2014年2月26日水曜日

首くくり栲象に遭遇・・・


こんなこともあるのか・・・。
先週から愚生は、バイトでF市内を歩き回っているのだが、
今日の昼過ぎに、ファミレスか、食堂での食事を諦めて、ある団地の公園で昼休憩をしていたら、向うから三人のカメラマンの被写体になりながら、歩いて来る男がいるではないか。
確か、この近くの「庭劇場」で日々首を吊り続けている栲象がいたなあ・・と思い出していたときのことだったので、余計に驚いてしまった。
庭劇場とは自宅の庭のことだ。料金は千円。
乙女椿の木で首を吊る。
実に修行者のように・・
しかも、若い時分よりも、吊る時間が長い。
(ホームぺージやユーチューブで観られるから、興味のある方は観て下さい)。
手を振ったら、首くくり栲象(たくぞう)も驚いていた。
思わずお互いに手を取り合って、「なにしてんの?」。
そばにいたスタッフと思った若い女性が、「首くくり栲象の一日を撮っています」と言う。
土方焼けした愚生の顔を見て「奇跡だな・・」。
かの若い女性はCAPプロデューサーの名刺を見せて、「栲象さんのパフォーマンスを観たことありかすか?」ときた。
あるも何も40年来の友人である。
昨年末のには何十年ぶりかで,首くくり栲象出演の芥正彦「ホモ・フィクタス」の草月ホールに出かけた。草月ホールは大駱駝艦との公演以来の大舞台だった。
彼は、そのパフォーマンスをときにアクションといい、ときに美術的パフォーマンスと言っていたような気もするが、愚生にとってはネオダダの風倉匠(風倉匠亡きのちの今でも、豈の表紙は風倉匠のデカルコマニーで飾っている)の親友として紹介された縁がある。実は、仁平勝が俳句に染まる以前に首くくり栲象を介して知り合ったのだ。
その頃、首くくり栲象はもっぱら古沢栲(ふるさわ・たく)、タクちゃんと呼ばれていた(愚生はタクさん)。
当時の彼は武蔵野美大の男性ヌュードモデルをしていた。
愚生の職場に絵を描いてきてはいくばくかをせしめていた。
それに、愚生が毎日のように宴会を開いていたが(今では考えられないが・・)、彼はなくてはならない役者であり、歌手であった。
いまのようにカラオケなんてものはない。みんなの手拍子でアカペラで歌った。
金子由香利がまだ無名の頃に、ドーナツ盤のレコードを擦り切れるほど聞いていた。
彼女を教えてくれたのも彼だった。
そのほか、ここでは書き切れない多くの・・思えば、毎日が刺激的だった。
首くくり栲象はまさに、生きていることが哲学者ふうで生活と芸術が一体という現在では稀有な存在だ。
先日、首くくり栲象から、今月の庭劇場案内(25,26日夜八時から、雨天決行)のメールをもらったときに、「昨年の夏、部屋に蚊帳を張り、その中で雲を終日眺めていた。雲は右から左へ、西から東へと、それぞれの趣でハキハキと形を変えつつ流れていた。いまもあの夏と同じガラス戸で、目一杯開け放ち、空を眺めています。雲はどんより、寒さはハキハキ、寒空です。この寒空はある日、忽然と消える。なにかが消え、何かが顕れる。いま雪のさ中、紅梅が忽然と顕れ、煌々と紅で息衝いている」と記されてあった。


2014年2月25日火曜日

俳句は出来の悪い子どものような・・・



 昨夜は、帝国ホテルで行なわれた第56回読売文学賞授賞式に出かけた。
「今日は俳人が多いねぇ」、誰かが呟いた。
まあ、3.11以後の寵児のような扱いをうけ、かつ、現俳壇で人気絶頂の高野ムツオとあっては、例年にない俳人の多さだったのだろう(授賞式に初めて出席した愚生には実はわからない)。
昨年の俳人の受賞は和田悟朗(愚生は二次会からの参加だった)。今年も90歳を越える年齢にも関わらず元気に奈良から駆けつけられていた。
しばし、愚生が二十歳の頃、投句していた兜子時代の「渦」の話を少しした。
兜子急逝のあと、しばらくして主宰を継承した赤尾恵以を支えた一人が和田悟朗だ。
ともかく、以下に、受賞作・受賞者を記す。
  〇小説賞     村田喜代子「ゆうじょこう」(新潮社)
  〇随筆・寄稿賞 旦 敬介  「旅立つ理由」(岩波書店)
            栩木伸明  「アイルランドモノ語り」(みすず書房)
  ○評伝・伝記賞 小笠原豊樹 「マヤコフスキー事件」(河出書房新社)  
                      (不明にして小笠原豊樹が詩人の岩田宏であるということを初めて知った)
    ○詩歌俳句賞 高野ムツオ 句集「萬の翅」(角川学芸出版)
  ○研究・翻訳賞 中務哲郎・訳「ヘシオドス 全作品」(京都大学出版会)

 選考評は全選考委員を代表して、全部門の選評を高橋睦郎が見事な分析力を発揮して披露した。
 
           
           
 受賞の言葉では、高野ムツオが「俳句は僕にとって出来の悪い子どものようなもので、死ぬまで付き合っていければよい」と述べたのが印象深かった。
句集『萬の翅』は、今.愚生の知人に貸しているので手元にないので、具体的に指摘できないのが残念だが、評判の良かった震災詠もさることながら、むしろ11年間の句の秀逸さはそれ以上という印象であった。佐藤鬼房、桂信子などへの追悼の句、田中哲也の名もあったと思うが、それらの句、そして自らの咽頭癌手術の際の句など、彼の境涯が俳句の表現力を熟成させていたことは確かなことで、目を瞠っていたのだ。
   
  霜柱この世の他にこの世なし       ムツオ

 因みに読売文学賞で東北人が受賞するのは高野ムツオが初めて、九州は村田喜代子で伊藤一彦に次いで二人目という。期せずして蝦夷・熊襲の合体?だった。

 祝賀会では、多くの俳人に会ったが、それ以上に懐かしくもしばらくぶりにお会いしたのが五柳書院の小川泰彦(愚生の俳句入門書、西東社から出た『俳句 作る楽しむ発表する』の切っ掛けを与えてくれた人である)。また、愚生の単独句集はすべて出してくれている書肆山田・鈴木一民、そして、彼の紹介で書肆山田から詩集『アトランティスは水くさい』を出している平田俊子などなど。愚生は二次会を失礼したが、結局、数年ぶりの有楽町・炉端に鈴木一民と近代文学館事務局の若き有望と思われる吉原洋一とで、彼らは酒を呑み、全く呑めなくなった愚生はお茶を出してもらって遅くまで歓談。
それと大場鬼奴多(関口で野菜倶楽部・OTO NO HA CAFEをやっているので、是非訪ねて来いと・・言う)にも眞鍋呉夫を偲ぶ会以来の再会だった。

