2016年1月29日金曜日

杉田桂「予告せしごとく雪降る鬼房忌」(『老年期』)・・・



掲出の句は、杉田桂句集『老年期』(文學の森)の巻頭句。佐藤鬼房は平成14年1月19日に死去。そのわずか一ヶ月前の12月1日に三橋敏雄も亡くなっている。ともに享年は82。
愚生が杉田桂と最初に会ったのは、たぶん塩竃で行われた「小熊座」10周年記念大会のシンポジウムに、小澤克己、片山由美子、高澤晶子らとともに参加したのちの二次会だったように思う。三橋敏雄も一緒だったように記憶している(すでに、20年も前のことになる)。その時に、「小熊座」東京句会の世話をしているというように聞いたような記憶があるが、もはやはっきりしない。後に多賀芳子の碧の会で何度か一緒になった。現在は「頂点」同人という。その杉田桂80歳代(昭和4年、宮城県生まれ)の第6句集が『老年期』である。句集「あとがき」に、

 私は「重くれ」の俳風を好み、一方に於て作品の卑俗性を嫌った。ただこの私の思想の俳句を充足させる為には、相当に優れた感性や詩性を必要とするが、既に加齢の洗礼を受けた私には最早錆びた感性しか残らずそれらが全く喪失していた。(中略)
 そしてようやく自分の活路を見つけた。それは、作品自体が卑俗でもよい。俗語を使っても構わない。身辺の惹かれた事実や言語、即ち森羅万象を思い通り作品化してみようということ。換言すれば、私の老年期の生活を、私ならではの発想と表現で作品化していきたいということである。

いくつかの句を挙げておこう。

    つわぶきや水に映らぬ我のあり      桂
    ひおうぎやあなどり難き二枚舌
    夜桜や饒舌の死者少なかり
    蝉しぐれ焦土なまなましくひそむ
        東日本大震災
    料峭や黄泉に拉致さる二万人
    炎天や捨てたる影にかこまれる
    新種には非ず汚染の奇形蝶
    ヒヤシンス手に触れしものみな孤独
    黄落や吾より抜けてわれを見し




                                             ボケ↑


2016年1月27日水曜日

前田英樹×小栗康平「見るということは、接触していないということです」(「図書新聞」3240号)・・・




愚生は、このたびの小栗康平の映画FOUJITA」を観ているわけではない。
ただ、前田英樹にはいつも注目をしている。それも個人的な理由によるものである。
彼がまだ学生時代、と言っても大学院生であった頃,だと思う。愚生の入会した新陰流兵法「転会(まろばしかい)」の実質師範代であり、当時、尾張柳生流の流れにあった「転会」の刀法を「新陰流は上泉伊勢守に帰れ!」と言っていた前途有望の若くて、強い武道家だった。まもなく彼が丸山圭三郎の弟子でソシュールの研究家で言語学者であることを知った(『沈黙するソシュール』書肆山田刊で華々しくデビューした)。
映画に関しても小津安二郎論の著作もあり、また、府中市美術館で開催中の「若林奮ー飛葉と振動」の彫刻家・若林奮との共著・対談集もある。その他、小林秀雄や保田与重郎などに関する著作はもちろんのこと、批評家としての活躍はご存知の通りである。
この度の小栗康平との対談「絶対級を目指す」は映画監督・小栗康平のDVD作品集全4巻の発売を記念したもので、その解説を前田英樹が執筆、東京堂書店で行われたトークショーの採録とのことである。
愚生は俳人の端くれだからどうしても俳句形式に、身勝手に引き寄せて考えてしまうのだが、次の件あたりは、頷くほかなかった(アトランダムに引用する)。

  
小栗 見るということは、接触していないということです。ロングでもアップでも必ず距離がある。距離があることで表現になる。

小栗 つまり、見えているあらゆる形や事物がフレームのなかで捉えられることによって、普段我々が気付くことのない祈りや信仰、そして共にあるものたちという感覚への新しい心の動きに触れられればいい。

 小栗 芝居の上手下手は単なる比較級の問題でどうでもいいことです。絶対級ではない。監督も俳優も絶対級を目指すんだということですね。

 小栗 藤田が帰国した戦時下の日本でも、やはり自分が捉えようとしている主たる感情は明治以降の日本人の悲しみでした。それは、近代のなれの果てを生きざるをえない我々一人一人の悲しみでもあります。

