2018年2月28日水曜日

瀬戸内寂聴「御山(おんやま)のひとりに深き花の闇」(『ひとり』)・・・




 瀬戸内寂聴句集『ひとり』(深夜叢書社)は、80句程度に7編のエッセイを収めた、いわば句文集のようなものだが、長い句歴のわりには厳選された句が並ぶ。「あとがき」に集名に因む結びが記されている。

  百年近い生涯、こうして私は苦しいときや辛い時、自分を慰める愉しいことを見出しては、自分を慰め生きぬいてきた。
 句集題名は「ひとり」。
 一遍上人の好きな言葉があった。
   生ぜしもひとりなり
   死するもひとりなり
   されば人とともに住すれども
   ひとりなり
   添いはつべき人
   なきゆえなり

集中の句にも「ひとり」を詠んだ句は多い。

  生ぜしも死するもひとり柚子湯かな     寂聴
  ひとり居の尼のうなじや虫しぐれ
  春逝きてさてもひとりとなりにけり
  独りとはかくもすがしき雪こんこん
  御山(おんやま)のひとりに深き花の闇

 エッセイには交遊のあった作家のその人となりを描いて、その作家の句も添えられている。例えば、

  露の身とすずしき言葉身にはしむ     高岡智照尼
  門下にも門下のありし日永かな      久保田万太郎
  初暦知らぬ月日は美しく          吉屋信子
  舞初や心にしかと念じつつ         武原はん
  羅(うすもの)や人悲します恋をして   鈴木まさ女

 愚生は、晴美時代の大杉栄と伊藤野枝を描いた『美は乱調にあり』を愛読したことがある。
 ともあれ、他にいくつか寂聴の句をあげておこう。

  子を捨てしわれに母の日喪のごとく     寂聴 
  おもひ出せぬ夢もどかしく蕗の薹
  生かされて今あふ幸(さち)や石蕗の花
  ほたる抱くほたるぶくろのその薄さ
  落飾ののち茫茫と雛飾る

瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)1922年、徳島市生まれ。



2018年2月27日火曜日

田付賢一「わが憎悪ついに許さず母を焼く」・・・



          マブソン青眼が送ってくれた
                    信濃毎日新聞記事↑


           左より田付賢一、望月至高↑ 

 昨日は、25日「俳句弾圧不忘の碑」(上掲新聞記事)の除幕式に参加した鈴木六林男の晩年の弟子・望月至高が、帰路東京に寄り、現代俳句協会事務所で愚生と待ち合わせをしたのだった。
そこで、望月至高『俳句のアジール』(現代企画室)が「現代俳句」3月号・ブックエリアに掲載されたお礼かたがた、編集長の田付賢一に挨拶も兼ねていたのである。
 詳しくは、その書評を読んでもらうのが手っ取り早いのだが、『俳句のアジール』は望月至高の『辺縁』(その時の号は雅久)に続く第二句集である。散文(大道寺将司句評・吉本隆明追悼・唐牛健太郎の思い出、戦死した叔父の軌跡を追求するなど)をも収めた一書だった。

   宝船兵器兵隊満載し         至高
   派遣労働者累累と卯の花腐しかな
   地震(ない)のあと子らは笑うよ春泥に
   オスプレイ轟轟と来て梯梧咲く 
   花篝ほどよく昏きナルシスト

 などの句がある。また、三人での現俳協近くでの茶飲み話の際に、渡邊樹音句集『琥珀』の跋文でお世話になった田付賢一に、以下のような母恋の句があることも初めて知った。

   遭うために母は銀河の駅に佇つ     賢一
   背泳ぎの母がいそうな夏銀河
   終りなきテロの連鎖や神無月
   戦さ知らぬままに育てよ菖蒲の日
   ごろんと林檎不発弾かもしれず