2014年2月22日土曜日

《そして、》・・・


20年ほど前、ちょっと変わった冊子があった。
東京から仙台に引っ越した橋本七尾子が「小熊座」の佐藤きみこ、高野ムツオと仲良くなって、発行所を佐藤きみこ宅において、その都度「題」を与えて締め切り日までに送稿するというものであった(題は発行人の輪番で出題)。ほぼ隔月のペースで発行されたように記憶している。発行人は便宜上池田澄子・大井恒行・佐藤きみこ・高野ムツオ・橋本七尾子が務めたが、愚生は名前だけで何もしていない。
表紙絵などデザインは、確か渡辺誠一郎がやっていたように思う(もしかしたら、実務全般も?)。
締切を過ると自動的に句はボツになっていたので、攝津幸彦や愚生は、とにかく打坐即刻を地でいくように、締め切り直前に、かの山川蝉夫(髙柳重信の別号)の例にならって、5分以上は考えないと嘯きながら、句ができると、すぐに投函していた。
「《そして、》-1」(1993.3)のお題は「鶏」、「《そして、》-2」のお題は「日本」。
「《そして、》-1」の「あとがき」に、橋本七尾子が以下のよう記している。

   (前略)、固まらず、人と人をつなぐ接続詞の役割をつとめられればーというのがささやか   な句集の願いである。
    立場の違やその距離のために同席する可能性の薄い人たちだが、たとえ紙上とはい   え、一つの主題で発想と表現の多様さを競い、また楽しんでいただきたい。「誰もいなく   なる」までのしばらくの間を。

 《そして、》は、1996年12月に「悼」の題で「追悼 攝津幸彦」を出して終った。寄せられた追悼句は78名。もっとも厚い26ページ。「あとがき」は高野ムツオがしたためた。

   仙台に住む「そして」のメンバーのうち四人が、久しぶりに会したのは土井晩翠顕彰の  催しがあった十月十九日、攝津幸彦の初七日のことである。(中略)誰からとなく、話題は  攝津幸彦の死に及び、これもまた誰が言い出すともなく悼句集を出そうという話しになっ  た。(中略)、この薄っぺらな紙の供養塔が、集まった人々の彼の俳句への熱い思いを伝  えてくれることと信じる。攝津幸彦よ、永遠に安らかに眠れ。

《そして、Ⅳー5》に攝津幸彦は遺稿ともいうべき句を、「平成八年九月二十日の私」と題して5句を投稿していた。

    機関車の日の丸日の丸勝ちうさぎ       幸彦
    糸電話古人の秋につながりぬ
    はいくほくはいかい鉛の蝸牛
    祭笛今宵ゆふべの洗ひ髪
    オマージュにタルタルソースの夜の秋

創刊「《そして、》-1」の一人一句を以下に挙げておこう(25名)。


    ソプラノの鶏育てたし氷割る       赤松の里恵
    月光や」ねぐらの鶏が声洩らす     淺沼眞規子
    にはとりへ白黒映画の手が伸びる   此口蓉子
    鳴きつれる鶏の思いを考える      池田澄子
    明けない春の 銀糸の鶏のぬいぐるみ 大井恒行
    絵の島で鶏と契ってをりました       荻原久美子
    鶏鳴いてころんだままの雪だるま     五島高資
    初夢に母いて鶏を股ばさみ        佐藤きみこ
    うそ寒き手に包む火の玉子かな     鈴木修一
    少彦名を呼べば鶏ふりむきぬ      鈴木紀子
    遺失物に鶏小屋の冬の暮        高野ムツオ
    鶏冠太るかすみの家に棲みついて   田尻睦子
    初湯して江戸の鴉もオノマトペ      筑紫磐井
    ゆるい靴長鳴鶏を鳴かしめよ      永末恵子
    鶏鳴に田螺の蓋をちょと開く       中原道夫
    眠りてはなお押し合いぬ春の鶏     橋本七尾子
    砂月夜ひとりに帰りねむる鶏       原久仁子
    冬の断崖蹴爪に光満ちてゆく       深町一夫
    ゆふかすみにはとりの声はりつきぬ   冬野 虹
    着膨れてなんだかめんどりの気分    正木ゆう子  
    短日やふくみ笑いのにわとり来      増田まさみ
    尻おもく飛ぶにはとりよ夏の暮      山内将史
    きさらぎをかき回している軍鶏の足   山本敏倖
    鳥の目を洗ふかどには春来たる     渡辺誠一郎
    鶏小屋への招待受ける春の闇      渡部陽子


2014年2月20日木曜日

「友よ/我は/片腕すでに/鬼となりぬ」重信・・・

  
左端は中村苑子↑


1995年7月8日、富士霊園に於いて髙柳重信十三回忌が行なわれた。世話人は高屋窓秋・三橋敏雄・中村苑子。参加者60名。
その日は、雨がちの一日で、新宿から貸切バスで富士霊園に向かった。
晴男の亡き重信、盟友であった三橋敏雄も晴男の噂が高かった。それを象徴するかのように、霊園での法要が行なわれるあいだは、雨霧を払って薄日さえ射したのだった。
行きのバスの中で、一句献句を作ることになり、それぞれが投句した。
それが後日、冊子としてもたらされた。
数年前、黒田杏子に会ったとき、「私の後に、あなたと仁平君が居たのよね、その時があなた方に会った最初ね・・・」と言われた。そういえばそうだったような気もした。
黒田杏子を誘ったのは中村苑子である。重信没後の俳句教室を継承した中村苑子の若い弟子たちも参加していた。


記念の冊子から献句を引用掲載しておこう。(50音順)