前田 機械産業の一方の先端は近代兵器で、これは徹底した破壊を、世界の否定を目的にしています。写真、映画による機械映像はもう一方の先端で、こちらは徹底した世界の肯定です。





                                          
大國魂神社の欅↑


2016年1月25日月曜日

木耳郎「逝きし君らのこれる我等樹々は若葉」(「波」15年12月号)・・・



 掲出の句は、「波」(新潮社)に連載されていた「父と母の娘」末盛千枝子の最終回「逝きし君ら」の最後に引用されていた句で、

  逝きし君らのこれる我等樹々は若葉      木耳郎

 切り抜きの余白に(昭和)四十五・五・十二朝日(夕)と記してある。私は二十九歳だった。
                                                       (了)

と結ばれている。愚生は末盛千枝子のことをほとんど知らなかったので、ネットで検索したら、プロフィールに、「1941年生まれ。絵本の編集者を経て、88年すえもりブックスを設立。 『長崎26聖人殉教者の像』や、なじみ深い『田沢湖たつこ姫の像』などで知られる岩手出身の彫刻家・舟越保武氏の長女として生まれ、自らも児童図書や出版業界で活躍してきた末盛さんが、このたび八幡平市へ移住。末盛さんは、保武氏29歳の時に8人兄弟の長女として東京に生まれ、保武氏は高村光太郎が著した『ロダンの言葉』に感銘を受け彫刻家を志したことから、敬愛する高村光太郎の自宅を訪ね娘の命名をお願い、光太郎は『ちえこという名前しか思い浮かばない。智恵子のような不幸な道を歩ませたくない』と言い千枝子と命名。それは奇しくも光太郎の最愛の妻の死後3年目」などとあった。
愚生がたまたま読んでいたのは、絵本プロジェクトで被災地での活動のことを書かれた部分だったが、旧知の照井翠の句集『龍宮』のことも出てきて、

  なぜ生きるこれだけ神に叱られて      翠
  寒昴たれも誰かのただひとり

などの句も引用されており、愚生の鈍感な胸にもいくばくか響いてきたのだった。






*閑話休題・・高野ムツオ「みちのくはもとより泥土桜満つ」(『小熊座の俳句』三十周年記念合同句集)・・


 その3.11を詠んだ句も多く含まれる『小熊座の俳句 三十周年記念合同句集』(小熊座俳句会)が刊行された。その序に高野ムツオは以下のように記している。

  俳句形式に秘められている世界は無尽蔵である。一人一人がさらに艱難を自らに課しながら、詩性に向かい、その先に他に紛れることのない独自の世界を展開されることを期待」。


いつかを挙げておきたい(俳句は過去5年間からの自選とあった)。
                                                  
  春天より我らが生みし放射能      高野ムツオ
  狂気とは赤紙の色開戦日        大久保和子
  始まりは星の爆発夜の桃        大場鬼怒多
  凍土より伸びて一樹の高さかな      春日石疼
  たんぽぽの絮とぶ象のいない檻     越髙飛騨男
  月光の他みな伏せ字3・11      佐藤きみこ
  金蛇の死を金蛇が通り過ぐ        関根かな
  毛布よりはみ出す握り返せぬ手     津髙里永子
  拾はれぬ木の実月下に降るばかり     浪山克彦
  放射能なぜ水源に水の秋         俘 夷蘭
  回想のすべてが津波寒北斗        吉野秀彦
  いつの世も禁書は読まれ雲の峰     渡辺誠一郎
  生きてゐるとはまた逢へること冬の星  草野志津久
  風までも雪の朝に影となり        佐藤 栞
  あるはただ一つの地球鰯雲         林 哲 



  

