのき「かの色を潜め雨の日のからす瓜」↑

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