2018年2月25日日曜日

宮入聖「桃の蟲桃ごと喰らふ親ころし」(「句歌」第一集)より・・



 「句歌」第一集(発行・保坂成夫)に「桃の蟲」(未刊句集『ろくでなし』よりその一)と題した宮入聖の57句が掲載された冊子のコピーを藤原龍一郎が送ってくれたのだ。
まさに、いまや伝説と化していた宮入聖の作品となれば、少なくとも約25年ぶりの復活というとになる(いや30年になるかもしれない)。このたび、コピーを送ってくれた藤原龍一郎は「俳句空間」23号・休刊記念号特集「現代俳句の可能性ー戦後生まれの代表作家」(1993年6月)の「宮入聖論ー遊悲の人ー」にで、「ついに一人の俳人を選ぶなら私にとっては宮入聖である」と述べているその俳人である。
 今回のコピーには宮入聖の句作品の部分と「句歌」第一集の奥付に付された刊行予告「小海四夏夫最終歌集『一瞥』/限定五十部/予価二千円/五月刊行予定」があるのみだが、この発行人・保坂成夫は、元「豈」同人・小海四夏夫の本名ではないかと推測した次第である(成夫→四夏夫)。小海四夏夫も宮入聖と同じく、これまで全く音信が途絶えていたかつての「豈」同人の一人である。
 「俳句空間」休刊記念号のその特集には谷口慎也、攝津幸彦、西川徹郎、宮入聖、金田咲子、久保純夫、筑紫磐井、江里昭彦、大屋達治、正木ゆう子、片山由美子、対馬康子、林桂、長谷川櫂、夏石番矢、四ツ谷龍、田中裕明、岸本尚毅、18名を自選12句と各俳人論で紹介している。すでに25年前のことだから、現在でも活躍著しい俳人を、かの若き時代に、俳壇的には駆け出しだったころ、よくも大胆に選んだものだと思う。その折りの宮入聖の自選12句のうちから以下に、

  青大将に生れ即刻殺(う)たれたし    宮入 聖
  滴りや性慾巌のごときもの
    感懐
  泉掬ぶ「手錠のままで光りゐよ」
  蜀葵母があの世に懸けしもの
  水鳥や毀れんことを愉しむや

ともあれ、今回の「未刊句集『ろくでなし』よりその一」から、いくつか紹介しておこう。

  鬼灯を堕胎させたる妻楊枝     
  赤ん坊しづかに父母の契りきく
  バカヤロと自分のこゑで叱られる
  兎のやうにものくふ故郷の女たちよ
  帽子屋に陛下の帽子まだ架かる
  三陸の津波に指揮者ありとせば
  十人も産んで一人で生きてゐる
  鳴ってゐたでんでん太鼓泛いてゐる
  皺くちゃの日の丸掲ぐ父母の戦後

宮入聖(みやいり・せい)、1947年生まれ。
  




2018年2月24日土曜日

金子兜太「かくも細かく科(しな)の花咲きわれは老いず」(「点」第44号より)・・



「点 海程福井支部 年間アンソロジー」第44号(平成30年2月20日・海程福井支部)、中内亮玄の「編集後記」を以下にすべて再掲載する。

 今年で平成が終わります。金子兜太先生が主宰を引退され、海程が終刊し、点もまた然り。
 長きに渡り、全国の皆さん、読んで頂いてありがとございました。兜太先生、ご指導ありがとうございました。

 という予定でしたが、新たに『海原』発刊の、喜ばしいご連絡がありました。
 皆さん、今後ともよろしくお願いいたします。

「点」が届いたのは、金子兜太の訃報とほぼ同時だった。残念ながら「海原」発刊は、兜太健在の白寿までは待てなかったが、それでも兜太大往生というべきであろう。愚生にも兜太に関する数々の想い出はある。例えば、愚生が月刊「俳句界」に入った頃、社長の姜琪東が「兜太ばかりがなぜもてる!」というタイトルで特集を編んだ。そして、ほぼ毎号のように金子兜太を誌面に登場させた。その頃から、文字通り俳句の世界ばかりではなく、兜太の政治に関わる姿勢、「アベ政治を許さない!」「平和の俳句」「俳人九条の会」などに象徴されるように、社会的な運動の場に引きだされることが極めて多くなったように思う。ある意味で虚子以上の国民的俳人だった金子兜太。筑紫磐井のこの上ない金子兜太賛歌の句を、

  金子兜太老人は青年の敵強き敵     筑紫磐井 

ともあれ、以下に「点」より一人一句を挙げておこう。

  新涼のしゃがんで拾うひかりかな      石田秋桜
  星よりの伝言を待つ冬木立        岩堀喜代子
  等伯の屏風の陰の鬼哭かな         小山柴門
  風花の風にほどけるリボンかな      久保ふみ子
  妻の咳我に鞭打つようにかな        齋藤一湖
  桜とは無窮誰もが置いてきぼり       中内亮玄
  八月の傷口とんと乾かない         西又利子
  蓑虫の耳あるような動きせり       青木美智子
  雪の朝独りは鶏を鳴いてみし        水上啓治
  三ツ星の味より母のむかご飯       松宮日登美
  ローカル線から秋風に乗り変える      森内定子
  ぶらんこの園児は鳥になるつもり      山田冨裕