2016年1月22日金曜日

安井浩司「草露や双手に掬えば瑠璃王女」(「俳句界」2月号)・・・



「俳句界」2月号(書店発売は1月25日)は各特集の記事、作品の執筆陣を含めてなかなかの充実ぶりである。
とりわけ、「鬼才の俳人 安井浩司ー心の槍を研いで俳句を作る」の特集は俳句総合誌としては初の快挙であろう。
内容も安井浩司自選50句、安井浩司の書(軸もの4ページの写真)、編集長・林誠司のインタビュー「”無限”という道を歩く」、また論考の救仁郷由美子「俳句の無限連続」、関悦史「驚異という俳句の屋台骨」など、よく安井耕司の在り様にせまっている。
インタビューではこれまで安井浩司が語ったことのないことがかなりある。ほぼ毎日20句を大学ノートに書付け、それを2年間続けて1万2000句の荒行、それを第7次まで推敲を重ねて、推敲しながらカットして約1000句になる、その時点で初めて新作の俳句が生まれる。これで2~3年かかるという。従って、今回の「俳句界」編集部からの新作要請は実現せず、自選50句のみになったらしい。加えて夢中作も加わる、という按配だ。インタビューの最後に近いところでは以下のように述べている。

  私は句集を何冊か出してるけど、常に乞食みたいな旅をしているんですよ。先もよく見えませんしね。一種の結論の場に座れるような書き方ではない。それで俺は”無限”なんだと。西脇さんが永遠であれば安井浩司は無限だ。晩年は無限をテーマにしよう、と思っているんです。無限は自分を旅人にすることも出来ます。無限は結論ではなく、どこまでも自分がこの足で歩いていく。これが自分のスタイルであり、様式なんだと。何を書くかというテーマでなくモチーフとしてね。テーマは常に探求ですから、無限をモチーフにして。これは一つの道だね。道には旅人が存在出来ると思ってるんですよ。ニコラウス・クザーヌスというドイツの哲学者が「無限」について、
無限なるものに於いて、あらゆるものは拡散するのではなく、集約して一致するということを書いているんです。こんな一致までは私も行けませんけど、どこかで無限そのものも一つの立ち姿みたいなものを結ぶことが出来ますよというようなことで。それを励みにやっていくのが、このあとの仕事ですね。

本論考のなかで、関悦史は、安井俳句の方法について、次のように指摘している。

 ふつう俳句の作り方としては、詠みたいもののイメージがかなりの程度作者にあらかじめ明確であり、言葉をそのイメージに合致するよう組織していくというのが多数派であろうが、安井はおそらく、一句が出来上がるまで、自分が何を書こうとしているか、漠然とした方向と、モチーフのわずかな手がかり以外のものを持っていない。安井の句が超現実的に見えるにしても、イラスト(説明図解)的な明快さから遠く、豊饒な混濁を示しつづけることが出来ているのは、そのためである。

安井浩司(やすい・こうじ)、1936年2月29日、秋田県能代市生まれ。
ともあれ、以下にいくつかの句を自選50句のなかから挙げておこう。

  渚で鳴る巻貝有機質は死して      浩司
  キセル火の中止(エポケ)を図れる旅人よ
  ひるすぎの小屋を壊せばみなすすき
  麦秋の厠ひらけばみなおみな
  汝も我みえず大鋸(おが)を押し合うや
  有耶無耶の関ふりむけば汝と我
  冬青空泛かぶ総序の鷹ひとつ
  万物は去りゆけどまた青物屋
  天類や海に帰れば月日貝
  花鶏(あとり)ども流れる宇宙も化粧して



2016年1月20日水曜日

井口時男「光量子(ふおとん)降りやまず雲雀は盲ひて空にあり」(「てんでんこ」NO.8)・・・



掲出の句には、以下のように少しばかり長い詞書が付されている。

  五月一日、辻章氏の訃報あり。辻氏は私の「群像」新人賞時の編集長であり、早くに退職された後、作家として活動された。氏は二〇〇六年から二〇〇九年まで個人誌「ふおとん」を発行され、私はそこに『少年殺人者考』を連載した。そして氏は、何より二十五年ほどの前の夜、私の愚行が招いたある事件に際して、文字通り私の「命の恩人」でもあった。

  光量子(ふおとん)降りやまず雲雀は盲ひて空にあり     時男


井口時男は数ヶ月前に句集『天來の獨樂』(深夜叢書社)を出版し、愚生は「図書新聞」の依頼によって書評(2016年1月9日、3227号)を書いた。その縁で、この度「てんでんこ」NO.8(てんでんこ事務所発行)を恵まれた。そして、『天來の獨樂』は、愚生の記憶に間違いがなければ(何しろ書店での立ち読みだったので)昨年発行された句集の中でNO.1だと「俳句年鑑」のアンケートに齋藤愼彌が答えていたように思う。齋藤愼彌は蛇笏賞の選考委員、是非、蛇笏賞の候補に挙げて、議論をしてもらいたいと思う。それだけの価値はあろう(そうすれば、俳壇というところも少しは面白くなるのではなかろうか)。

