2016年4月30日土曜日

寺山修司「目つむりいても吾を統ぶ五月の鷹」(「くぢら」5月号・寺山特集)・・・




「くぢら」5月号の特集は「俳人の軌跡NO.14 寺山修司」。転載による再掲載記事が多いのが少し気になるが、よしとしよう。毀誉褒貶甚だしかった寺山修司だが、それは彼にとって、本質的な問題ではなかったろう。なにせ、若者をいまだに魅了し続けているのだから、芸術的な魅力ある何かをsのエネルギーとして持っているにちがいない。
1983年、寺山修司は五月晴天の日に、二か月後の七月雨天の日に高柳重信が亡くなった。

     五月修司文月重信逝ける空はも      恒行

その後、愚生が「俳句空間」を書肆麒麟の澤好摩から、版元を弘栄堂書店に移した際の、新装刊「俳句空間」第6号の特集が「寺山修司の俳句世界」だった。その時は、三橋敏雄に寺山修司100句選と福島泰樹にインタビュー「寺山修司の俳句を語る」をお願いした。
その100句の掲載の著作権料支払いについての交渉を、新書館の方に紹介をしていただいて、母親の寺山ハツを訪ねたのだった。
寺山修司は言う。

  のびすぎた僕の身長がシャツの中へかくれたがるように、若さが僕に様式という枷を必要とした。・・・定型という枷が僕に言語の自由をもたらした。

そうなのだ。世に言われる有季定型こそが不自由な枷ではなく、まさに自由を保証しているのである。高柳重信は言っていた。「もし、非定型で、季語を入れないで俳句を作れと言われたら、足かせ、手かせをはめられたも同然で、俳句は書けない」。

ともあれ、「くぢら」の特集に敬意を表して、同誌よりいくつか句を挙げさせていただこう。

   花冷えや寺山修司の空のうた      中尾公彦
   海が哭く海の骨哭く涅槃西風      工藤 進
   窓ごとに立春の空ありにけり       掛井広通
   十字架の光り眩しき竹の秋        渡辺嘉幸



   

2016年4月29日金曜日

河口聖展「Recollection」(ギャラリードードー)・・・



                   河口聖(左)と澤好摩↑

夕刻から河口聖展(4月29日~5月22日・休廊は5月2日、9日、16日)、於・ギャラリードードー(Gallery &Cafe DODO)のオープニングパーティに出掛けた。愚生宅からあるくと12,3分の近場だ。府中駅から15分ほど歩いた、農工大の近くにある「室内にいて屋外にいるような空間」を実現したという、ギャラリーがあってカフェがある、ゆったりした時間を味わっていただく、そのような場であるらしい。
河口聖は1947年、鳥取県生まれ。2000年よりフレスコ技法によるキャンパスへの定着を試みて以後のRecollectionシリーズ。絵肌には各地で採取した砂や土が使われている。
1972年、村松画廊にはじまり、日仏学院ギャラリー、ドイツ文化会館ギャラリー、Ssangriギャラリー(韓国)など80個展を開催するなど国際美術展にも多数参加出品してると案内にあった。
俳人とのかかわりでいうと、学生時代、バイト先の歌舞伎町・喫茶店王城で、ひそかに大本義幸にサンドイッチを作ってもらい空腹を満たしていたらしい。以後、攝津幸彦との「黄金海岸」の表紙絵や坪内稔典「現代俳句」、また、「豈」の復刻/回想特集版の表紙、最近では坪内稔典コレクション、あるいは澤好摩の「円錐」や書肆麒麟の句集の装丁なども手掛けている。
一時期は麻里伊の「や」で俳句も作っていた時期がある。
外は春にしては冷たい強い風が吹き、北海道では吹雪くという荒れ模様の天気だった。
一句献上!

   河口より聖なる月を生み出す精          恒行



2016年4月28日木曜日

秦夕美「絶海へ翔つそぶり見す注連飾」(「GA」74号)・・・



「GA」は秦夕美の個人誌。巻頭は「よしゑやし」40句。他に各国名を詠み込んだ「君や知る」10句(漢字の国名にはルビがほどこしてある)。二編のエッセイ「とぜん」「宅配タクシー」。「蕪村へ」(蕪村句二句のエッセイ)。兜子の句を発句に、脇起十八韻〈「春雷」の巻〉の独吟。「あとがき」を入れて22ページの冊子。いつものことながら秦夕美ワールドなのである。
「宅配タクシー」とは何のことだと思ったら、近所のスーパーで毎週木曜と日曜日に二千円以上の買物をすると、品物と一緒に買った本人も一緒に乗せて自宅まで無料で送り届けてくれるのだそうだ。品物は玄関の中まで運んでくれるというから年寄りには、有り難い。福岡ではそのようなサービスが行われているのかと・・・、このアイデア、東京でもできないものかな?
以下は「君や知る」より、

   野薊の刺繍せつなし瑞典(スウェーデン)
   丁抹(デンマーク)うまれの家鴨いばら咲く
   かくありて海市など見ぬ柬埔寨(カンボジア)

ここで思い出したのだが、確か「WEP俳句通信VOL91」にも秦夕美は特別作品30句を「悲歌楽歌」と題して発表していた。
以下はその中から、

   にらいかない雲雀湧かしめゐて淋し
   ら行よりはじまる詩あり月日貝
   この世にし生るるさだめの蜃気楼
   ぐうちよきぱあ魚氷に上るならひかな
   鳴かずとばず穴を出でたる蛇は
   家霊ともならぬ男や蛺蝶   

実に変幻自在の句作り、句境というべきか。


2016年4月27日水曜日

加田由美「涅槃哭く蟹の姿に生れ合ひ」(『桃太郎』)・・・



句集『桃太郎』(ふらんす堂)の帯の略歴によると、加田由美(かだ・ゆみ)1945年和歌山県生まれ。1969年に山口誓子に師事、「天狼」入会。94年「天狼」終刊の時に、第一句集『花蜜柑』(ふらんす堂)を上梓。96年「紫薇」創刊に参加、2013年「翔臨」入会とある。
句集名になった句は、