   


2018年2月23日金曜日

津沢マサ子「ひとの世の夢をみている夕焼野」(「俳句界」3月号)・・・



「俳句界」3月号(文學の森)の誌面には、興味深い特集、インタビュー記事が今月も掲載されている。「第19回山本健吉評論賞全文掲載」、「瀬戸内寂聴インタビュー」、「賑やかな高齢者俳句」など。ブログタイトルにした津沢マサ子の句は、90歳以後の自選5句からのものである。ご健在の様子で何よりだ。愚生が津沢マサ子に最初にお会いしたのは、代々木上原で行われていた「俳句評論」の句会だった。その帰路の電車のなかでサバサバした調子で、「俳句評論調に染まっちゃダメよ!」と言われたのが印象に残っている。愚生が22歳の頃だから、随分と昔のことだ。今考えると、津沢マサ子もまだ40歳を過ぎたあたりだったのだ。その後、山口剛が2年ほど前に亡くなるまでの数年間は、現代俳句協会の総会などで盛岡から上京してくると、必ずと言ってよいほど津沢邸に一緒に伺った。高柳重信の弟子にして無所属、孤高の女性俳人である。愚生が文學の森「俳句界」に世話になったときには、三橋鷹女の生前を知っている俳人として、彼女にインタビューをさせてもらった。とりあえず特集「賑やかな高齢者俳句」の一人一句を以下に挙げておこう。

   白寿まで来て未だ鳴く亀に会はず     後藤比奈夫
   初会 再会 偶会 白髪や 老眼鏡    伊丹三樹彦
   天心となりたる月に川の音        深見けん二
   ときどき老人ときどき子供土筆摘む     花谷和子
   街道にそれぞれよき名菜の花忌      有山八洲彦
   春ならひけふも眼鏡の行方かな       大坪景章
   ゆめの世の夢を捜して立つ枯れ木     津沢マサ子

 もう一つ、今号はおどろくことがあった。佐高信の「甘口でコンニチハ!」の田鎖麻衣子(弁護士)との対談「塀の中にいるのは、同じ人間」で、俳句の話題に及んだときに、大道寺将司や中川智正などの死刑確定者たちの俳句にふれたのちに、

田鎖 (前略)労働争議がらみで未決拘留されていた活動家の佐々木通武さんは、俳句を詠んでいたんですけれど、自費出版で本を出していました。タイトルが『監獄録句(ロック)』という。
佐高 センスいいタイトルだね。

の部分があって、数日前に、その佐々木通武から、先般、上梓した『影絵の町ー大船少年記』(北冬書房)の書評が神奈川新聞(2月18日)に載ったと、コピーをわざわざ送ってくれていたのだ。佐々木通武は他にも、自らの労働争議(一人争議)を記録した『「要求するとはなにごとだ!」世界でいちばんちいさな争議ー柴田法律事務所労使三五年の顛末』(東京・中部地域労働者組合柴法争闘記録編集委員会・2012年8月刊)をまとめている。
 思わぬところで俳縁は繋がっている、と思った。


            撮影・葛城綾呂↑








  

2018年2月20日火曜日

川島一夫「働いて放射能死や冬薔薇」(『人地球』)・・



 川島一夫句集『人地球(ひとちきゅう)』(現代俳句協会)、著者「あとがき」には、

 句集題名の「人地球(ひとちきゅう)」は永遠のテーマである。
 また俳句は現状を維持しつゝ進展するのが望ましいのは言うまでもないことだが、ただ一つ忘れてならないのは俳句及び句集がいつか一般読者に浸透し、読まれるということである。その為には若干の自己変革が必要ではないだろうか。今後に期待したい。