井口時男は「てんでんこ」本号に「鼓膜の秋となりにけり」と題したコラムも書き、それには、石原吉郎の句「街果てて鼓膜(こまく)の秋となりにけり」(石原吉郎)を名句として挙げている。愚生も石原吉郎は戦後詩人のなかでは最も好きな詩人だった。句集に収録された句は、たしか、ラーゲリでの生活が刻み付けた記憶として帰国を果たしたものではなかったか、と思う。

以下に「てんでんこ」NO.8からいくつか挙げておきたい。

    海暮れてはまなすの実のまた点り (大森浜 啄木公園)
    夏蝶の径は断たれてこの岬 (立待岬)
       西脇順三郎と富澤赤黄男とドストエフスキーに
    あけび二つぶらさがつてゐる 永遠
    喫ひ付けて女はしやがむ路地の夏
    送り火やメビウスの環のうらおもて
       金子兜太に
    秋の夜の濡れ吸殻や思惟萎えて



                  ロウバイ↑

2016年1月15日金曜日

松林尚志「地は寒き灯をちりばめて天冥し」(「澪」111号)・・・



実は昨年初秋の頃に恵まれた松林尚志『和歌と王朝』(鳥影社)について、早急に取り上げて、そのお礼を兼ねようと思っていたのだが、読了しないまま月日のみが去って行きそうな気配なのである。
内容は、目次をひろうと「藤原良経と後鳥羽院・実朝ー『新古今和歌集』成立の周辺」や「宗良親王私記ー流離の歌人」など文字通りの和歌に関するものだったので、愚生にはちょと荷が重すぎたのだ。とはいえ、「長塚節と斎藤茂吉ー節の『赤光』書入れをめぐって・・・」はスリリングで面白かった。
かつて、松林尚志著『日本の韻律 五音と七音の詩学』(花神社、1996年)を早稲田の古本屋で偶然手にしたことがあったが、その後も子規、斎藤茂吉、芭蕉、蕪村などに関する多くの著作があり、詩歌をめぐる論作両輪の俳人である。




そうこうしているうちに松林尚志が代表を務める「澪」に連載されている「山茶庵雑記 25」の「『船団』の座談会と関悦史氏近業に触れて」が眼に入り、行き当たった。
松林尚志(まつばやし・しょうし)は1930年生まれで、「海程」同人でもあるが、その論には定評があるし、現在の俳句状況についてもつねに真摯な発言をしておられる。
その「船団」の特集・「俳句を壊す」(愚生は眼にしていないが)の関悦史に触れた部分を孫引きして、紹介しておきたい。

  「俳句を壊すじゃなくて、俳句によって自分が壊される方を目的にした方が、いい俳句ができるように思う」とも語る。「どこかの次元で作品の言葉と現実の言葉が結びつい渡りあっていなかったらどんどん空虚というか陳腐なものになります。」という発言は貴重と思った。現在俳句にこれだけ熱く向かい合っている作家はそうはいまい。

この座談会は関氏の独演会のような内容になったが、氏を知るうえでもう一つ別な仕事に目を向けてみたい。それは「円座」に連載している「平成の名句集を読む」で28号時点で第七回となっている。(中略

もう一人の竹岡一郎氏の『ふるさとのはつこひ』は「SF的想像力と御霊」とコメントされていた。全編連作になっているようで、「比良坂変」から二句を引く。
   斃れざり雪女より生まれし兵
   折々の兵器と契る鬼火かな
 かなり異様な世界で、氏は「サブカルチャー・オタク文化の発展による感性の変容を、ここまで大々的に俳句に取り込んだ例は極めて希少だろう」と述べる。竹岡氏は「鷹」に属して普通の句集も出しているようであり、この試みは壊すというより、別な世界といってよい。
 



2016年1月10日日曜日

日原正彦「ひなたぼこいのちほどよくやはらかに」(『てんてまり』)・・・




日原正彦『てんてまり』(ふたば工房)はちょっと珍しい句集だ。序文、跋文、略歴が無いのは、まだうなずけるとして、全句が新聞、雑誌、テレビなどの「俳句」欄での入選句を集めたものだという。それらの事情を「あとがき」から拾うと、