  師を偲ぶ声は谺と青嶺たつ      秋葉貞子
  重信忌すでに山霊となるならぬ    阿部鬼九男
  言霊のもどってきたる烏麦       糸 大八
  それぞれのおもひの車中や重信忌  伊藤富美子
  走らなければ重信安現れず霧晴れず 今坂柳二
  梅雨の富士背に俳聖の魂鎮む     今牧嘉子
  天啓漏るや霧中の捕虫網        上田 玄
  ぬかづいて十脂の火照る夏の霧    上田多津子
  霧の墓参重信いまだ晴れざるか    牛島 伸
  囀りや富士ふところに先師の墓     内田房江
  紫陽花や鬼とくらせりその後(のち) 大井恒行
  富士見えず死にたる後の梅雨の空  太田紫苑
  深々と礼なす真昼重信忌        大高弘達
  十三年目の梅酒の封を切りにけり   大高芭瑠子
  あの世よりお天気男梅雨飛ばせ    奥名房子
  今なお前衛梅雨の列島ひた走り    小熊きよ子
  伯爵領の墓地等間隔やみどり雨    嘉村智明
  七夕の明くる日がなぜ重信忌      賀茂達彌 
  富士は白富士天霧(あまぎ)らふとも師は一人  川名 大
  雨雲の向こうはなぐり書きの不二   木村聰雄
  夏霧に消ぬる窓秋苑子かな      黒田杏子
  嗚乎嗚乎と見えざる富士や見ゆる墓 桑原三郎
  関八洲の野山は雨の重信忌      澤 好摩
  尽忠は俳句と霧を吸つてゐる       鈴木石夫
  紫煙這ふ忌の重信の片腕に       攝津幸彦
  いつのまに重信棲みつく蝉の穴     宗田安正
  紫陽花のずっしり濡れし忌日かな    高野万里
  重信忌折笠杉も霧の中          高橋 龍
  髙柳重信秋の不二を見ず        高屋窓秋
  赤い靴胃に溶けのこる人が父      髙柳蕗子
  梅雨霧に顕(た)つ人に逢ふ七月八日 髙山雍子
  霧涼し句詠みし人の魂の前       寺岡道子
  山霧に見ゆるは後略十三年       寺田澄史
  霧重く想い激しい墓参り          中村英佐
  紫陽花の腐蝕もゆるせ重信忌      中村和弘
  梅雨の霧凝りたる蝶か忌日なる     中村里子
  重信忌九十〇狭霧(じゅうしんきことたまさぎり)日照(ひで)り雨(あめ) 中村重雅
  思はざれば「わが尽忠」も富士も見えず  中村苑子
  吾が父とつぶやきむせぶ霧の墓      中村鱗次
  輪廻に憑かれ転生忘れ給うなよ      流 ひさし
  重信忌なれば雨のち霧隠れ        仁平 勝
  始めましてと香たてまつる重信忌     野村日出子
  剛志(ごうし)の草(くさ)なべて夏来(なつき)とりわけ薊(あざみ) 林 桂
  霊ちかく紫陽花に染む老河童      平島一郎
  十年は一日わが師ビール乾す      福島とき子
  後略十三年いまは恐竜として立つ重信  福田葉子
  かささぎのいづくへわたる重信忌     本多和子
  一日を師に近くあり濃紫陽花        松内佳子
  お酒呑んでゆっくり重信の死を覚え    松岡貞子
  山霊となりし霧中の重信よ         松崎 豊
  蝉翁の声なき声をふりかぶる       三橋敏雄 
  あぢさゐや思慕新たなり重信忌      柳沢俊子
  沖の父われ知り初めし船長忌       山上 薫
  紫陽花を霧にともして重信忌       八巻定子
  夏霧や俤さがす墓参かな         山本喜久江
  墓石の重信と吸ふ夏の霧         山本紫黄
  束の間の梅雨の晴間や重信忌      薮本安子
  重信の化身ま白き蝶現れる        吉岡満寿美
  幻となりける富士や重信忌         吉村廣美(毬子)
  集い来て墓地はしっとり重信忌       渡辺和子



2014年2月18日火曜日

過激でなければ俳句じゃない・・・


「流星」創刊号・奥付、1985年8月15日発行。
表紙絵は皆吉司「春の宇宙論」。カット西坂潤。
編集人・今井豊、発行人・小林正信、今井豊、参集した同人7名。
およそ30年前、というから愚生35歳のころである。
全国の若い俳人たちはあえいでいた。そして熱く燃えていた。
総合誌には頼らず、自分たちの場を創造しようとしていた。
坪内稔典等の「現代俳句」は、先陣にあって、そうした動きを領導していたように思える。
勿論、時代には乗らない、と静かな氷の炎を燃やした攝津幸彦・仁平勝らの「豈」も、雑誌の刊行は不定期であったが、確かに在った。

    なみだながれてかげろうは月夜のゆうびん    西川徹郎
    コーラ飲む明日は天皇誕生日           小西昭夫
    人知れぬ野を行く一匹われというけもの     山羊ななこ
    雪解かしその水集め春の花咲かす男のバロックの椅子   米原公子
    横死あり やがて目覚める夜の桃         後藤貴子
    晩夏光 母と赤鬼目覚めゐて            松田正徳
    聖夜流星毛布をまいて寝る少女          今井 豊

 その他、評論は米原公子「塚本邦雄論」、松田正徳「俳句修辞学」。エッセイに小西昭夫「田中三津矢への手紙」、今井豊「書込みにある本」、西川徹郎「空蝉と肉、あるいは〈自然〉について」、松田正徳は題を空白にして書いている。
その編集後記に今井豊は次のように記した。

   (前略)、その為には、○実践・実作の場
                 ○厳しい相互批評の場
                 ○評論・研究の場
   を徹底し、純粋に、ほんとうに純粋に、こなれた処世術を排したところで生まれるものを大切にしてゆきたい。
   流星は今までのどの結社も同人誌も果たせなかったものをめざしている。同人の多くは、既成の結社に対して不満や失望、反感を思っているのではないかと思う。しかし、    それは単なる結社批判では消化する事のできなかったエネルギーの噴出に他ならな    い。そのそれぞれの闘志は、流星の闘志でもある。(中略)
    流星における僕個人の活動目標は、「過激でなければ俳句じやない」を実践する事である。
   
 その「流星」3号(1986.4)の特集「同世代の現状」に、愚生は、妹尾健・四ツ谷龍・西川徹郎・小西昭夫・松田正徳・今井豊に混じって「一木一草に宿る〈伝統〉への問いを」というタイトルで寄稿した。
 後日、牧羊社「俳句とエッセイ」の山岡喜美子女史を介して、長谷川櫂から会いたいという申し入れを受け、面会した。書いた内容のあらかたを忘れてしまっており、今回改めて読み直してみた。それは天皇在位六十年という背景のなかで、三島由紀夫「文化防衛論」や山口誓子『俳句添削教室』、長谷川櫂「俳句と私」(俳句とエッセイ」昭和61年1月号)に触れた、いわば足早の状況論であったが、「今後、そういうことは書かない方がいいですよ、貴方のために・・」という忠告をもらったことを思い出す。
 その折りの愚生の趣旨は以下にあったのだが、それを記憶のために引用しておこう(思えば、竹内好「一木一草に天皇制が宿る」に比重が掛かって読まれたのかも知れない・・)。