とあり、その姿勢はどこまでもポジティブである。ただ川島一夫の同志的俳人だった人たちの幾人かは無念にもすでにこの世にない。それらの句は、

  梅雨間近雲疾くして三郎死す       一夫  
  とまらない地下鉄があり嶺夫の死
  もう八十一と桜待たず亮氏死す
  われの手を引き斌雄の大銀河

句の人は、川崎三郎であり大橋嶺夫であり、島津亮であり、中島斌雄である。しかし、まだ俳句のために川島一夫には残された仕事がある。
ともあれ、いくつかの句を以下に挙げておきたい。

 スイッチョ轢かれ青濃しわが地球
 落葉が奏でる野どこにも人住んで
 杖持っていざる母の肩つめたい
 ブザーつけたランドセル売れ雲赤い
 人間に退化のシッポ彼岸花
 ゴメンネと餓死えらぶ人いぬふぐり
 若葉青葉照るだけ照って被曝の地
    妹から電話 
 わたしら毎日フクシマと新米
 引力は宇宙のポエム青ぶどう

川島一夫(かわしま・かずお)昭和8年生まれ。











  
  

2018年2月19日月曜日

井口時男「はまなすにささやいてみる『ひ・と・ご。ろ・し』」(『永山則夫の罪と罰』より)・・



 井口時男『永山則夫の罪と罰』(コールサック社)、懇切を極める解説は、コールサック社社主の鈴木比佐雄。その結びには以下のように記してある。

  大谷弁護士は『ある遺言のゆくえ 死刑囚永山則夫が残したもの』(永山こども基金編)の中で、〈一九九七年八月一日、永山則夫は死刑に処せられる直前、「本の印税を日本と世界の貧しい子どもたちへ、特にぺルーの貧しい子どもたちのために使ってほしい」と遺言を残した。〉と記している。その意志を実現するために設立された「永山こども基金」は、遠藤誠弁護士亡きあとも大谷恭子弁護士や市原さんをはじめとする多くの人びとによって今も持続し運営されている。そんな子どもたちの幸福と自立を願う志の中で、永山則夫はこれからも生き続けるに違いない。

また、著者「あとがきー永山則夫と私」の中では(少し長い引用になるが)、

 人生の軌跡には、どうしても「宿命」としか言いようのない様相がある。永山の生の軌跡にも、丹念にたどれば、このようにしか生きられなかった彼の「「宿命」が見えてくるだろう。「貧しい」人間は生の選択可能性においても「貧しい」のであって、貧困というものの人生論的な意味(傍点あり・・・・・・・)での恐ろしさはそこにある。ましてや永山は視野も狭い「無知」な少年だった。
 この観点を徹底するとき、「自由意志」などというものは虚構の観念でしかないのではないか、とさえ思われてくる。人はただ、自分でもわからない無数の錯綜した諸原因に強いられて行動しているだけではないのか。だが、たとえ虚構であっても自由な意志を仮定しない限り、人間の尊厳は保てない。そして、自由な意志が判断し選択した行為の結果に対しては、人は責任を負わなければならない。
 本件の四件の犯行のうち、最初の二件は偶発的なものだが、あとの二件のタクシー運転手射殺は強盗目的の意図的な犯行である。彼は取り返しがつかないという絶望の中で、「せめて二十歳のその日まで、罪を犯しても」生きることを決意したのだったから。「せめて二十歳のその日まで」生きる(傍点あり・・・)という永山の決意は二十歳になったら死ぬ(・・)という決意でもあった。そもそも、十七歳での一回目の横須賀米軍基地への侵入の時から、永山の犯行の裏には、いつもぴったりと自殺願望が貼りついていた。

 と述べている。永山則夫は1968年10月から11月にかけて、東京、京都、函館、名古屋と4人をピストルで殺害した。翌年4月7日に逮捕され、当時19歳だった。彼は1949年(昭和24年)6月 北海道網走市呼人番外地で 8人兄弟の7人目の四男として生まれた。愚生とは一歳違いである。愚生が故郷山口を18歳であとにし、京都にしばらく暮らすことになったときに、八坂神社でその一つの殺人事件は起きた。そしてのちに出版されることになる彼の獄中ノート『無知の涙』によっていくばくかのことを知るのだが、明確に永山則夫を意識したのは、愚生が組合活動をしていた頃、今思えば、今よりはるかに死刑廃止運動が推進されて、高揚のしていた時代に、そのさなかで死刑が執行されたように記憶しているのだ。
 愚生は、本書の井口時男のように永山則夫に関わったわけではないが、本書には、永山則夫を語りながら、やはり著者自身の思考の切実な有り様を、傍からみている自分に気づかされるばかりである。