    「桃から生れた桃太郎」蚊帳の子に

因むものだろう。
実にすっきりした装丁の句集で、一瞬、菊地信義の雰囲気をまとっているが(装幀は和兎)、何と言ってもカバーの手触りの紙質が特徴かもしれない。最近は殆ど姿を見せなくなった革装に似た湿りをもっている。
20年間の句業から308句収録というのだから厳選なのかも知れない。

   歳時記の「醜く茂る」藪枯らし

藪枯らしが「醜く生い茂る」とあるのは『合本俳句歳時記・第三版』(角川書店)。別名、貧乏蔓。

   夜桜も夜桜の図も音あらず

には、根源俳句を領導した頃の誓子の匂いも残しているのかも知れない。

   青鷺の背ナのあたりが中田剛

中田剛はその若き昔、確か、三浦健龍(父は雲母同人だった三浦秋葉)の「鷺」同人だったころから、寡黙で、筋の通った俳人の印象があった。
ともあれ、いくつか以下に印象深い句を挙げさせていただく。

   こぼれのこりし一粒を竜の玉
   サングラス外すや堂々たる醜女
   水蜜桃ふれ合はぬやう動かぬやう
   後の世の故郷明るし返り花
   「みてませぬ」フェンス咥へて蛇の衣
   一花も見ず一望に蓮畑
   雲の峯あるべきやうにつひえさる
   ゆつくりと夕日ののぼる雛の段

2016年4月25日月曜日

小笠原弘子「生きる側に選ばれし身や石蕗の花」(「水明会の俳句」)・・・


                 高野ムツオ氏↑

昨日、4月24日は〈俳人九条の会「新緑の集い」〉が東京・北とぴあで行われた。
愚生も実に久しぶりに都内まで足を運んだ。
会場のペガサス・ホールは、ほぼ満席だった。弁護士・飯田美弥子(高座名・八法亭みややっこ)の「歴史に学び、未来を志向する日本国憲法」の憲法落語を楽しみ、高野ムツオ「3・11と俳句」の講演を聞いた。
「九条の会」は元はといえば、2004年6月、大江健三郎や小田実・加藤周一、鶴見俊輔、澤地久枝、梅原猛、奥平康弘、三木睦子の8人の呼びかけで始まった。

 しかるに憲法制定から半世紀以上を経たいま、九条を中心に日本国憲法を「改正」しようとする動きが、かつてない規模と強さで台頭しています。
その意図は、日本を、アメリカに従って「戦争をする国」に変えるところにあります。
そのために、集団的自衛権の容認、自衛隊の海外派兵と武力の行使など、憲法上の拘束を実際上破ってきています。

これらのことを12年前に「九条の会アピール」として出している。昨年の国会での動向はまさにそのことが現実化されつつあることを実証した。
高野ムツオは「3・11と俳句」を語りながら、講演の最後を、東日本大震災、福島、そして、今回、熊本での地震のことを思うと、原発の再稼働はありえない、と結んだ。
ともあれ、高野ムツオ講演で語られた俳句のいくつかを下記に紹介しよう。
因みに「水明会」とは、高野ムツオが震災以前から指導している地元の句会だという。
まず「豈」同人でもある関根かなとその子息・杉山一朗(当時10歳)の句から・・・。『東日本大震災句集『わたしの一句』より。

   雪遊びしてゐる声が空からも   宮城・関根かな(「小熊座」「豈」同人)
   九か月十四日目のクリスマス  杉山一朗(当時・10歳・小学4年) 
   滝音や死ぬときはベッドと言う少年 髙橋孝輔(当時・高校生でボランティア活動) 
   白梅や轟音がして津波来し        阿部陽子 (「「水明会」)
   生き抜いてくだされ風邪ばひかねよに  青森・佐々木とみ子
   つなぐ手を波が断ち切る春の海       宮城・菊田島椿
   「フクシマ」にあらず福島秋刀魚焼く     福島・大野京子
   松明あかし地と海と空壊れても       福島・永瀬十悟



   
    

2016年4月24日日曜日

尾崎迷堂「バナゝ噛むや明治大帝御勲」(「韻」第21号)・・・



「韻」(「韻」俳句会)第21号の特集は「季語を考える」。その中で武馬久仁裕の「帝国の季語」は、季語の持っているある特質、それも歴史的な時間における本質をついたものである。その指摘は忘れてはならないことだ。
まず「迷堂の句は、バナナを食することができるのは、明治天皇の御武勲の賜物であると言っているのである。(中略)日清戦争によって明治二十八(一八九五)年台湾は日本の領土となり、それによってこの美味しいバナナを食べられるようになったのだ。言い換えれば、台湾が日本の植民地になることによってバナナは日本人の食生活に入りこみ俳句に詠まれるようになり、季語となったのである」と記した上で、台湾の俳人であった阿川燕城の「殊に台湾に住む内地人にとって四季のうつりかはりにかゝはりなく生活することは堪えられない淋しさ」であり「微弱な台湾の四季のなかに枯渇しがちな情操にうるほひあらしめる」というアンビヴァレンツな行為に、正しく向きあっているのである。そして言う。

  外地にあって日本人としてのアイデンティティを保つ方法の極限は、外地にあっても内地の四季的自然の中で俳句を作り続けることだったからである。膨張する帝国のパワーは、外地をも日本的四季、それがかなわぬなら内地的歳時記の構成にならった疑似的四季世界を構築せしめようとした。そして、その内側で外地を生き生活する日本人も、帝国臣民としての自己を見失わないよう四季的世界で俳句を作り、同時に四季的世界を作り、それを補強し続けたのである。