 句作は一九九八年頃から始めましたが、結社や同人誌にはどこにも属しませんでした。ここに集めた句は、その間に新聞、雑誌、テレビなどの「俳壇」で入選(特選、秀逸、佳作)したものばかりです。たくさんの俳人の方々に選んでいただきました。

 とある。略歴はないものの、
  
    山茶花や散らばる午後のランドセル      正彦
    放課後の黒板黙す日短
    五限目の休み時間の日向ぼこ
    私語多き授業を終へて秋の風
    転校生とんぼの風の中より来
    秋晴れやゼロの起源を講義中
   
 などの句を読めば、教師らしい。また、「禁煙の部屋を出て吸ふ寒さかな」をみると喫煙者なのだろうとも思ったりする。
句はとりあえず、俳壇の諸先生方の選を経ているので、俳句のかたちがおのずと書かせた(詠ませた)句で、過不足なく出来ていると言えよう。ただ、句集全体としては、歴史的仮名遣いよりもむしろ現代仮名遣いで句を書いた方がより句の心のありようが、よりよく読者に伝わる句が多いのではないかと思った次第。 
ともあれ、いくつか愚生好みの句を挙げさせていただく。

   呼気吸気呼気吸気呼気あげひばり
   よきかをりはなちさうなる金魚かな
   短夜や開けば喋りだす雑誌
   昼寝覚しばらくさぐるわが命
   唇のつひに開かず花野過ぐ
   父と子の父には速い雪が降る




      
    

2016年1月8日金曜日

政成一行「絵に残る失くした風景からも かぜ」(『風の宿』)・・・




掲出の「絵に残る失くした風景からも かぜ」(『風の宿』沖積舎)の句は、1995年、阪神淡路大震災の折の句で「全壊校舎でのパボーニ風景画展」と詞書の付いたものだ。
略歴によると、生まれは愚生と同年、兵庫県生まれで生まれて間もなく父の死と同時に神戸市に移り住んだらしい。その後は伊丹三樹彦「青玄」に出合い、今は「青群」同人にして編集人とあった。名は「まさなり いっこう」と読む。
従って、序文ならぬ「一行(いっこう)の ひたすらなるは 一行詩(いちぎょうし)」で始まる序句20句は師の伊丹三樹彦。装丁挿画は子息の行政史人とある。幸に満たされた第一句集というべきか。
1989年から作句を開始したらしく、その初発を記した扉裏には以下のようにしるされている。

  あたたかい冬の日、赤城村在の雲水 佐野顕光と前橋に遊んだ。〈あこがれて友と歩きし広瀬川 そのせせらぎに朔太郎をきく〉などと。その後、別の友に誘われて花の吉野へ泊り、俳句らしきものを作った。折しも、職場近くの茶房に置かれた、伊丹三樹彦主幹の俳誌「靑玄」を手にし、その新しさと自由さに魅かれた。四十一歳からの俳句事始めだ。

    古仏より噴き出す千手(せんじゅ) 遠くでテロ   (伊丹三樹彦)

以下に、集中のいくつかの句を挙げておこう。

   いちばんに塾に来る子は蝶連れて
   風の意味変える軌跡の 震後の蝶  (震後一年 復興祭)
   田(た)ン神(かん)どんへ水路清掃 初音きく  (集落では田の神を種の神と表す)
   不安症 電話の向こうで飛んでる蛾
   ひとときのとどまりどころ 風の宿
   ひたすらにただねむりたい蝸牛
   動けぬが使える右手 文字摺草
   寝たきり天使 作り笑いはできません
   テビさらい ふるさとではないやつのかぜ   (テビさらい=水路清掃)
   この朝も歩けるうれしさをあるく森    (日の子坂・新春ウォーク)




2016年1月7日木曜日

坪内稔典「東風吹いて日本は戦争放棄国」(『ヤツとオレ』)・・・



句集名『ヤツとオレ』(株・KADOKAWA)は、以下の句に因んでいる。俳句日記とでもいおうか、日付と詞書が付されている。

    夏めいて蛸めいてヤツそしてオレ

        5月7日。「けれども蛸は死ななかった。彼が消えてしまつた後ですらも、尚ほ且つ永遠に
        そこに(◎◎◎)生きてゐた」(萩原朔太郎「死なない蛸」)