 ともあれ、俳句を読むことはぼくにもできるかもしれない、と思うので、井口時男が「てんでんこ」第9号(七月堂)に掲載した句群「句帖から 二〇一七年 付・連作『タバコのある風景』」からいくつかを以下に紹介しておこう。

  岩牡蠣や若き漁師の咽仏
   松之山・坂口安吾記念館(村山家旧宅)
   玄関正面の大花瓶に十本ものまむし草が無造作に挿してあった。
  まむし草活けて安吾の一睨み
  つゆくさに黄金(きん)の蕊あり原爆忌
  水の秋鷺は鷺どち鵜は鵜どち
    故・光部美千代さんに
   宮坂静生氏によれば、光部さんが信州大学の学生句会で最初に作った句は〈ヒヤ
   シンス日数かぞへてごらんなさい〉だったという。
  消息は以来途絶えて風信子(ヒヤシンス)
  ピーカンの空の翳あり原爆忌
  秋天やタバコ手向ける墓は一つ
  ライターの燧石(ひうち)が軋る寒鴉





 

2018年2月18日日曜日

川島紘一「無人駅野焼きの煙入線す」(第176回遊句会)・・


こどもの城跡・岡本太郎作品↑


      旧暦12月25日(本年は2月10日)は春星・蕪村忌↑
                      撮影・渡辺保

先日、2月15日(木)は恒例の遊句会(於:たい乃家)だった。うっかり会場風景を撮り忘れてしまったので、同日昼間に通りかかかった場所にあった岡本太郎の作を掲げ、さらに句会のあとの二次会で、二時間にわたり蕪村の蘊蓄を披露して倦まなかった渡辺保に敬意を表して、彼の撮影した蕪村関連の写真を上掲にしました。
ともあれ、以下に一人一句を挙げておこう。兼題は、雨水・野焼・鮟鱇であった。

   雨水あり水車ゆるりと廻り出す         天畠良光
   (ほころ)ばぬ蕾(つぼみ)を叩く雨水かな  川島紘一
   阿蘇野焼き火の国の原空(そら)近し     春風亭昇吉
   雨水なる節気に惑いコート替え         山田浩明
   野を焼いて持論放棄の日となせり        武藤 幹
   鮟鱇に負けぬ大口熟女鍋            橋本 明
   吊鮟鱇身を削がるとき目の寄りぬ        石原友夫
   水戸っぽの議論沸騰鮟鱇(あんこ)      渡辺 保
   熟睡の黒土起こす雨水かな          山口美々子
   (とが)なくて鮟鱇吊るし刑に死す      村上直樹
   三拍子キラキラ窓打つ雨水かな        中山よしこ
   雨水(うすい)また雨水(あまみず)と読み温みける 大井恒行

欠席番外投句は、

  履歴書の楷書光りて雨水かな       林 桂子
  骨折の患者の減りて雨水かな      原島なほみ
  葉を包む冷気を払う雨水かな       石川耕治 

次回、3月15日(木)の兼題は、春雨・目刺・燕と当季雑詠。




★閑話休題・・・・

 遊句会の翌日、2月16日(金)は、アルカディア市ヶ谷で行われた第32回俳壇賞・第29回歌壇賞の懇親の集い(本阿弥書店)に出席した。旧知の方々とも久しぶりの再会を喜んだ。この歳になるとそのような気にもなるものである。ともあれ、以下に各受賞者の二句、二首を紹介しておこう。

  穂絮ぶ笠がけ馬の駈けし野を    篠遠良子
  的を射る九月の畳軋ませつ 

  なにゆゑに逃げざりしかと問われゐつ共犯を追い詰むる口調に 川野芽生
  つきかげが月のからだを離るる夜にましろくひとを憎みおほせつ





2018年2月17日土曜日

大井恒行「千羽鶴その眼幾万幾億や」(府中市シルバー人材センター第7回ふれあい作品展)・・・




棟方鷹揚・モザイク画↑

             清水正之・書↑(愚生の句4句を書く)