つまり、季語こそは、

戦前にあって、季語は、個々の作者の句作の意図を超え、帝国にとって、王化の及ばない化外を、化内=四季的世界に転化する文化装置として機能したのである。

と・・・。現代社会のグローバル化の進行に、願わくば俳句やHAIKUが、そうした装置にならないように祈るばかりだ。
最後に「韻」の一人一句を・・・

  心音は天の水音銀河濃し         寺島さかえ
  寒鯉は夜明けに聞き耳をたててゐる   片山洋子
  どんどんと自転車溜るぬくき冬       後藤昌治
  懐郷の山河燻ぶる寒鴉           佐々木敏
  一人ずつ梅の白さで消えてゆく      谷口智子
  万年筆の先の幻想日脚伸ぶ       千葉みずほ
  天命の緋を遊びけり藪椿         永井江美子
  雪景色夜汽車の錆の匂ひかな      前野砥水
  年輪に重ねる平和去年今年        水谷泰隆
  花八手光陰密に背後ある         森千恵子
  電車来て電車出てゆく春の昼       山本左門
  ためらひし後の炎上野を焼けり     依田美代子
  雪に足跡朝刊が届きたり         米山久美子
  尾張には奇祭の多し桃の花       渡邊淳子
  チベットの焼身止まず冬ざれる     金子ユリ
  燃えつくすまでは椿と思ひけり     小笠原靖和



                   ムギの穂に花↑

2016年4月22日金曜日

近藤栄治『俳句のトポスー光と影』(沖積舎)・・・



近藤栄治1949年、愛知県生まれ。俳誌「青垣」(代表・大島雄作)会員とある。また、第30回現代俳句評論賞を「高柳重信ー俳句とロマネスク」で受賞という。
本書第一章にそれは収載されている。他には「龍太俳句と風土」、「永田耕衣論ー耕衣を読むための第一課」、そして、量的には本書のほぼ半分を占める、出色にして力作の河東碧梧桐論。収載された俳人はいずれも特別に魅力的な俳人四名。共通しているのは,俳句と自身に忠実に生きた作家ということになろうか。
こんなことが書かれている。

  重信の多行表記の試みは発句の延長としての俳句ではなく、それ自体として独立した表現形式を求めるという強い意志を表明するものであった。さらに言えば、時代と拮抗する作者の内面の表白をその形式にぶつけることで、さらにその表現形式の意味合いが深化されていったのだ。それは本来的には、ごく自然な詩(うた)の在りようである。しかし、それを支持しないまでも理解するひとは少なかった。

そして、別のところで以下のようにも指摘している。

 ひとつは彼の批評精神は言葉の表現形式に不断に意識的であることに拠っているということ、二つ目は詠まれた素材ではなくあくまでも表現された言葉の在り様を批評の対象としたこと、三つ目は様式へのあくなき執着。この俳句形式とその様式への執着が、重信において終に俳句を詩から分かつことになったということだ。これら三つのことは、重信にあっては緊密に絡み合って、その批評精神を形成した。そしてその批評精神が向かった先は、最後まで俳句であった。

そうなのだ。ついにめぐり逢うことない幻の俳句。いまだ姿を現さぬ何かだった。思えば、高柳重信はそれほど多くのことを語ったわけではない。最初から最後まで俳句に対する志をのみ繰り返し語っていたのではなかろうか。その意味では、本書に収載された飯田龍太も永田耕衣もそうだった
ように思う。
最後に、碧悟桐論の結びを引用させていただく。

 このように碧梧桐は俳句界では敗残者の烙印が押されてきたが、碧梧桐が残した仕事の大きさと現代俳句への影響を考えると、改めて碧梧桐の全体像が見直されてほしいとと思う。碧梧桐の自由律の道は、若き日に出会った俳句への断ち難い思いと、新たな詩精神の発揚との葛藤であった。そのことが俳句との決別を遅らせてしまったのであり、それはひとつの不幸であったが、そのこを以て碧梧桐を批判するには当たらない。俳句は今もそうした葛藤を引き受けつつ、俳句として生きているのだから。




2016年4月21日木曜日

嵯峨根鈴子「一匹死に春の金魚の買ひ足され」(『ラスト・シーン』)・・



句集名『ラストシーン』(邑書林)は以下の句から。

  蜘蛛はクモの仕事に励むラストシーン         鈴子

跋文は、関悦史「狐の言語」、もてきまり「脱皮しつづける鈴子さん」。いずれも著者の俳句を知ろうとするには、見事な手引文である。懇切にして愛情のある玉文。
「あとがき」が、それらの句の在り様をよく語っているように思えた。

 第二句集『ファウルボール』のあとは、機嫌よく道草を食いながら俳句の崖っぷちはどのあたりかと、遊びほうけていたら、野壺に落ちたというタイミングで、病を得た。のっぺりした我が人生の最大のイベントの幕開けだった。
 このピンチに俳句はどれほど役に立ってくれるかと期待していたのだが、期待は外れた。俳句は隙あらば私から逃げようとした。どんなにしっかりと握りしめているつもりでも、ちょっと油断すればすぐに何処かへ転がって行ってしまう。だから私はいつも、俳句に爪を立てるようにしてしがみついているしかなかった。今、辛うじて俳句を書いていられるのは私の強欲のせいである。

なかなかな心ばえであろう。
以下にいくつかの句を挙げておきたい。

   月光をこぼさじと夕顔は自死
   だんまりの母こはかりし曼珠沙華
   鰯雲こひびととふやけてしまひけり
   指でする昼の遊びやほうせんくわ
   脱皮せぬと決めたる蛇の自爆かな
   風船のあつまつてくる徒手空拳
   まんさくの花に匂ひや生きてあり
   一匹死に春の金魚の買ひ足され
   神のどの手もふさがつて色鳥来