  (前略) 便宜的に述べるのだが、前衛傾向の俳句も、伝統傾向の俳句も、自らの根拠を保証するべきものに、自らの内面的不安に秩序を与える構成要素として自然の風景に   寄りかかっているように思う。風景という客観的な対象〈花鳥風月=自然〉によって秩序   化された世界を現前させることで安心したいのである。とりわけ、伝統派と呼ばれる俳    人たちの、ヒステリックなまでの言挙げは、自らの存在根拠の喪失(自然の喪失)に対    して、なお、そうではないのだということを保証するための言説として響いてしまうのは、むなしい気さえする。

 いま、時代は流れて、愚生らはどこまできたのであろうか。さらに混迷は深い・・・。
              
                ジュウガツサクラ↓

2014年2月16日日曜日

2.15「LOTUS」句会・・・

                                  トトロと娘からのチョコ(雪しろ)↑

昨日から降り続き、記録的大雪といわれた先週末の積雪を越える雪。
雨になり、やがて天候は回復、これならば、王子にある北トピアまでは何とか行けるに違いないとタカを括って出かけた。
滑らないように防水の雪靴をはいて、バス停留所にたどりついたが、バス待ちの人はいたが一向にバスの来る気配はない。
バス停に記してある営業所に電話をすると、全線運休。仕方なく駅まで歩くことにした。
不断なら歩いて40分で着くところ、途中の交差点は雨で川のようになった水が流れ、膝下まで浸かってしまっては雪靴も役に立たない。
そばにあったコンビニに駆け込んで、履き替えのソックスを三足もとめ、途中で替えながら一時間少しをかけて駅に到着。
LOTUS(ロータス)の句会は、酒巻英一郎氏(今度、LOTUSの会発行人に新任)に慫慂され、阿部鬼九男氏と愚生は初めて参加するのである(西東三鬼晩年の弟子・鬼九男氏とは34,5年の長いお付き合いをいただいているが、句座を共にするのは初めて・・)。
その鬼九男氏からは携帯メールで朝早く出たものの坂道で三度転んで出席を断念との連絡(お怪我がなくて幸・・)。
魔の棲むLOTUS句会と言えども、さすがに大雪には勝てず、出席者は遅刻した愚生を含めて7名。
しかし、欠席投句となった人を含めて23名の三句出し、三句選。出席者中心の句評となった。お陰で十分に批評し尽くされた句会となった。
遠路三重県から雪の新幹線を駆って出席された勇敢な女史は藤川夕海氏。聞けば「陸」同人だそうである。
参考までに、出席者の句を一句のみ挙げさていただく。
ちなみに最高点は欠席投句となった高橋比呂子氏。

   蝋梅よりもきのうのことは馬の領分     高橋比呂子

   麦秋の縄目かすかに日の乙女        九堂夜想
   草の芽のまわす地球に着き生まる     藤川夕海
   地球はもあまたの石の宙にあり       流ひさし
   
   初鴉
   飛べ塵外へ
   音を捨てて                    酒巻英一郎
   
   大洋(うみ)の詩こそし揺蕩へわが孤独   北野元生
   つぶやきの雪の華こそはなやかな      大井恒行

愚生は、夜はバスも動いているだろうと(平日は深夜零時50分まである)、これまた甘い夢を見て、最寄駅に着くと、ついに本日は「全日運休」と張り紙されているではないか、タクシーは長蛇の列、満月を仰ぎながら歩くことにした。思わず本日の句会の自句を添削し、無点だった句も蘇ったように感じた。

   荒星の裏なお淋し銀のさじ         恒行
  
               野川のムクドリ↓

      


2014年2月13日木曜日

摂津特集をもって本誌は終刊する。(「花綵列島」第7号)・・・


「花綵列島」という特異な同人誌があった。覚えておられるであろうか、いや、ご存知であろうか?
30年前のことである。
愚生の手元に残っているのは第五号「特集・大本義幸」(1983年4月)と終刊号の第七号「特集・摂津幸彦」(1985年5月)のみである。
終刊号に、小西昭夫は次のように記している。

   思えば、花綵列島は自分達の作品や文章を自由に発表できる場として、高橋信之に発 行人を依頼し、山田清紀に協力を依頼して創刊した。しかし、高橋も山田も、私の思うよう に編集させてくれた。毎回特集を組もうと思った。評論のある雑誌しようと思った。詩や短  歌とも交流しようと思った。視野を広くもって、同人誌の不潔なイメージと無縁な雑誌にしよ うと思った。そのため、外部執筆者を多くし、同人作品欄は一切作らなかった。その結果、 「他者を主張する」というきわめて「ユニークな雑誌」という評もいただいた。(中略)
  豈にはいつも、「or Last」の文字がある。摂津特集をもって本誌は終刊する。

「同人誌の不潔なイメージ」とは当時の印象だが、確かにそうした感情があった。攝津幸彦もまた、「三十歳をすぎて同人誌をやってるなんて気持ち悪いよね・・」と自嘲気味に言っていたことがある。とはいえ、当時、散在していた同人誌は、お互いを意識しあっていたことが伺える。執筆などは、もちろん謝礼もなにもなく協力しあっていたのだ。攝津も愚生も最後まで同人誌しかついに関わることが出来なかったのは何であろうか。結社をある種羨んだこともあったかも知れないが、結局はその場に赴くことを潔しとしなかっただけのような気もする(結社を否定しているわけではない)、あるいは、選句という制度による暴力的な添削、句は良くなったとしても、自分自身の心持や時代の精神は、その欠片もなくなってしまう制度的な言葉の羅列。
それは、俳句表現技術の獲得を結社が支えてくれているはずであり、その方がきっと表現効果としても効率がいいかもしれない。それでも、遅速の、自分たちの納得できる言語に傾斜していかざるを得なかった心性こそは愚生らの孤立を支えていたのかもしれない(若い???ねえ)。
攝津が「静かな談林をめざす」と言ったのは、かの談林が抱えていた当時の時代、いわゆる貞門のような束縛と形式的なものへの反措定であり、大阪の町人を多く抱えていた談林の階級としての勃興、その経済力を背景とした個性の発露、その混沌のエネルギーをのみ、秘めて、静かに俳句に処して行こうということであったと思う。また、それは、髙柳重信が社会性俳句運動華やかかりし頃に、「ぼくらは氷のような炎で焼く」と言ったことと通底していたように思う。