 愚生の職場である府中グリーンプラザ5階展示ホール(京王府中駅直通)に於て、第7階ふれあい作品展が開催されている(16日~明日18日午後3時まで)。ふれあい作品展は公益社団法人府中市シルバー人材センター主催(後援・公益財団法人 府中文化振興財団)で、会員の作品が主要に出品されている。愚生の俳句4句をペン字の書にしてくれた清水正之と職場の先輩の棟方鷹揚のモザイク画を紹介しておきたい(上の写真・携帯の写真でいまいちピントが合っていないが・・)。
因みに「ふれあい作品展」の挨拶には、

 当センターは、公益社団法人として60歳以上の健康で働く意欲のある府中市民を対象として、地域社会と連携を保ちながら就業、社会奉仕活動等を通じ、生きがいのある充実した生活を送っていただき、高齢者の能力を活かした地域社会づくりに寄与することを目的としています。

とあった。 




★閑話休題・・・・・

 以下はシルバー繋がりで「俳句はシニアの最高の脳トレ『黎明俳壇』」第2号を紹介したい。第2号は第4回~第6回シニアのための黎明俳壇入選作が発表されている。選者は武馬久仁裕(黎明書房社長・俳人)である。特選のみだが以下に挙げておこう。

  日盛りに阿蘇の天然水を飲む      滝沢和枝(第4回)
  着信音わたしを捉え秋来る      甲斐由美子(第5回)
  稲刈りもした新婚時代の空の色    三島ふさ子(第6回)

因みに投句料は無料でハガキでネットで気軽に応募して下さい、とあったのを以下に紹介しておこう。

 ・未発表作品、二重投句、選者が添削する場合もある。また投句の際は名前(ふりがな)、住所、電話番号は明記することとある。詳細は「黎明書房」ホームページを見て下さい。
 〒460-0002 名古屋市中区丸の内3-6-27 EBSビル 
  黎明書房 黎明俳壇係、
E-mail: mito-0310@reimei-shobo.com







2018年2月16日金曜日

野村朱燐洞「はるの日の礼讃に或るは鉦打ち鈴を振り」(「子規新報」第2巻第65号)・・



「子規新報」第2巻第65号は、特集「野村朱燐洞の俳句」である。朱燐洞(しゅりんどう)は本名守隣(もりちか)1893年11月28日~1918年10月31日。享年26.現松山市小坂生まれ。号ははじめ短歌を学び「柏葉」と号し、俳句においても当初は「柏葉」。「層雲」では朱燐洞、さらに朱鱗洞と使い分けた。23歳で「層雲」選者になり、後継を期待されたが、スペイン風邪、今でいうインフルエンザによって脳膜炎を併発急逝した。
 本誌の特集のなかでは、とりわけ寺村通信・小西昭夫の対談が面白く、かつ大よその朱燐洞像が窺える。松山では朱燐洞は子規の再来と言われたとか、朱燐洞の墓は見つけることができたが、昭和45年に大分で発見された位牌は、再び行方不明になっているとか・・・。あるいは、朱燐洞「かゞやきのきわみしらなみうちかえし」の句は、俳句的な音律で、分析すると、普通の五・七・五とは違う、「かゞやきのきわみ、しらなみうちかえし」で在来とはちがい、今でいう「句またがり」の手法など、当時では新鮮なリズムだ・・・とか。
 そして、小西昭夫は「編集後記」に、

 ぼくや東英幸、岡本亜蘇は幸せなことに生前の高木和蕾と何度か句座を共にすることができた。和蕾は川本臥風時代の「いたどり」に参加しており、われわれも旧制松山高校俳句会、その後身の愛媛大学俳句会を御指導くださった川本先生とのご縁で一緒の句座を囲むことができたのである。
 和蕾は、種田山頭火の松山時代には山頭火と一緒の句座を囲み、山頭火最後の句会にも同席していた。山頭火の人気が高まってくる中でも、和蕾は「わたしは朱燐洞の弟子です」と言い続けたことが今でも強く印象に残っている。

と記している。ともあれ、朱燐洞のいくつかの句を挙げておきたい(引用句は、子規新報と層雲第三句集『光明』より)。

  ついついとんぼいつまでの夕明りかな    
  そぞろ歩くにあたたかく星かくれたり
  人は林にいこひ林の鳥は啼き
  するする日がしづむ海のかなたの国へ
  墓を去らんとし陽炎うてをるよ
  陽のましたへ舟をやりたしうしほがあふれ
  小鯛きんきん光りはねしが手にしたり
  闇にすっかりひらいたる桜にあゆむ
  空仰げば紺青の海高まさる
  かゞやきのきはみしら波うち返し