坪内稔典も古稀を超え71歳という。愚生が立命館大学夜間部に入学して、百万遍寮に入寮、昼間に行われている立命俳句会に入ったときには、坪内稔典は別の俳句会を組織していた。かつ出町寮の寮長をされていたと思う。当時の立命館大学の学生寮は、舎監がいたものの入寮した学生自身の手ですべてが運営されていた、いわば自治寮だった。70年安保闘争直前の寮はデモへの最大動員が可能な場だった(その後、機動隊の導入など、強制執行によって寮も多くは廃寮された)。
あれから、ほぼ半世紀が経ってしまったのだ。そして、坪内稔典は「日時計」を創刊し、その後「現代俳句」(南方社)を発行するなど、俳句総合誌を向うに回して、自分たちのメデアを創り、自分たちの場を自らで創って、自分たちのめざす俳句を追求し、既成の俳句・俳壇に対抗し続けてきた(そのことの志は、内容はさまざまあってもいまだに貫かれていると思う)。
それでも、愚生は坪内稔典第12句集『ヤツとオレ』を読み終えたときのさびしさは一入だった。この半世紀坪内稔典の後ろ姿を見続けてきたと、いや、とにかく、どうであろうと、坪内稔典の行く末は見届けたいと思っているのである(かつて愚生は、22~3歳頃、俳句は読んでも、意識的に俳句を書かなかった時期が3年間くらいある。そうしていた頃、坪内稔典は創刊される「現代俳句」に愚生の俳句作品を書くように依頼した。それをきっかけに愚生は句作を再開したのだった)。
自分でもよく分からないが、それが愚生の坪内稔典への恩義だと思っている節があるのだ。
ともあれ、いくつかの句を挙げておこう。

     老人はすぐ死ぬほっかり爆ぜる栗              稔典
     木の芽和え百年前の今夕も
     尼さんが五人いっぽんずつバナナ
     日本に憲法九条葦芽ぐむ
     東風吹いて日本は戦争放棄国
     人が蛸蛸が人食い蛸踊り
         5月14日。もう無茶苦茶!ほとんどお手上げです。



2016年1月5日火曜日

松下カロ『女神たち神馬たち少女たち』(深夜叢書社)・・・



松下カロは1954年東京都生まれ。ロシア美術専攻だけあって、その主要な批評には、美術との対比によって論が展開される。かつて愚生が「俳句界」編集部にいたころ、その執筆者を選ぶについて推奨した記憶もある(その頃、俳句界評論賞の応募や俳誌「らん」などに中村苑子論を展開していたと思う。本著には収載誌の初出がでていないのが、少し残念)。「考幻学的俳人論」とした帯文は齋藤愼爾。
収載された論のなかでは「弱者の言葉」坪内稔典論、「暴力としての言葉」桑原三郎論、「カンディンスキーのいる言葉」関悦史論などに特に魅かれた。例えば次の件など出色、

 坪内稔典における俳句も、ウォ―ホルのシルクスクリーンと同質のオープンな媒体として機能している。河馬は諸々の言葉と共存しているが関係しない。坪内は河馬に何も負荷しないからだ。その結果、読者は河馬に、自分が見たいものを見るとができる。ウォ―ホルのマリリンを観る者が、個々のマリリン像をそこに重ねるように。

 周知の人物像を、ディテールの操作のみで重写するウォ―ホルの手法と、各々の述懐に河馬のレッテルを貼りつける坪内の方法には〈既成グッズの汎用〉の共通根がある。加えて作品の持つ一種の猥雑性、〈創造〉の概念を一変させた立ち位置の接近は、美術や言語がサブカルチャー化しなければ生き延びられなかった時代要請の先取とも見える。

 河馬は方法への模索が生んだロジックであると共に、坪内が持ち続けている少年時代のはにかみ、関係性に対する純な怖れが、その感じ易さのために発掘され難かった鋭い造語感覚に触れた際に出現した〈弱者のロゴ〉である。心優しい河馬を前に、我々は弱者としての自己を肯定し、もう一人の弱者である他者を受容する。