因みに「花綵列島」五号の大本義幸特集の執筆者は、大本義幸・坪内稔典・河口聖・しょうり大・熊本良悟・東莎逍・妹尾健・塚越徹・仁平勝・戸南杏・大井恒行。短歌作品は、渡瀬治・加藤明生。俳句作品は、田中三津矢・岡本亜蘇・岡本のりを・加地勝敏・小西昭夫・熊本良悟・長野文子・東莎逍・矢辺みその・脇坂公司・山田清紀・吉田和子。他に高校生俳句作品が七名。詩作品は鴉裕子。表紙絵は長尾洋子。

    朝の虹
    蛮刀で切る
    ホスピタル             義幸

「花綵列島」七号「摂津幸彦特集」の執筆者は、摂津幸彦・坪内稔典・大井恒行・冨岡和秀・仁平勝・宮入聖・戸南杏。他に詩は広瀬治・佐々木啓二。俳句は以下に一句ずつ挙げておこう。

   ものの芽をいらへば思想傾きぬ       幸彦

   春浅しくちびるをかむ糸切歯         山田清紀
   眼光を海に刺し込み舟を操(く)      藤田みその
   春愁の河口までゆく境涯派          熊本良悟
   次々と解剖へ向く油蝉             東 莎逍
   落花して骨の残りし椿かな          岡本亜蘇
   夏柑の無数の粒の涙痕よ          脇坂公司
   飲めば酔い酔えば喚(わめ)きて醒めて月 小西昭夫

                フユバラ↓


2014年2月12日水曜日

「獣園」、戦無派の「あがき」・・・


作句集団「獣園」(1971年刊)は、愚生が最初に創刊に参加した俳句同人誌である。
切っ掛けは、愚生が「立命俳句・7号」を終刊号のつもりで出したことによる。
黒い表紙に「立命俳句」の文字が白抜きにされた雑誌を眼にした久保純夫(当時・純を)が、「立命俳句」のOB・さとう野火宅を訪ね、同人誌を企画したのに始まる。当時、愚生はすでに東京に逐電していたが、さとう野火宅で久保純夫に会い、雑誌創刊に参加することになったものだ。
思えば、その後の久保純夫と行をともにする岡田耕治(現・「香天」)、土井英一・城貴代美「儒艮」
などもいたように思う。愚生は集団「不定形」以来の林かをるというペンネームを使って「戦無派の危機」という記事を書いている(「獣園」第2号、このことは、すっかり忘れていました・・)。
その表紙裏に「戦無派の提唱『あがき』」というマニフェストのような文章がある。少し引用する。

   作句集団「獣園」の同志達はほとんどが全くの戦無派であり、戦中に生を受けた者も全 く意識 としての戦争体験はない。しかしながら、私たち青年は欲望時代の渦中で生きてゆ かなければな らない。急テンポで進むメカニズム、価値観崩壊、言語の危機・・・・それら は人間一人一人を孤  立させる。
  「獣園」、それは人間性回復の広場であり、素朴な生き物の叫びであり、ささやかな抵抗 の場で あり、あがきの場である。芭蕉は死の直前まであがいた。けっして、なげやりにな ったり、悟ったり しなかった。
                     一九七一年二月  作句集団「獣園」編集部

たぶん、これを草したのはさとう野火(一昨年死去)であろう。ちなみに第二号(創刊号ほかは現在、某氏に貸し出し中なので、手元に2号のみが残っていたので・・)より、一句ずつ挙げておこう。

   空白な過去ひたすらに地虫はう       河野雷太
   ボート伏せ白いペンキで居並ぶ冬     北野真暉
   雪から雨へ少女の嘘を溶かしゆく     京谷慶治
   足裏に雪の結晶ゲリラ進む         木村蛇子
   刈田貫く鉄路で妊婦だけの焚火      久保純を
   白息の靴打つ釘を口から出す       さとう野火
   雪ふりつむ深さへ雪のすべり台      城貴代美
   醒めて書く卒論母の咳けるのみ      土井英一
   殖える海星尾骶骨まで熱するデモ     東野月沼
   冬天を塗るべし梯子ペンキ屋に      藤原一昭
   ビル街へ運河つまりて冬の雨       山田白狼
   人形の貌もち北風の街ぬける       山本 恭
   冬どっかりと愛し切れずに海光る     横岡たけし
   夜回りの乾いた咳惰眠を敲き       横田義之
   撫でて荒野の言葉の嘘を磨きつつ    大井恒行



*閑話休題・・
  「ザ・ビューティフルーー英国の唯美主義1860-1900」を三菱一号館美術館で観た。
ビアズリーのサロメの挿画を観ることができて満足・・・そうそう、ウイリアム・モリスの壁紙(ひなぎく)も・・・。昨年だったか、府中市立美術館でのウイリマム・モリス展を散歩の途中で偶然に観た記憶が蘇った。
                 
               美術館の庭に咲いていたヒイラギナンテン↓


2014年2月11日火曜日

「日時計の会」解散から「天敵」「黄金海岸」へ・・・



前回に引き続いて、愚生らにとって、いわゆる「俳壇」ジャーナリズムとは別の場で、新しい俳句のシーーンを創り出すべく奮闘としていた坪内稔典・大本義幸の出した本(雑誌)について触れておこう。
1974年2月「第二次・日時計」は終刊号を出し、「日時計の会」は解散、その、購読予約者について、巻末に次のように記されている。
            
          (前略)
    雑誌「日時計」の予約購読者の方々は次の措置をとっていただくようお願いいたしま     す。
    ①残金を「黄金海岸」購読料とする
    ②残金を「天敵」の購読料とする
    ③残金の払い戻しを受ける
    以上①②③のうち、希望を通知して下さい。通地のない場合は①の措置をとらせてい    ただきます。
           (3) 
    会の解散により、旧同人を中心に二つの雑誌が刊行されます。それぞれに支援をお    願いいたします。

  そして、それぞれ「天敵」と「黄金海岸」の内容の広告が掲載されている。
 「天敵」(発行所・澤好摩)の同人は岩田憲夫・加藤路春・小比類巻真理子・澤好摩・矢上新八・横山康夫、「黄金海岸」(発行所・大本義幸)の同人は大本義幸・攝津幸彦・立岡正幸・坪内稔典・馬場善樹・宮石火呂次。