2016年4月19日火曜日

野間幸恵「この世でもあの世でもなく耳の水」(『WATER WAX』)・・・



不思議と言えば不思議な句集である。野間幸恵第三句集『WATER WAX』(あざみエージェント)、言葉の関係性があまりに自由に飛躍するので、愚生には目もくらむばかりでなかなか言葉の像が結ばれてこない、と正直に告白しておこう。そのあたりのわけは、久々に彼の文に接することが出来て愚生は嬉しいのだが、序文の筑網耕平、「あとがき」と記されているが跋文の柳本々々にまかせよう。
筑網浩平は言う。

  野間幸恵は異色な俳句作家である。句集名に揃えた言い方をすれば、Haiku Creator  とでも呼ぶことになろうか。むしろこの言葉の方がしっくりする。

柳本々々は、

    煮こごりのなか正倉院正倉

 ワックスがけするように、液状化した言語で、世界の事物を形状化する場所。水と言語がかえず往還しつづける場所。「煮こごりのなか」「正倉院正倉」のように水というメディアを介して世界の事物が言語=俳句パッケージされる場所。
 それが、水の工房だった。そこからこれらの句は滔々と生みだされた。
 そうなのだ。
 すべては水の工房だった。

と結んでいる。野間幸恵の不思議なところだ。
いくつかの句を以下に紹介する。

  鳥の字をほどく春は昔から         幸恵
  犀がゐるいる日曜日から出られない
  ポタージュは謎が多くて完成よ
  うっとりとアンモナイトを遅れるか
  かぐわしい数式だろう梨ひとつ
  この世でもあの世でもなく耳の水
  






2016年4月18日月曜日

浅沼璞『俳句・連句 REMIX』(東京四季出版)・・・



自らをレンキストと呼び、創案の連句形式「オン座六句」の普及につとめている著者・浅沼璞(あさぬま・ハク、1957年東京島嶼生まれ)の新著『はいく・れんく リミックス』である。
愚生も何度か、そのオン座六句の席に座したことはあるが、何と言っても、捌きの浅沼璞にすべてなすがまま、言われるままに付いていくのがやっとという体たらく。それはそれで彼の志向性に、いつも何かを啓かれる思いがするのである。
本著もすべての構成が連句仕立てになっていて、序の章の「俳句的連句入門」、急の章の「連句的西鶴論」など、門外漢からすると実にスリリングな展開である。
それは、他のいわゆる連句入門書ともちがう連句に対する道筋のようにも思える。高柳重信の「連句への潜在的意欲」の論も攝津幸彦をめぐる平成の西鶴論も興味深いものだ。
愚生の不勉強ゆえだが、子規が「俳句」という、そして虚子が俳諧連歌を「連句」と読み替えて「連句」という呼称を一般化したという功績・・・には、そうだったのか、と改めて感じ入ってしまう。
さらに浅沼璞は「平句への潜在的意欲」で以下のように述べている。

 そもそも重信が新興俳句にみた「連句への潜在的意欲」とは、〈発句ではない自由な五七五〉つまり季語や切字に拘束されない平句(付句)への潜在的な意欲であった。具体的にそれは、連作俳句やそこから派生した無季俳句として顕在化された。ひるがえって虚子が自派にみた潜在的意欲とは、〈人事をも縦横に詠じ〉る平句へのそれであり、当然のことながら季語を否定するものではなかった。
 このように季語志向の有無が、両者を微妙に差異づけている。その微妙な差異に針をたてることもできようけれど、「平句への潜在的意欲」という、より大きな概念でそれらを包摂しうることも、また否定できない事実であろう。いうまでもな平句には、雑(無季)もあれば季句もあり、人情(人事)句もあれば場(写生)の句もあるわけで、さまざまな潜在的意欲に応えうる多様性を想定できる。だから私がここで針をたてたいのは、季語志向云々ではなく、別の面にある。それは多義的な平句への「潜在的意欲」を虚子がリアルタイムで認識していたという点である。

「オン座六句実作例」から「ある心地」の巻より、第一連のみ以下に紹介する。

  秋  たてがみのある心地して初嵐      鈴木純一
  🌜     雲の狭間をいそぐ月影       浅沼ハク
      電話機が一件の録音を待ち     中西ひろみ
        ペットの餌を捜しあぐねる     広瀬ちえみ
  冬  知らぬ間に川を見おろす白息     ますだかも
  冬★   氷柱を下げて舞台登場         ちえみ  



2016年4月17日日曜日

福島泰樹「絶望の詩型であらば花ならば絶巓(ぜってん)、虹の蒼い向日葵」(『追憶の風景』)・・



去る4月8日、如水会館で行われた福島泰樹『追憶の風景』(晶文社)出版記念会に出席するつもりでいた愚生は、私的な事情でついに断念せざるを得なかった。かつて、福島泰樹には愚生の句集『風の銀漢』(書肆山田)の解説を清水哲男ととも書いてもらったばかりではなく、愚生唯一の出版記念会をした『本屋戦国記』(北宋社)では、ねじめ正一の朗読とともに短歌絶叫で餞してもらった恩義がある。
本書は東京/中日新聞に2012年1月~2014年1月に連載されたものに新たに4編を書き加えた「戦後70人、108人の死者への追憶」であるという。執筆順とあるから、未発表の最後は辻井喬への「流血に汚れしシャツは脱がんとも掌はひとくれの塩のごとしよ」である。その追憶の108人の中には、少ないながら愚生にとっても面識のあった思い出深い人が幾人かはいる。掲載順に挙げれば、吉本隆明、清水昶、中上健次、加藤郁乎、高柳重信、村上護、埴谷雄高、冨士田元彦、辻井喬。とはいえ、加藤郁乎と高柳重信ほどには濃い関わりだったとは言えない。
それは、さておき、本書において、胸を撃たれたのは平田多嘉子、福島道江、橘正子など、福島泰樹の血縁につながる人々のことだった。例えば、

