左より横澤放川・橋本榮治・坂本宮尾・井口時男・筑紫磐井↑
左より堀田季可・木内徹・菫振華・木村聡雄↑
左より福田若之・江田浩司・柳生正名・関悦史・高山れおな・筑紫磐井↑
昨日は、「兜太と未来俳句のためのフォーラム」(於:津田塾大学千駄ヶ谷キャンパスSA207教室、入場料無料・要申込)だった。相撲人気の秋場所にあやかるわけではないが、当日前にはすでの満員御礼となってしまったので、出席を諦められた方もいらしたらしい。フォーラムの内容はぎゅうぎゅう詰めの中味の濃いものであったが、それは「兜太」(藤原書店・年2回刊、予価1200円)第2号に反映されるということなので、時期は後になるが、興味のある方は、「兜太」第2号を是非お買い求めいただければ、たぶんソンはないと思う。
ブログタイトルに挙げた句は、第一部基調講演のなかで井口時男が「兜太」第一号「三本のマッチ」で述べた「『無神』という宣言」の項に対応した、「最後の〈無神の旅〉だけが突然変異のように『表現』の高みへと一気に跳躍しているのだ〉という句である。同号「三本のマッチ」は、兜太の俳句表現についての総括として、しごく真っ当なもので、愚生としては最後に記された、
金子兜太の句のいつもの姿だ。実に充溢している。私は圧倒され、たじたじとなり、心から感嘆しつつ、しかも、あまりに充溢しすぎている、と時々感じることがある。この時々の私の違和感はもう一つの前衛・兜太論への入り口なのだが、それは別稿とする。
とあって、その別稿を是非読みたいと思うのである。第二部セミナー「兜太俳句と外国語」も翻訳の問題を含め示唆に富んでいた。第三部シンポジウム「『新撰21』から9年」はパネラーの志向、また丁々発止のやりとりもあって、若者中心にしただけあって文字通り今後の俳句、未来俳句を語るには相応しいものであった。
ともあれ、以下に当日の次第を挙げておこう。
(総合司会:佐藤りえ)
[司会:筑紫磐井]
<第1部>基調講演
井口時男、坂本宮尾、橋本榮治、横澤放川 編集委員のスピーチ。
[司会:筑紫磐井]
<第2部>「兜太俳句と外国語」
木村聡雄(司会)、木内徹、董振華(トウ・シンカ)、堀田季何
<第3部>「『新撰21』から9年」
筑紫磐井(司会)、高山れおな、関悦史、柳生正名、江田浩司、福田若之
<閉会の辞> 黒田杏子
予定より、時間を押して二次会は近くの「漁火」、愚生はといえば、四国から遠路参加していた「豈」同人・真矢ひろみに初めて会い、久ぶりの渡辺誠一郎、中村和弘(重信13回忌に参加されていたことを思い出し、話したら本人も覚えていらした)。また宮崎斗士、高山れおななどと歓談(田中亜美にはチョッピリなじられ気味にからまれたが・・)。他に、「豈」同人では、羽村美和子、早瀬恵子、橋本直なども来ていた。
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