その間に「現代俳句」第一集(1976年3月、ぬ書房)が「第一回現代俳句シンポジュウム」に合わせるように刊行された。「現代俳句・第一集」の作品掲載参加費用は各人一万円だったように記憶している(あてにならないが・・)。
愚生は、中断していた句作を、この坪内稔典の原稿依頼によって文字通りの俳句復帰を試みた。その意味では、いまだに坪内稔典に恩義を感じている。ほぼ同時期に、愚生は、貧しく資金もなかったので、50句・50冊の手書きの私家版句集『秋(トキ)ノ詩(ウタ)』として刊行した。友人や、少なかったが何人かの若き俳人に謹呈。愚生27歳の折りの第一句集だった。
『現代俳句・第一集』の収載俳人は、28名、

浅井一邦・石寒太・岩田礼二・岩切雅人・大井恒行・大本義幸・小笠原靖和・岡田耕治・大屋達治・大森澄夫・久保純を(夫)・小海四夏夫・沢好摩・しょうり大・白木忠・摂津幸彦・瀧春樹・武馬久仁裕・竹本一平・坪内稔典・馬場善樹・林桂・藤原月彦(龍一郎)・穂積隆文・矢上新八・横山康夫・吉岡修二。評論の転載は富澤赤黄男「クロノスの舌、戦後言」、西東三鬼「雷光照らせ、他七編」、扉挿画・川口聖。

現在ではとても考えられないが、若い女性作家(俳人)の収載はゼロである。まだまだ、俳句が男性のものだった時代の産物というべきか。それとも、当時の女性にとってはまだまだ「俳句」の敷居が高かったのだろうか。現在は、どこの句会もほぼ女性がその人数を上回る。隔世の感がある。

ともあれ、『現代俳句』の裏表紙には、シンポジウムの案内が記されていた(結社に囚われない、多くの若き俳人たちを中心にした場と交流が具体的に出来上がった)。

   第一回現代俳句シンポジュウム
   時・一九七六年三月二十八日午前九時三十分~
   所・名古屋観会館
   講演・北川透氏
   テーマ・詩と自然と風土
   参加自由


2014年2月10日月曜日

最年長35歳、最年少14歳、平均28歳・・・


『われ未だ定まらぬ』羞恥と誇りを抱く若き俳人によって、この『未定』は出発する」、「ともかくも『未定』が、ごくらくとんぼの集団ではなく、不屈の創造精神と批評精神の持ち主の相互形成する場であり続けるために、奮起しよう」と編集後記に記したのは夏石番矢。
「この『未定』に集まりたるもの、12月末現在で二十二名。最年長三十五歳、最年少十五歳、平均二十八歳」と記したのは澤好摩。創刊号は1978年12月10日発行。700円。
編集人・夏石番矢、発行人は澤好摩。表紙カットは夏石番矢。
季刊誌として出発し創刊号の特集は「戦無派世代の今日」。特集の論は、4名、跡部祐三郎「方法論の行方」、夏石番矢「一戦無派俳人の今日観」、横山康夫「〈提燈を遠くもちゆきて〉と幻想し」、米本元作。評論に澤好摩「鈴木六林男ノート②」。
最年長35歳は覚えていないが、最年少15歳は水島直之だったということと、今は俳句を辞めている(と思う)米元元作は八木三日女の子息で東大将棋部?だったような・・・(愚生の記憶違いかもしれないが、何しろ36年まえのことだから・・)。
「未定」はその後、宇多喜代子、池田澄子、高屋窓秋を同人に迎えたこともあるが、現在は高原耕治発行人で、多行形式の俳誌として持続されいるものの、創刊同人は一人もいない。
とりあえず、攝津幸彦の名句もあるので、創刊同人一人一句を挙げておこう。

     風の日の野川か葱の絵を投げよ      大森澄夫
     抽象へひつじは行けり息消して       しょうり大
     麦秋の少年に繭送らなむ           林 桂
     あらざらむこの世のほかを夏の暮     藤原月彦
     遠景にてちからすこしの校塔よ       水島直之
     出口なき平野に春の男立つ         武馬久仁裕
     雪地獄電球爆すかも知れぬ         跡部祐三郎
     北さしていかづちの丘ぬけられず      加藤路春
     金曜の日向に赤き貝の舌           葛城綾呂
     炎天の雲間から父降りてくる         佐藤弘明
     ピストルを極彩色の天へ撃つ         澤 好摩
     昼顔の前方三里大津波            志水のりお
     太古よりあゝ背後よりレエン・コオト     攝津幸彦
     天井裏をはんみょうが飛び父眠る      夏石番矢 
     戦艦の上空絶対零度かな           橋口 等
     半鐘が湖面に触るる二十五時        比田義敬
     潮騒に裸体を盗られゐたりけり       諸角和彦
     日の沼を淋しき首のむらがれり       矢上新八
     天命といへど水母は泳ぐなり         横山康夫
     山羊よりも痩せてわたしが水の上      米元元作
     されど雨されど暗緑 竹に降る        大井恒行 
                                *流ひさし(作論ともなし)
攝津幸彦も「未定」創刊同人であったが、当時すでに「日時計」「黄金海岸」の後に続く同人誌を構想中であり、澤好摩に新雑誌創刊のときは「未定」を退会することになるがいいか、と、事前に分かり合っての同人参加であった。「未定」発刊後およそ、一年を経て「豈」は創刊されたのだった。従って「豈」創刊当時は、愚生は「未定」「豈」の双方に同人参加していた。
一方、坪内稔典は第二次「日時計」の終刊(1974、冬、2月)後、「現代俳句」(ぬ書房)の発刊、各地での現代俳句シンポジウムを開催することを構想していた。

2014年2月8日土曜日

雪月花「私のすべて」死して謝す・・窓秋・・





高屋窓秋の最後の句集『花の悲歌』(弘栄堂書店、1883年刊)には、雪月花をキーワードとした句が多く収録されている。実に252句中22句を占める(一割弱)。雪月花をキーファクターとするならば、『花の悲歌』のほとんどを占めるといって不足はない。雪月花の句のうち、高屋窓秋がもっとも気に入っていた句は、

      雪月花美神の罪は深かりき      窓秋

以下にいくつか雪月花の句をあげておこう。

     雪月花悪の花などちらちらす
     雪月花不思議の国に道通ず
     雪月花をみなの罪は地に芽生え
     雪月花をのこ罪ははうき星
     雪月花山河滅びの秒の音    
     雪月花山肌いたく荒れしかな
     雪月花身辺人が泣き喚き
     雪月花軍艦浮かび浮寝せり
     雪月花されば淋しき徒労の詩
     雪月花銀河の端のこの梅見