紹介の最後に論に引用された河馬の句を挙げておこう。

    みんなして春の河馬まで行きましょう     『猫の木』
    秋の夜はひじき煮なさい河馬も来る
    遠巻きに胃を病む人ら夏の河馬
    河馬になる老人が好き秋日和
    今は昔口開けている秋の河馬
    風呂敷をはい出て燃える春の河馬     『わが町』
    河馬燃えるおから煎(い)る日を遠巻きに  
    水中の河馬が燃えます牡丹雪       『落花落日』
    恋情が河馬になるころ桜散る
    春を寝る破れかぶれのように河馬
    桜散るあなたも河馬になりなさい       
    河馬へ行くその道々の風車          『百年の家』
    秋風に口あけている河馬夫婦        『人麻呂の手紙』
         


     

2016年1月4日月曜日

高岡修「その樹液熱きか内部被曝の木」(『水の蝶』)・・・




高岡修第6句集『水の蝶』(ジャプラン)は、新年早々の上梓ながら(届いたのが新年、奥付は昨年12月20日)、はや本年の収穫筆頭句集に上げてみたい誘惑にかられる。装丁も著者自装。
「あとがき」に言う。

 もちろん、日本の果てに住む私に3.11の経験はない。どれもが報道で知ったものであり、それらによって醸成された心象風景である。
 しかし、その現実が差し示しているものは、それが私の現在の詩的想像力の全てだということにほかならない。それを限界だとするむきもあるだろうが、今後の私の句作は、これらの作品の発表を超えてしかなされないであろうことも事実である。

アドルノのあまりに有名になってしまった「アウシュビィッツ以後、詩を書くことは野蛮だ」の言説にどこかで通じているようなものいいである。文化こそ、効率こそが野蛮・・・
ともあれ、愚生らはいつもその野蛮を意識することなしに、歩を進めることが不可能なのだ、ということなのかも知れない。
文学臭というなら、かく文学臭のする句集も現在は珍しくなってしまった感がする。それだけに貴重な一本なのである。
感銘句をいくつか挙げたい。

   あおあおと銀河にもある津波痕       修
   肉のかげ恋うかに揺れる蛇の衣
   犬と来て虚無に噛みつく秋の影
   滅びゆく銀河にも垂れ烏瓜
   鶴発てば地もひろげゆく影の羽
   直瀑よ この垂直の昏倒よ
   踏切りを渡れるは地震/春の死者
   その樹液熱きか内部被曝の木
   鳥雲を出て鳥にある死のほてり
   水底の神輿をかつぐ死者の声




   
 

2016年1月1日金曜日

穴井太「初御空ハナハトマメの行方かな」(『穴井太全句集』)・・・



新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

『穴井太全句集』(天籟俳句会)が「天籟通信」創刊50周年、600号記念出版として刊行された。
穴井太の句業の全体を知るには好著となろう。
穴井太は昭和元(1926)年大分県に生まれた。1954年横山白虹に師事、56年「未来派」を創刊、63年に「海程」に同人参加。65年「天籟通信」を創刊。1997(平成9)年没、享年71。
愚生が最初に穴井太の句集を手にしたのは、『ゆうひ領』(牧羊社・1974年刊)で既刊句集『鶏と鳩と夕焼と』『私版・短詩型文学全書穴井太集』『土語』などを加えた第四句集である。偶然に吉祥寺駅ビルの書店の棚で手にした。その句集も今は手元にはない。その『ゆうひ領』の句、

   ゆうやけこやけだれもかからぬ草の罠      太

を愛唱した。
その後、愚生がまだ40歳代後半の頃、現代俳句協会の総会前に行われる幹事会などでわずか数回だと思うが、お会いし、太亡き後も「天籟通信」の恵送の恩に預かっている。
以下に穴井太の正月の句と合わせて、いくつかを記しておこう。

   元日や用なきものを慈しむ
   鏡餅ちいさくなりぬ戦後かな
   あの世には桃太郎がいる初日かな
   まず重湯すすりて一日清閑に

   吉良常となづけし鶏は孤独らし   
   すきまよりタンポポ生えるあらゆるすきま
   夜は花びらのように来る雪狐
   孵らざる卵を抱く夕ぐれ二階
   生きていたい生きたいというあつい舌
   鳥帰る河馬は少しくももいろに
   立春の大吉なりや妻逝けり
   生も死も混みあっている蛍の夜
   ベットに届く陽をすくいあげ三ヶ日 (絶句)


愚生の本年初句を献上する。

   初御空うるうの申の日や高く         恒行  



                  アオキ↑