昨日に続いて、筥底から出てきた許状を記念にアップしておきたい。正直に言うと、こうした許し状を小転(こまろばし)ではいただいたのは覚えていたが(新陰流に,いわゆる段は無い)、その余は忘却していた。どうやら、初学から15年くらいは稽古にはげんでいたらしい。45,6年前の話だ。愚生20歳代後半である。それ以後は、一人稽古もろくにしていなかったので、愚生の身のこなしにも、いまや見る影はないのである。本来なら、額装にでもしておかなければいけないのだが、まるで終活の断捨離に近い気持ちだ。ひさすら愚生の備忘のためにカメラにおさめた。
新陰流の祖は上泉伊勢守である。居城は大胡だったので、そこで奉納演舞をした記憶はある。新陰流の最高位はたしか印可で、それが免許皆伝だったと思うが、愚生は、その前々のどうやら天狗抄奥の位までは行ったようである。とりあえず許状の写真を掲げておきたい。
会の名は「転(まろばし)会」、師範は渡辺忠成(ただしげ)、父上の渡辺忠敏とともに新陰流第二十世柳生厳長に学んだ人だった。世に言う柳生流(柳生新陰流)である。愚生が稽古していたころは弟子の数も少なく、「柳生流」は正しくは「新陰流」であり、「新陰流に帰れ!」という合言葉のようなものがあって、先輩諸氏は口伝書などをひもときながら、太刀筋、太刀使いについて、よく議論されていた。極意の剣は「転(まろばし)打ち」である。小説などでは、「兜割り」などと称せられていたのだと思う。「ゆめゆめ争うことなかれ」が兵法(ひょうほう)の原測であった。世に活人剣と言われた所以である。転(まろばし)打ちはいわば雷刀(らいとう)から、つまり上段から真っ直ぐに打ちおろす剣である。この真っ直ぐに打ち下ろすのは難しいのである。しかも、相手よりも遅れ拍子に打ち下ろせば、相手の剣に乗り打ち落とすことができる。いわば無敵の剣筋なのである。これは示現流なども含めて、剣道のもっとも単純にして確実な勝ち口なのである。あとは相手との間合いの問題である。相対することも大切なことで、多くの敵と戦う場合でも、常に一対一の正対の位置に身を置くのである。一乗下り松の決闘においても、武蔵は走りながら、敵の一人一人一人に正対する場面を創りだしたのである。
さらに、最後に到達すべきは「無刀(むとう)の位」であり、剣を持たないのである。
また、愚生の直接の兄弟子というより師範代だったのは、前田英樹で、今は評論家にして、自宅に道場まで建てている。同期の兄弟弟子は、今は刀禅会を創設してみずからの流派を創った小用茂夫。同じく宮本隆司は、職場の同僚であったが、50歳半ばで、脳腫瘍をわずらい無念にも早逝した。
撮影・芽夢野うのき「ロックもラップも波乗りも乗り切れず」↑
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