2021年8月24日火曜日

堀田季何「寶舟船頭をらず常(とは)に海」(『人類の午後』)・・・


  堀田季何第4詩歌集『人類の午後』・第3詩歌集『星貌』(邑書林)、まず『人類の午後』の栞文「晝想夜夢」は、宇多喜代子「朧の向こうに見えるもの」、高野ムツオ「混沌世界に立つ言葉」、恩田侑布子「夢魔の哲学ーポストコロナへ」。宇多喜代子は、


 日野草城の最後の句集に『人生の午後』がある。草城個人の晩年の日々の感懐を残した句集として知られるが、堀田季何の句集名は『人類の午後』で、それを目にしただけで堀田季何が個人を超えた何かを抱えもって俳句の前に止まっている姿を予感させる。そんな読者に親切なのが各篇の俳句の前書のように置かれた先人たちのアフォリズムや詩篇である。読者のために引かれたものではないことは自明のことながら、私レベルの読者にはこれがありがたいのだ。(中略)

 堀田季何は、人類の歴史に汚点をとどめた「夜と霧」の非道や、今日的問題であるミサイル、原子炉、原爆など、今を生きる人間として看過できぬ大問題を、もの言えぬ俳句形式機能と手を組み、作者にも読者にも過剰な負担にならぬように作品化しているのである。

   戦争と戦争の閒の朧かな 

   小米雪これは生れぬ子の匂ひ      (中略)

堀田季何の俳句は限りなく俳句形式に親和しつつ、視野の広さの中にピンポイント的に抵抗と批評精神を示している。そんな堀田季何の今後をおおいに期待したい。


  と述べ、高野ムツオは、


 (前略)いわば権威や物欲に背く反近代の詩精神こそ俳句の根拠である。不透明かつ不可解で渾沌とした現代という時代に選ばれた俳人の一人として堀田季何はこの系譜の最先端に立っている。(中略)

 「きらめく詩魔の一つに出会うために、瞬発するエネルギッシュな力を出し切らねばならぬ」とは佐藤鬼房の言葉だが、堀田季何という異才は、詩の神に鞭をあてられた駿馬のように、融通無碍にその力を発揮しはじめている。


 と述べている。あるいはまた著者の跋には(原文は正漢字)、


 (前略)時間も空間も越えて、人類の関はる一切の事象は、実として、今此処にゐる個の人間に接続する。幾つかの句に出てくる〈われ〉は、作者自身ではなく、過去から未来まで存在する人類の現代における一つの人格に過ぎない。境涯や私性は、本集が目指すところではない。但し、作者である私の人格、思考、価値観が投影されるのは避けられない。例へば、堀田家の殆どが広島の原爆に殺されてゐる事や私自身が幼少時から長い間を国際的な環境で過ごした事は、人間観に少なくない影響を及ぼしてゐる。一族及び関係者からは、従軍、戦闘、引揚、原爆、後遺症等の生々しい記憶を伝承された。多国籍の友人たちと国内外で学び暮す過程では、東西冷戦、アパルトヘイト、アラブ・ユダヤ対立、中台関係、ユーゴスラビア紛争、香港返還、アメリカ同時多発テロ事件、さらに、多くの凶悪な人種・宗教・性差別の現実とは無縁でゐられるはずもなく、様々な形で関はることになつた。(中略)そもそも、現代の日本でも地下鉄サリン事件のやうな無差別テロ事件は起きるし、人種・宗教・性等の差別は歴然としてゐる。後者について言へば、東日本大震災といふ巨大な天災及び人災を思ひ起こして欲しい。自然はいつでも牙を剝くし、人間はいつまでも愚かである。


 と記されている。そして、第3詩歌集『星顔』の跋には、


 句集『星貌』は、単著の詩歌集では三冊目に当たる。有季、超季、無季の別にとらわれない自在季、且つ、定型律、自由律の別に囚われない自在律で書いた俳句を中心に編んだ。一部を除けば、二十代から三十代頃までの作であり、当時は、星々の、とりわけ地球という星の様々な貌を捉えることに熱心であった。


 ともあり、またその「附録解題」には、


 句集『星貌』の附録として、第二句集詩歌集にして第一句集『亞剌比亞』の九九句を収めた。同集は、日英亞対訳句集としてアラブ首長国連邦のQindeel社から出版されたが、日本国内では販売されていない。そのため、詩誌「て、わたし」第二号に、国内未流通版として同句集の俳句を掲載していただいたが、同号は完売、絶版になってしまった。そこで、今回、多少改訂した上、日本語原句を『星貌』の附録とした次第である。


 ともあった。仔細はともかく、以下に、これらの集中より、いくばくかの句を献辞なしになるが、挙げておこう。


  ぐちよぐちよにふつとぶからだこぞことし   『人類の午後』

  自爆せし直前仔猫撫でてゐし

  雪女郎冷凍されて保管さる

  天泣ぞこの花降らしたまへるは

  しやぼん玉ふいてた奴を逮捕しろ

  吾よりも高きに蠅や五六億七千萬年(ころな)後も

  クリスマス積木を積むは崩すため

  スターリン忌ポスターの下にポスター

  地球儀のどこも継目や鶴帰る

  薔薇は指すまがふかたなき天心を

  かき氷青白赤(トリコロール)や混ぜれば黎(くろ)

  徹頭徹尾人殺されし夏芝居

  神還るいたるところに人柱


  楽園帰還雪に言語を置き捨てて         『星貌』

  もう二度と死なないために死ぬ虱

  かき氷とはひたすら自傷せる

  放射能水着纏ってびしょ濡れ

  私(わたくし)は月でなくてはいけなくて月であった月

  鼓動はやし雨を喜ぶ民とゐて

  多く欲する者貧しブーゲンビリア

  インク・汗・血に聖別されてドル紙幣

  水紋の亜剌比亜文字になるところ

  肉体は砂に記憶は言の葉に

  詩人みな実名の地や風かをる

  土よりも砂おほき国ここにも神

  

 堀田季何(ほった・きか) 1975年、東京都生まれ。



         芽夢野うのき「迷えるは晩夏の国も魂も」↑

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