   焼跡に草は茂りて鉄カブト、雨水に煙る青き世の涯(はて)            泰樹

 小母さんには和紙を綴じ毛筆で清書した四巻の私家版句集がある。
  
    ロール紙を積みしトラック多喜二の忌

 これが、関東大震災を五歳で体験し、戦中、戦後を生きた平田多嘉子の曇りない現実認識の眼だ。どんなに書き殴ったって、書き足りない、トラック満載のロール紙分の怒りと悲しみ。それをさりげなく小林多喜二に歌わせているのだ。

 他に、

   マラソンの列にゆづりし春の坂          多嘉子
   ギリシャ劇見し目に青き冬の星
   原爆忌顔を包みて草毟(むし)
   開戦日軍手でドアのノブ磨く
 
などの句が引用されている。
福島泰樹の短歌には、若き日、藤原月彦(龍一郎)と涙なくしては読めないと言い合ったことがあるが、散文もまたそうした抒情に溢れている。怒りと悲しみ。
ブログタイトルの短歌は高柳重信のページのもの。



2016年4月15日金曜日

夏石番矢『夢のソンダージュ』(沖積舎)・・・



愚生は、まず、「ソンダージュ」とは、何のことだろうと思う。
「あとがき」に説明があった。

 先端に鉛の重りを付けた綱を深海に下ろす測定作業をフランス語で、「sondage
」(ソンダージュ)と言い、私の夢の記録方法がこれと似ている。日本語では「測船」。私の夢には、故郷、兵庫県相生市の生家や実家、東京杉並区で借りたアパートなどの家がよく登場する。わたしのペン先によって、何が測定されているのだろうか。

本書に記録された最初の夢は、「夢1 2002年5月23日午前」、最後は、「夢200 2015年10月24日午前」。この200編の夢の記述の解説者は、神山睦美「誘惑するサタン」と山田耕司「文体の網が漁(すなど)るものは」の2名。神山睦美はその結びに、

 夏石に俳句表現とは、イエスのいう「神の口から出る一つ一つの言葉」なのだ。その言葉を発するに当たって、試練をあたえる「父」と誘惑する「母」あるいは「妻」とが、どれほど重要な役を果たしているかは、言うにおよばないのである。

と記している。また、山田耕司は、

 あるいは、現代詩でも俳句でも、あるいはいかなる既存の文芸形態でもなく、新鮮な驚きに満ちた表現形態への強い希求。与えられたものには「私の欲しいものは何一つない」とする心のありよう。それらこそ、文体の網を間主観の海へ深くおろし、夢の数々をすなどる動機であった、ともいえようか。

と述べる。確かに詩的なよそおいはあるが、決して現代詩風ではない。夢?だから当然のように現実の断片が風景に登場することもある。例えば「夢48 2006年2月15日午前」には、私が書いた中上健次論の初校/創刊雑誌の20ページから始まる」 や、「夢4 2006年1月14日午前」には、

  学生時代によく通った
  参宮橋にあった
  Sさんの六畳一間のアパート
  Sさんは留守
  机の上に手書きメモ
  畳には新聞が開かれたまま
  Sさんの記事が死亡記事欄にある
  読むと死亡記事ではなく
  Sさんの本の紹介記事
  音楽の本
  そこに私の文章が引用してある
  Sさんのその本は
  その部屋にはない
  蔵書家だったSさんの本棚
  本は少ない
  窓は開いている
  木の葉がざわめいている
  夜
  Sさんは絶対に戻ってこない
  もう帰ろうと思う 

愚生は、ふと思う。Sさんとは澤好摩さんではないかと・・・。確か参宮橋に住まいがあった。
約40年前の愚生も、「未定」創刊同人にして編集長だった夏石番矢もよく通った。



2016年4月14日木曜日

伊丹三樹彦「妻の涙を 涎を掬う これが終(つい)か」(『当為』)・・



伊丹三樹彦第26句集『当為』(沖積舎)。「あとがき」に言う。

 句集名の『当為』とは「あること」(存在)。又、「まさになすべきこと」「まさにあるべきこと」を意味する。今年、私は満九十六歳。「なすべきこと」は病院通いと知友との文通、月二回の句会と句作である。今の私の、まさに在るべき姿を『当為』とした。

さらに言う。

 私の心得は、
「俳句は垂直の抒情詩である」であり、
「超季以て 俳句は世界最短詩」と考えている。
本集においても、この発言には変わりがない。

とにかく、伊丹三樹彦の健全を寿ぎたい。まさに俳句同志ともいうべき金子兜太には句を捧げている。

   夢に見て 尿瓶は兜太もだったなと           三樹彦

収載した句の選択・編集・造本は長女の伊丹啓子がなし、最初の章に一昨年逝った妻・伊丹公子に捧げる「慟哭哀句」、他は、春夏秋冬、新年、超季の部立になっている(カバーの写真はもちろん写俳亭・三樹彦)。
以下にいくつかの句を挙げておきたい。


   冷たいよ 供華に埋もれし公子の頬
   花万朶 生者の数より死者の数
   蟬聲裡 内耳は玉音放送へ
   向日葵に 誰もが世界唯一人(ゆいつにん)
   猫じゃらし さても曾孫は跳ね通し
   オリオンの央の三ツ星 憲吉忌  (楠本憲吉)
   心得は多作多捨多臥 誕生日
   帯剣でなく杖 戦後も七十年
   生きてあり 眠ってありの 仮枕
   名乗りなつかし 草城 青々 桜坡子の
   生母継母養母亡くして 臍まじまじ



   
   
  

