2020年8月30日日曜日

星永文夫「黄泉へ征く裸まつりの男たち」(「We」第10号より)・・




 「We」第10号(We社)、注目は、招待作家・星永文夫の作と、星永文夫論ともいうべき加藤知子「星永文夫句集『俗神(ぞろぞろ)』を読んで~飢餓浄土への道」であろう。愚生は『俗神』は未見であるが、先に「俳句界」9月号において、その自選5句のなかに、

  駅頭に老いて 春にて われら棄民   文夫
  おい同志 火をくれないか 国は雪

 があって、いまだに一字空白の技法を、伊丹三樹彦とは違った形で実践していることに、いささかの感銘を受けたのだった。一字空白の技法については、かの富澤赤黄男に指を屈するが(その技法を丹念に読み解いた高原耕治の大部の一書がすでにあるが・・・)、「俳句界」9月号において安西篤は「俗神(ぞろぞろ)の世界-星永俳句を読む」で、「近来まれに見る個性的な句集である」と評していた。また、本誌本号の加藤知子は、

 (前略)星永は、昭和八年、熊本八代郡千丁村に生まれた。十二歳で終戦を迎えたことになる。
 村に戦争があった日 たんぽぽ絮に      「産の神」
 立志はすべて川に棄てた 立冬の朝だ     「 〃 」 (中略)
 せんだんの花 憂国に薄すぎて        「祈請神」(中略)
 星永は、これまでの人生の折々に、十九の神を連れ立ち、極私的に言語表出する。過去の源郷に繋がる路地のような、過去と現在を行き来する十九の神々を文学上の伴侶として対話しながら生き変わりしてきたのだろう。(中略)
 そのように観てくると、いま、星永はこれまでの惨たらしい人生を曝ゖ出して自ら創りだした神々に〈ことばの贄〉を捧げ、土地の精霊(地祇)と共に我が身をも鎮めて、生き変わり死に変わりを果たしたいのだと思われる。

 と述べる。また本誌の星永文夫俳句作品の下段にしたためられたエッセイには、

(前略)「土手に寝る 白いくれよんの音階で」(『100/67』所収)のごとく。自己を穏やかに肯定する。これはやまとびと(・・・・・)から受け継いだ私の〈血〉の所産なのだ。
 私はこのように一方では〈智〉によって存在を否定し、他方では〈血〉によって自己を肯定して生きて来た。〈智〉と〈血〉の渾沌・混迷の中で、そのありよう(・・・・)を何とかかたち(・・・)にして来たのだ。そのどうしようもないかたち(・・・)が、私の〈うた〉なのである。 

 と、記している。ともあれ、本誌本号より、星永文夫「ペストふたたび」からいくつかと、「豈」同人、もしくは面識のある方の一句(首)を以下に挙げておきたい。

  茄子の馬ゆっくり 死者を置いて去る      星永文夫
  さくらまんかい 〈不在〉というが坂を来る
  天上に口笛 きっと病む兄 きっと初夏
  手ざはりが違ふ気がする麦の秋         森さかえ
  もう待てないと百八つ目の鐘が言う       加藤知子
  卯の花腐し書庫に刃物の二三本         秋尾 敏
  眠りたくて瀧がごわごわ泣いている       江里昭彦
  大袈裟なことばかり箱庭の夜         真矢ひろみ
  なぜいまここでねむってしまうのかみんながとてもさけんでる中 柳本々々
  夏休み蟷螂揚羽玉虫をひそかに愛す孤独はオモチャ       加藤知子



  撮影・鈴木純一「捨姥待月(としおいしははをすてんとつきをまつ)」↑

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