森山光章詩集『常在靈鷲山』(不虚舎)、巻頭の献辞には、
霊山一会の無量の菩薩・・・文底秘沈の種本を了して久遠元初の下種の位に立ち還りて本地難思の境智の妙法を信ずるが故に皆悉く名字妙覚の極位に到るなり。
(日寛『当流行事抄』)
とあり、後書には、
表題は、『妙法蓮華経・如来壽量品』から取った。テクストは、わたしの「墓」である。そこには「億劫の辛労」がある。そこには、感謝のみがある。
もとより、浅才、菲才の愚生には、いかほどの理解がとどくとも思われない。ただ、森山光章の詩歌のスタイルは、すでに確立された一流を成していると思われる。ならば、いくつかの詩行を以下に打ち並べて読者にその一端を披歴するのみである。
〔空〕の論理(・・)は、〔改變〕の根拠(・・)である—「いつくしみの家」の
みが、ある、、
〔詩〕は、「無能者」の言之葉である、壊滅の闘争(・・・・・)のみがあるー、
この「宇都之(うつし)」で〔信行学〕に励(はげ)み、永遠の(・・・)「福徳」をつむーそこには「来世」だけがある、
〔無いすら無い〕の空無(・・)、〔零度の世界〕に〔終わり〕の闇(・・)より力動を与える(・・・・・・)ー、
〔終わり〕の闇(・)から〔終わり〕という現実(うつし)へ、越えていく(・・・・・)-〔悪〕は痙攣する(・・・・)、、
〔元気で楽しい〕「宇都之(うつし)」ー〔終わり〕の〔改変〕は、ここに究竟する(・・・・)、、〔衆生所遊楽(しゅじょうしょゆうらく)〕、
「困難と苦しみ」は、楽しみであった、-〔煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)ー生死即涅槃(しょうじそくねはん)〕、遺念はなにもない(・・・・・・・・)、、
★閑話休題・・妹尾健「コスモス通信」とりあえず七号↑・・・
その中で「モダニズムの行方」と題した「武馬久仁裕著『俳句の不思議、楽しさ、面白さーそのレトリック」を読んで」の書評がある。以下の部分に感じるところがあったので引用しておきたい。
たとえばその二十七「官能的な読み」の場合、武馬氏は「俳句は視覚手に読むだけでなく、身体的にも読むべきものです」いわれてみれば、ぼくらは俳句を視覚を中心として理解しようとする。写生の呪縛はあまりにも深くて大きい。(中略)
これは俳句にとってたいへん残念なことであるといわねばならない。こうした秩序化から解放するのが、本来モダニズムがもっていた性格であるはずだ。(中略)
武馬氏の本はそうした傾向に対する根本的な問いかけを含んだ本である。レトリック感覚を日本人はあまり得意ではない。どちらかといえばだじゃれや言葉遊びは得意であるが、これはレトリックとはいわない。そこにはもっとも大切な批評精神が欠如しているからなのだ。
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