集名は次の句から、

    花の悲歌つひに国歌を奏でをり

この句集には「あとがき」も何もない。装丁・亞令、挿画・糸大八のみ。ただ、栞を三橋敏雄が書いている。愚生が「俳句空間」を編集している最後の時期に創らせてもらった句集だ。
三橋敏雄があるとき愚生に「高屋さん、句はあるらしい。君が言えば出すと思うよ」と呟いたのが切っ掛けだった。その栞に三橋敏雄が書いているように、朝日文庫のための書き下ろし「星月夜」の「あとがき」引用しながら、高屋窓秋最晩年の句集として用意されている句集名は『冬の旅』、それを「思い止まったのは、その文字から受ける、なんとなき清々しく重みのある終末感からで、これはもう少し先へ大切にしまっておいたほうがよい、と考えたことによる」ということだろう。
     
最初の打ち合わせは、窓秋お気に入りの絵をみながらお茶も飲める松涛美術館(渋谷区)で挿画の糸大八と三人で会った。
窓秋曰く「ぼくは、これまで一度も自分から句集を出したいと思ったことはないんです。いつもどなたかが、出したいと言ってくれるんです」。
窓秋はまた、先生と呼ばれることが嫌いだった。あるインタビューに立ち会ったとおりに、インタビュアーが先生、先生と連発するでので、どうにかなりませんかねーと愚生に言われたことがあった。
『花の悲歌』は採算を取るために、予約出版とした。それでも印税分の相当額は現物(本)で納めさせていただいた。
ここで一つだけお詫びと訂正をしておきたい。
句に誤植があったのだ。やさしく高屋さん(失礼ながらいつもそう呼ばせていただいていた、先生というと機嫌が悪くなるので仕方ない)は、「今度、再販するときにでも訂正しましょう」と言われた。
いまだに再販は実現していない、のは言うまでもない。
     
   (誤)くろがねの秋の軍隊沈みけり
   (正)くろがねの秋の軍艦沈みけり

慎んで訂正し、お詫び申し上げます。

東京は45年ぶりという大雪が降っている。

               雪のコウバイ↓

2014年2月7日金曜日

総勢16名、平均年齢はおそらく30歳強・・・


俳句同人誌「豈」創刊号(1980年6月)の同人の陣容(総勢16名、平均年齢30歳強)である。
その折、攝津幸彦は編集後記にSの署名で、以下の様に記している。

   思えば昨年八月、立岡、大本、しょうり達と淡路島に一泊して遊んだ時、何か義務感の ようなものにとらわれて、「豈」を出そうと決意したのだった。その義務感のようなものは一 年を経ようとしている今もある。
  つまりは、私自身の問題として、このまま俳句を書き続けるか、あるいは俳句を書くことを やめるか、何か明確な形で落し前をつけたいという気持ちがあるのである。おそらく同人諸 氏の幾人かも、同じ気持ちでいると思う。私は「豈」を通じ、いかなる工夫で俳句を書き続  けていくのか、あるいは、俳句を断念するのか、その有様をじっくり見てみたいのである。  いづれにしろ「豈」が近い将来、終刊を宣言する頃に、我々の胸に、はっきりとした決意が 表われているはずである。

こうして、創刊号から11号(1989年6月)までの表紙左下には、「FIRST OR LAST」~「ELEVENTH OR LAST」のように「OR LAST」の文字が入っていた。いつも終刊号の覚悟だったのだ(思えば健気というべきか)。しかし、何を間違ったか、攝津死後も継承され、遅速を愛しながら、曲折はあったものの55号まで来てしまった。同人が百人になったら廃刊しよう、と冗談まじりに語られたこともある。しかし、こと志と違って、いまや、30歳だった同人も(来年で創刊35周年・・)高齢化の難は免れがたく、老兵のみになって自然消滅の時間のほうが早くきてしまいそうなのである。亡びることが分かっていてもそれに殉じるというのもまた一興かも知れない。
とはいえ、どのような小さな場でも、それを必要としている人がいれば、それは存続する。今は、秘かにそのことに賭けているのである。
愚生の手元に残っている創刊号は落丁本で、完本ではない。あるとき落丁部分の作品を手書きで補充してあるものだ。評論は大本義幸「同時代を探る(1)中谷寛章覚書」、大井恒行「いかなる声を」、中烏健二「私を襲うのは」、田中三津矢「ピエロのために」。以下一句づつ引いておこう。

      雪がふりはじめる象の死と話す       中烏健二
      野菊あり静かにからだ入れかえる      攝津幸彦
      海ひろがる乳首の尖へ黒い蝶        城貴代美
      もう狂へないのだと鵙が来ていふ      白木 忠
      直江津のドアの一つが姉に肖て       小海四海夫
      群れてめじろ木にもろもろの晴れ間つくる  しょうり大
      遠野市というひとすじの静脈を過ぎる    西川徹郎
      山羊の背に詩を書き山羊を射ち殺す    山下正雄
      裏庭にしほみづがあり姉飼ふ髑髏     馬場善樹
      仮の世のあるいは猫もみごもりぬ      田中三津矢
      血しぶきをあげて静かに春の家       野田裕三
      日の丸ああ〈トマトうさぎ〉に竹刺せば    立岡正幸
      
      夕凪集今朝(けさ)君の名は誰か問ふ   長岡裕一郎(回文句)
      ふと枯れた花の幹咲け不思議な冬   

      いるだろう頭上を水は十五階より流れて  大本義幸
      石か木か髪にくくられふたりいる       大井恒行





2014年2月5日水曜日

榮猿丸「梢までむささび駆けぬそのまま跳ぶ」・・・


榮猿丸、人を喰った俳号である。
由来は知らないが、一度聞いたら、なかなか忘れられない。
面白いと言えば面白い。
(愚生など年寄りには、昔、髙柳重信に本名で責任をもって書け、と言われたことがあるが、今ではペンネームも悪くはないと、少し羨ましくさえある。その重信だって、重信になる前に恵幻子と名乗っていた時期がある)。
その昔、平安初期の人で猿丸太夫は、生没年不詳の伝説的歌人?三十六歌仙の一人ながら実作と信じられるものは一首もないというから興味は尽きない。
上掲の句を収めた榮猿丸句集『点滅』(ふらんす堂)は、題簽・帯文は小澤實、栞文を正木ゆう子・髙柳克弘・藤本美和子。カタカナ表記や相聞の句に、その特質の一端、また描写力に讃を草しているが、それらには、読者諸兄姉が直接にあたっていただいて、すでに架空の恋くらいしか活路のない愚生は、以下の感銘句などを引いて、「俳句はかっこいい」という著者の心底に、いくばくかのニヒリズムの在りどころと、父なる存在へ風情の一端を思い、しずかに賞味しておきたい。

