2020年8月25日火曜日
高山れおな「神君の鷹野の記念写真なし」(「俳句界」9月号)・・
「俳句界」9月号(文學の森)、特集は二つ「宗教と俳句」と、「難解句の楽しみ方」。「豈」の同人だった人も含め登場しているので、触れておきたい。
総論の田島健一「難解句とは何か/〈出来事〉の遅れと句の〈歪み〉」は説得力のある内容だった。それには、
(前略)この「句が書かれること」に対する「分かること」の時間的遅れ、―「分かる」ために遅れて訪れる〈出来事〉―これこそが俳句という短い表現型式の重要な性質を定めているとは言えないでしょうか。
「書かれた句」と「分かること」のあいだに漂う「書かれた句の意味がまだ了解されていない」時間、これが句を「分からない句」―つまり「難解句」にしています。
「分かる」とは「分からないことが分かる」というダイナミックな知の状態変化の呼び名です。もしその句が読んですぐに「分かる」のだとすれば、それは句の意味が「分かった」のではなく、「(既に)知っていた」情報が句に書き込まれていたに過ぎないと言えるのではないでしょうか。
(中略)
難解句とは何かーその問いに答えがあるとすれば、それは句が意味を結ぶための〈出来事〉の時間的遅れと、俳句を俳句たらしめている俳句型式の〈歪み〉に他なりません。
と述べられている。また、特集に、搭載された各俳人の自句自解の付された句は、
末は闇屋と答えし少年鰯雲 鈴木 明
COVIDが白い仮面で春暮れて 西池冬扇
六月を人類の卵でゐたる 鳥居真里子
神君の鷹野の記念写真なし 高山れおな
麻痺(しびれ)には
まんげつさうが
ききませう 外山一機
であるが、ブログタイトルにした高山れおなの句の自解には、
私は基本的に、意味がわかるように作りたいと思っている。にもかかわらず難解と取られるとしたら原因は主に二つ。①単語・典拠がわからない。②俳句観のずれ、読み手が俳句に期待する範囲からの逸脱。
掲句は未発句で「鷹狩」の題詠だ。家の中で、机に向かって、独りぼっちで作った。鷹狩は王朝和歌以来の冬の題目だが、もとより実地の知見はなく、大歳時記でも例句は乏しい。(中略)
「神君→徳川家康→鷹狩好き」で句意は明快なはずだが、日本史にうとい人は神君でたちまち躓くだろう。また、神君=家康はわかっても、想像的な歴史詠でかつナンセンス志向という内容に反撥する向きもあろう。そんな次第で①と②のいずれにも一定程度該当するのは確実と予想されるのである。
と、明快に述べられている。愚生が思うに②の俳句観のずれ、というかそれだけで読もうとする努力を放棄している人たちも意外に多いように思う。
あと一つの特集「宗教と俳句」には、これはかつての「豈」同人ということで、平田栄一の句をあげておくが、稲畑廣太郎にも同様のモチーフの句があったので、それぞれを挙げておきたい。
寒明や二十六聖人の黙 稲畑廣太郎
一糸まとわぬ主の十字架や致命祭 平田栄一
撮影・鈴木純一「口伝有り我が身の鈴の音も澄みて」↑
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