2016年4月13日水曜日

大輪靖宏「抜け出せぬ悪女のごとき春炬燵」(『海に立つ虹』)・・・



大輪靖宏第4句集『海に立つ虹』(文學の森)の句集名は、集中の10句連作から採られている。その冒頭の句は、

   海に立つ虹くぐらむと巨船行く        靖宏

である。大輪靖宏は「あとがき中のあとがき」に言う。

 私は俳句に関しては師についたことがない。結社に所属したことが一度もないのだ。六十歳を過ぎるまでは近世文学(江戸時代文学)の研究者、教員として行動してきて、句作は行わなかった。師がいないのだから自分で句会を作ることになり、上智その他の学生たちと句会を始めたのが上智句会であり、鎌倉女子大学公開講座での受講者を中心に句会を作ったのが『輪』である。(中略)
 そのほか私が俳句の上で関わっているのは、三田俳句丘の会、ソフィア俳句会である。そして、私は伝統俳句協会に所属しているので、協会で行われる種々の句会にも参加している。師を持たないにしては句友に恵まれ、俳句を楽しむ機会も多い。

つまり、師がいないので、必然的に独学で切り開いた大輪靖宏の俳句観について宣明しているのが、「巻末」に書かれた「ささやかな主張ーあとがきに代えて」なのである。それは満八十歳を迎える記念の上梓とは言いながら、現在、弟子ともいうべき多くの俳句の仲間が膝下に集うようになり、自身の俳句観を披歴して、俳句の目指すべきところ、旗色を鮮明にしておかなければならない、という意思でもある。
ともあれ、いくつかの句を以下に挙げて、八十歳をお祝いし、さらなるご健勝を祈念したい。

   事なすに人生短か小夜時雨
   UFOを見たと子の言ふ星月夜
   鎌倉は梅の盛りや実朝忌
   抜け出せぬ悪女のごとき春炬燵
   鎌倉は谷戸から海へほととぎす
   少年の挫折八月十五日
   呑み足りぬ気持ややあり春の宵
   懐かしき人夢に逢ふ昼寝かな
   台風は戦争よりもましと婆
   鶴飛翔無限の空にある希望




2016年4月12日火曜日

北川美美「風と光と桐生の安吾と」(『安吾と桐生』)・・・



桐生は坂口安吾終焉の地である。享年48は、今から考えるとまだまだこれからという年齢であった。

「豈」同人にしてブログ「俳句新空間」編集人の北川美美の標記のエッセイは、坂口安吾没後60年を記念した「安吾を語る会」(代表・奈良彰一)が発行した『安吾と桐生』に収載されている。そのエッセイの結びに北川美美は記している。

 近代以降の文学は自我とは何かを問い続けてきた。文学という「父」、そして、家・国家・社会を支えてきた「父」、その存在を超えることが近代の思想の典型であった。登場する男を「父系」に、女を「母系」として考えるならば、女を殺すというということは、本来、自分を産むはずの「母」を殺すことになる。それは生れてくるはずの自分、すなわち文学上の「我」の抹殺であり、自分を生れてこなかったことにする「空」の世界がある。安吾が近代以降の自我である「父を超える」というテーマからかけ離れた着想を持ち、特異な点であろう。

その桐生で「安吾引っ越し記念日」というのが行われているという。桐生に引っ越してきたのが2月29日の閏日だったので、四年一度開催されるのだが、実は安吾は、終焉の地に次の閏年を迎えることなく、三年で脳出血により急逝してしまった。

いまでも坂口安吾を慕った人たちによって、各地で様々な行事が開催されているという。新潟市は「生誕祭」「新潟安吾忌」「安吾賞」「新津安吾忌」、十日町松之山では「安吾まつり」、桐生は「安吾忌の集い」「引っ越し記念日」というように。



※『安吾と桐生』 1冊千円の協賛金で購入可能。問い合わせは奈良書店(0277・22・7967)



                 ハナミズキ↑
                  


2016年4月10日日曜日

佐藤榮市詩集『フラミンゴ キイ』(蒼天社)・・・



佐藤榮市は1948年神戸生まれ。過去に詩集『リンム』、句集に『チキンスープ』『猿笛』などがあり、俳句誌では「垂人」「現代定型詩の会」、詩誌では「詩的現代」に参加している。かつては「豈」「夢座」の同人であったこともある。
このたびの新詩集『フラミンゴ キイ』は、言葉がリズミカルで、かつ挿画まで自身で描くのだから、多才を感じさせる。
「あとがき」に言う。

 俳句的反動というべきか、やたらダラダラと詩が長くなってしまうのは、自分でも反省していて、なるべく、洒落てシンプルで短いものを、と心がけるんだが、どうも物語的構図のなかにポエジーを引き込もうとする癖(へき)があり、それに成功すると恍惚頭がさらに酔心地を覚えるものだから、さてどうなりますことやら。言葉の音がどんどん先行し、意味が後からあえぎながら追いかける、そんな詩を夢見てもいる。

意味があとからあえぎながら追いかけるというのは、俳句から学んだ手法ではなかろうか。

この詩集は今じゃないと、あるいは今だからこそできた詩だと思っています。きっとこれからは「老いの繰り言」との戦いになるでしょう。

とも記している。
で、一番短い詩を全部引用しようと思ったが、どれも長いので、割愛して、以下に載せる。許されよ。

      なぎさにたって

  なぎさにたって
  なぎのうみ
  さんごのなみの
  さなぎになって
  ちゃくちゃくと
  ひょうちゃくする
  ひとりとなって
  ちいさなしまへ
  ぬきてをきって

  ことばにあかるみ
  ささやかなものたちが
  きみをわすれないしま
  かくれんぼのしま
  かくれたことをわすれて
  ねむってしまい
  そのしまのことを
  ゆめみているしま

  (以下略)