    飛びたてば羽搏きやめず初雀      猿丸
    日覆や通りの女すべて欲す
    動物園に糞を見にゆく昭和の日  
    ノートパソコン閉づれば闇や去年今年
    X線検査機通過す読初の『檸檬』と鍵
    自問ばかりやマスクの下のつぶやきは
    花冷の階に父子座す段違へ
    竹馬に乗りたる父や何処まで行く
    バナナの黒斑父の手に及びをり
    父の焚火見る二階より降り来ぬ子

終わりに、愚生の愛唱する句は、

    わが手よりつめたき手なりかなしめる
    炎天のビールケースにバット挿す

*「榮猿丸(さかえ・さるまる) 1968年東京都生まれ」


    

2014年2月4日火曜日

丈草「淋しさの底ぬけてふるみぞれかな」・・・





朝から小雨が降っていたが、雪がまじり、午後少しには霙になった(いまは雪)。
内藤丈草は江戸中期の俳人。本名内藤本常(もとつね)、別号を仏幻庵・太忘軒。元禄二年、芭蕉に入門、同六年、近江の無名庵に移り、孤独の生涯を送った。蕉門十哲の一人。
ある書によると「底の」の語彙は丈草の詩情のキーワードであるという。果たして掲出の句は「底ぬけて」が卓抜なんだそうである。他にも「底」を探すと、
   
     水底を見て来た皃(かほ)の小鴨哉       丈草
     水底の岩に落ちつく木の葉哉

眞鍋呉夫句集『雪女』に丈草を詠んだ句がある。

     丈草が好きで釜屋の艾(もぐさ)買ふ      呉夫

詞書に「日本橋小網町の艾は江州伊吹山の産なりとぞ」とある。
釜屋は、創業萬治二年、現在も艾を商う専門店だ。愚生が愛用しているのは「カマヤミニ」という温灸である。愚生の子どもがまだまだ小さかった頃、夜中に耳が痛いと泣くので(中耳炎)、救急車というわけにもいかず、(鍼灸師だった操体法の先生に一年間くらい学んだことがるあるので)、「経穴活用宝典」なるツボの本を片手に灸をすえて急場を凌いだこともある。
その(株)釜屋もぐさに天魚子・眞鍋呉夫の句があることを釜屋もぐさに伝えたところ、「カマヤミニ」を一箱いただいたことも思い出だ。
ともあれ、丈草には、近江八景のひとつ「瀬田の夕照(せきしょう)」を詠んだ、浮世絵を思い起こさせるような「幾人(いくたり)かしぐれかけぬく勢田の橋」がある。

              
    

2014年2月3日月曜日

森あゆみ「子規の音」・・・

                                 子規庵の枯れヘチマ↑  ヒメザクロ↓


新潮社「波」2月号から、新連載で森まゆみ「子規の音」が始まった。
不明を申せば、森まゆみについて、愚生はほんとんど何も知らない。子規についての連載というので、思わず読まされたしまった。
森まゆみは「谷中・根津・千駄木」の地域で相当に貢献されている方らしいから、根岸の里の子規は掌中の玉なのであろう。読む楽しみが増えた。
子規はこれまでにも様々な小説のモデルになっているくらいだから、よほど魅力的な人物に違いない。時代背景も明治という時代精神を負っているところなどがそうさせているのかも知れない。
俳人の末席を汚している愚生は、もっぱら子規によって出発した「俳句」の革新的な部分に生涯の興味を抱いているのだが、功罪というものは何にでもあって、子規が排した月並俳句は、まったくそれらの俳句を実際に読むことなく、長いあいだ唾棄すべきものだと信じてきたぐらいだ(反省・・)。

先日は伊集院静『ノボさん』を書店で立ち読みして、じっくり読もうと思って近くの図書館に出かけた(何しろ部屋は狭いし蔵書にするには、もはや苦しい、さらに年金生活ではちと、出費が嵩し・・・)。
『ノボさん』は人気らしく市内にある分館もふくめてすべて貸し出し中。図書館員の方が「リクエストされたら、順番でお知らせしますよ」と言うので、それではと、お願いしておいたのだが、3週間のちの今になっても、音沙汰がない。
じつは「波」でこれまで毎月読んでいたのは、嵐山光三郎「芭蕉の修羅」と堀本裕樹と穂村弘の「俳句と短歌の待ち合わせ」を楽しんでいたのだ(VS方式だから、俳人方を贔屓にしているのだが、穂村弘の才にはちと分が悪い)。その前は、歌人・永田和宏の河野裕子についてのエッセイを毎回涙を流しながら読んでいた。
                ボケ↓

2014年2月1日土曜日

「地にプルトニウム梢に鳥交む」河村正浩・・・ 


タイトルの句を収めた河村正浩句集『秋物語』(やまびこ出版)は様々な工夫を凝らした句集である。意匠のことではない。
著者の「一般の方々に少しでも興味をもって頂けたらとの思い」で、俳句用語らしいものには、ルビや解説(注)が付いている。
小学生になったつもりでの句作などもあるが、何と言っても、冒頭の章の「忘れない三月十一日」、続いて「沖縄慰霊の日」、そして、作者が地元の縁の深い人間魚雷「回天」を詠んだ「続・嗚呼回天」の句群は訴える力のある作品だ。

     一握の砂は骨片沖縄忌        正浩
     報国・特攻・英霊卯の花腐しかな

「卯の花腐し」には、俳人ではない読者を想定して注釈がついている。次のような・・

 〈卯の花腐し(うのはなくたし) 卯の花(花うつぎ)を腐らせるように降り続く雨のこと。
 
他に、自由律を試みた句もある。
    
     蟻の群がる不発弾のような虫
     夕日を背負って影が戻る
       平成二十一年一月妻死去
     その一言が言えなかった妻よありがとう


*閑話休題・・
 新宿の損保ジャパン東郷青児美術館に寄った。「クインテットー五つ星の作家たち」で「風景」をテーマにした作品群でおおむね1960年代後半生まれの画家たちであった。五つ星の作家は児玉靖枝・川田祐子・金田実生・森川美紀・浅見貴子の五人。
ともあれ、損保ジャパン東郷青児美術館といえば、何といってもゴッホの「ひまわり」、ゴーギャン「アリスカンの並木道ーアルル」、セザンヌ「りんごとナプキン」の常設、山口華陽、東郷青児である。


                    ジンチョウゲ↓