                 マンサク↑

2016年4月8日金曜日

井上弘美「空よりも湖面あかるき花まつり」(『顔見世』)・・・




今日は花まつり=仏生会(釈尊降誕会)だ。山本健吉は「花時の感じが強いが、花御堂の花は元来躑躅・卯の花などを用いたのである。『毛吹草』『初学抄』『増山の井』以下の連俳書に、季題として掲げられている。芭蕉以下、古句は夏の句として味わうべきである」(カラー図説・日本大歳時記)としている。また、『俳諧歳時記栞草』(曲亭馬琴編)には「およそ、諸寺院灌仏会を修す。諸品の花を以て小堂を飾る。これを花御堂といふ」とある。
井上弘美『顔見世』(ふらんす堂)は2013年1月1日(「ぬばたまの海が鳴るなり年籠」)から12月31日(「しんしんと闇積もりゆく除夜の鐘」)までの俳句日記である。年の初めの一日も、歳末も、いずれ闇に始まり闇に終わるという因果が少し切なかろう。京都の歳事に想を得て、4月8日を以下のように記しているのである。

   四月八日(月)晴               【季語=花まつり】

午後、発行所にて「汀」初校。
今日は花まつり。京都の自宅から徒歩数分の壬生寺でも、境内に花御堂が出され、子どもたちが大きな白象を曳いて歩く。今年は丁度落花の季節を迎えているので、甘茶仏に花吹雪が散り込んでいるだろう。

 空よりも湖面あかるき花まつり 




2016年4月7日木曜日

田中陽「口語俳句のエネルギー」(『俳句原点 口語俳句年鑑’14・’15』)・・・



「俳句原点」は口語俳句協会の機関誌である。その「巻頭言」・「口語俳句のエネルギー」に田中陽は言う。

 協会の幕を閉じるにあたって、過去17年の「俳句原点」(口語俳句年鑑)17冊のダイジェストを本号に掲げた。
 本欄(巻頭言)は金子兜太の「口語の季節」にはじまり西川徹郎「新興俳句の詩精神は死なない」に終わる18編。これだけでも、いわゆる口語俳句の総体が概観できるというものだが、それらを囲繞するエッセーやフォーラム、作品・俳誌両展望によって口語俳句というよりむしろ“現代俳句”のかたち(・・・)が見えてくるものと確信する。

田中陽が病に倒れ、復帰して口語俳句年鑑は14年版と15年版の合併号となって刊行された。そして、そこに口語俳句協会の解体も宣言されているのだ。田中陽にもいささかの無念はあろう。だが、それでもというべきか、口語俳句協会は60年間の幕を閉じても新しい会によって『口語俳句年鑑’17』(’16は休刊)は発行される予定だという。これもあれもたぶん田中陽の志、孤軍奮闘が支えているのだろう。
その節目の第60回全国俳句大会での最後の第56回口語俳句協会賞を「豈」同人・羽村美和子が受賞したのも何かの因縁かも知れない。以下に受賞作を引用する。

     匂うにおう寒月光かセシウムか      羽村美和子
     抽選で軍艦当たる宵の春
     美しい数式次から次へ羽化 

大会の最優秀賞「禅寺洞賞」は、

    新涼の真水に戻す海女の髪         木下蘇陽   
 


2016年4月6日水曜日

森山光章句集『無私の法を以て衆生にそそぐ』(不虚舎)・・・



森山光章は第一句集『眼球呪詛吊り變容』(弘栄堂書店・1991年)で登場してからすでに特異な作家であった。著者略歴から拾っただけでも今回の句集『無私の法を以て衆生にそそぐ』は第9句集にあたる。愚生の眼には、ますます特異の作品を成就しつつあると見える。未踏といえばまさに未踏の領域なのだ。その他、政治論集、思想論集、小説、詩集、歌集と数え上げれば切りのない著作が並ぶことになる。加えて個人誌「不虚(ふこ)」を発行し続けている。
以下の句集の中の句、

 使用済みの「狗(フリーメイソン)」を虐殺(ルンルン)する「世界権力(おりこうさん)(イルミナティ)」は、北叟笑(ほくそえ)

を、もし、俳句であるとするならば、少なくとも愚生の作っている句は俳句ではない。それだけの懸隔があると思われるが、それは、同時に、まぎれもなく新形式の俳句であると確信してはばからないものが森山光章にあるということも明らかなことである。

 「悪魔(よいこ)」と同ずる〔佛〕を浣腸(…)し、〔終わり〕の誼に痙攣する(・・・)

 「IS(イスラム国)」は、「世界権力(おりこうさん)(イルミナティ)」の遊戯(てあそび)に過ぎないー「イスラム」は解體される

かぎりなく優しき悪意に満ちた句集であろう。

その末尾には以下のように記されている。まるで、世界の現在を見透かしているように・・・

 明らかに人々が虐殺されるのにともなって邪悪なエネルギーが放出されるのだ。・・・我々の支配者は、魔王ルシファーへの捧げ物として戦争を計画する。彼らにとって虐殺や破壊行為は心浮き立つことなのだ。                             (ヘンリー・メイコウ)

後記には、句集名の由来を記してもいる。

 表題は、天台の『法華文句』から取った。「提婆達多」の根底の言動を述べた言説である。『大雲経』は述べる。「提婆達多は不可思議なり、所修の行業は如来に同じ」と。わたしは、〔終わり〕の夜である。喜悦のみがある。



                  シャガ↑

2016年4月5日火曜日

神田ひろみ『まぼろしの楸邨ー加藤楸邨研究』(ウエップ)・・・



サブタイトル「加藤楸邨研究」が示している通り、資料収集と著者の見解は客観的な資料を駆使して語られている。「あとがき」によると加藤楸邨の資料調査のためにJR常磐線・相馬駅にあるキリスト教の、

 中村教会の生野碩保先生に初めてお会いして、いれて頂いたお茶を一口か二口のみかけたところに大きな地震が起きた。教会堂の厚いテーブルの下にもぐりこむと上から、お茶が滴ってきた。(中略)古い木造の教会堂はメリメリと音をたてて軋んだ。長い長い五分間であった。平成二三年三月一一日、楸邨先生が少年の頃通った福島、相馬の教会で大地震に遭遇し、私は生きることの意味を胸につきつけられた。激しい余震の中で資料を読みとろうとする私のために、生野先生が祈ってくだった言葉を私は忘れることができない。
 人間とは何か。人間の幸福とは何か。
 楸邨六二年の句業は、そうした生きることと表現との相克の上にあったと考えるようになった。

と記されている。
研究書のゆえであろうか。第二部の年譜、第三部の資料編にも大冊約400ページ近くのおよそ半分のページが割かれている。
とりわけ、興味深かったのは第一部「俳句作品にそって」の北村透谷の「内部生命論」と楸邨「真実感合」との対比、影響を論じた部分だった。

 楸邨はこの「自分そのもの」(原文・傍点あり)即ち「内部生命」によって「自然そのもの」(原文・傍点あり)の真実(透谷のいう「宇宙の精神」)に「感合(傍点あり)」(透谷のいう「インスパイアド」)すること、つまり、把握するということにむすびついたと考えられる。透谷の「感応」と楸邨の「感合(傍点あり)はよくその近接が言われる斎藤茂吉の歌論「実相に観入して自然・自己の一元の生を写す」という「実相観入」の「観入」の語よりもよく似たひびきを持つ。

あるいはまた、「ふくろふに深紅の手毬つかれをり 楸邨」の句に対して、さまざまな解釈がなされているが、「この幻想的な作品は、楸邨の亡き子への挽歌と推定できる」という。つまり、「いまも亡き子に、深紅の手毬をつかれている私は、老いた梟のようであるよ」と・・・。

神田ひろみ 1943(昭和18)年弘前市生まれ。現在、三重県津市在住。

                                             ヤマブキ↑

2016年4月2日土曜日

齋藤愼爾「露無辺ひとに遠流に似た訣れ」(『俳誌総覧』2016年版)・・・



齋藤愼爾は『俳誌総覧・2016年版』(東京四季出版)の「年代別秀句評」に言う。

 時代の生み出す矛盾、その根源を問うことこそ文学=俳句のかかえる必然の課題であろう。奇しくも今年は夏目漱石没後百年目にあたる。漱石が「坊ちゃん」発表の半年後、鈴木三重吉に宛てた書簡で書いたことは、私のひそかなる座右の銘でもある。
 〈命のやりとりをする様な、維新の志士の如き烈しい精神で、文学をやって見たい〉。

その他「俳誌回顧2015」の筑紫磐井・中西夕紀・田島健一の鼎談の内容は、事前のアンケート(①2015年の印象的な出来事、②注目の結社誌・同人誌三誌、③結社誌・同人誌における注目の評論・企画など三篇、④結社誌・同人誌における気になる10句)を持ち寄っての討議で、他社の年鑑にはみられない、俳壇を展望するには内容の濃いものであった。
鼎談三者の時代の状況認識の違いもそれぞれに覗えて面白かったし、また、次代を担う若い俳人にスポットを当てた田島健一の発言も光っていた。
以下に鼎談三者があげた気になる10句からいくつか挙げてみよう。

 アベ政治を許さない           金子兜太・澤地久枝?(件の会会場)
 またの世も師を追ふ秋の螢かな      三森鉄治(「郭公⑫」)
 三月の風よ集まれ釘に疵       大本義幸(「俳句新空間」4)
 神々は寡黙なりけり雲の峰      山中多美子(「円座」⑩)
 しづけさのつれづれに蘆混み合へり     瀧澤和治(「今」⑩)
 長き夜や明りを消してわれ消して    桑原三郎(「犀」202)
 うららかに暮らした跡のあるほとり   鴇田智哉(「オルガン」1)
 うるほへる下くちびるとアニメの火   佐藤文香(「クプラス」2)
 さえずりの空をつくりし会社かな     こしのゆみこ(「豆の木」19)
 


                                       ハナニラ↑

2016年4月1日金曜日

木割大雄「春やわが空気と水と和田悟朗」(「かばとまんだらつうしん」第四期1号)・・



「かばとまんだらつうしん」は赤尾兜子の弟子であった木割大雄が、ひたすら、赤尾兜子の資料を集め、師・兜子のことを書き続けている不定期刊の冊子である。
平成11年から始めて通巻39号になるという。久方ぶりの刊行なので、第四期と自称することにしたという。
別巻は「盲母いま盲児を産めり春の暮 兜子」の句を英訳し続け、解釈し続けてきた木割大雄の幼馴染という中田順周が、翻訳し、また翻訳するにあたっての説明書きがある8ページの冊子である。
木割大雄は、昭和43年「俳句研究」4月号に載った司馬遼太郎の〈同学・兜子〉の一文を引いて、司馬遼太郎が『歳華集』序文に「焦げた匂い」と書いたことについて以下のように記す。

   音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢
   広場に裂けた木塩のまわりに塩軋み

というすぐれた作品の中にあの猥雑な播州海浜の烈日を想像するのは私だけの散文的な想像であろうか。
ーー俳壇的に見れば反伝統的な、いわば厄介者であるかもしれないが、しかし芸術の立場から見ればこれほど正統的な歩き方はない。

 この司馬遼太郎の一文に兜子はどれほど勇気をもらったことであろうか。くり返し言う。これが昭和四十三年。それから七年のちの五十年に『歳華集』、即ち〈焦げた匂い〉なのだ。

巻末にはいつものことながら木割大雄の句が掲載されている。今号は六十余句のなかから以下に・・・。

       追悼
   春やわが空気と水と和田悟朗      大雄
   赤鳥居雪の駅舎を拝殿に
   水を撒く水商売や日脚伸ぶ
   訃報とは為す術もなき花便り
   むかしにも昔ありけり夏帽子
       村野藤吾設計・旧大庄村役場資料展に寄せて
   塔屋より海を求めて鰯雲