2018年2月14日水曜日

阿部靑鞋「わが前にくるほかはなき冬日差」(「綱」特別号)・・




「綱」特別号、「阿部青鞋没後30周年顕彰『靑鞋』」(限定300部、発行者・小川義人、発行所・福島經子)の冒頭のページ、永礼宣子「初めの一歩」に、

 わが師白石不舎が、生前目標にしていたことに「作州・三俳人の句碑建立」があった。
  三俳人というのは、西東三鬼、安東次男、阿部青鞋のことである。(中略)
 師から妹尾健太郎編『俳句の魅力 阿部青鞋選集』を見せられた時、仰天して、(青鞋はこんなすごい俳人だったのか)と思った。その作風は誰にも似ていなくて、俳句は摘みたての魂のように新鮮だった。

と述べられている。また、遠山陽子「阿部青鞋と三橋敏雄」には、

 敏雄は靑鞋を深く敬慕し、青鞋も敏雄の才能や人間性を愛した。昭和十七年、敏雄が自宅でささやかな結婚式を挙げたとき、青鞋が仲人をつとめた。
 秋風や畠にころぶ瓜の縞     羽音
 赤蜻蛉風の上とて揃ひをり    雉尾
羽音は青鞋の雉尾は敏雄の当時の雅号である。

とある。他に、青鞋にまつわる実娘や綱俳句会に集う人々のエッセイや一句鑑賞、靑鞋の句選抜集、略年譜、さらには、青鞋が作詞・作曲した唄「海田茶摘み」も掲載されている。エッセイでは多く、青鞋の人となり、生活ぶりなどが語られ、青鞋が多くの人達に愛されて、親しまれていたことが窺える内容である。例えば、小川蝸歩「俳縁奇縁(青鞋さんと不舎先生)」では、

 平成七年、第二回「西東三鬼賞」の翌日、「綱」の主宰、白石不舎による企画「阿部青鞋と渡邊白泉の旧跡を訪ねて」と題して岡山県英田郡美作町で講演がなされた。講師は不舎の盟友、三橋敏雄で講演終了後、三橋敏雄、鈴木六林男、佐藤鬼房の選者たちと参加者が津山から仕立てたバスで青鞋ゆかりの同町、海田地区まで足を運んでいる。(中略)
 津山は西東三鬼により俳句の街づくりを始めて久しい。私はこの地が阿部青鞋により俳句の街になることを夢見ている。

と抱負を語っている。ともあれ、本書のなかから、阿部青鞋の句をいくつか以下に挙げておこう。

  虹自身時間はありと思ひけり     靑鞋
  想像がそつくり一つ棄ててある
  柚子の木に柚子の実なくて雪がふる
  半円をかきおそろしくなりぬ
  日本語はうれしいやいろはにほへとち
  金魚屋のなかの多くの水を見る
  生活をしてをれば咲く八ツ手かな
  ゆびずもう親ゆびらしくたゝかえり
  必要な虹のかたちを議論する
  てんぷらのあがる悲しさ限りなし
  おぼろ夜をしばしわたくしして歩く  

阿部青鞋(あべ・せいあい)、大正3年11月7日、東京都渋谷区生まれ。平成元年2月5日死去。享年74.





2018年2月13日火曜日

山田佳乃「神々の高さに鷹の光りをり」(『波の音』)・・・



山田佳乃第二句集『波の音』(ふらんす堂)、集名は次の句に因むものだろう。

   波音が好きで遺愛の冬帽子     佳乃

著者「あとがき」には、

 私は二〇一二年夏に大きな手術をいたしました。術後左耳の聴力、三半規管を失い、後遺症が残ることとなりました。そんな状態でも、俳句だけは不自由なくでき、積極的にでかけて参りました。満身創痍の状態でしたけれども、今では一見何事もなかったようです。 

とあり、この「あとがき」を読むまではまったく気が付かなかったのだが、集中に音の句、もしくは音に類する句がいくつかあるのに気を留め、読みすすめていた。例えば、

  炮烙の音のぞきこむ壬生狂言
  秋の日の沈む風音たてながら
  古時計巻き戻す夜の虎落笛
  玉砂利を踏む底冷の底の音
  波音が好きで遺愛の冬帽子
  錫杖の春の光りの音となる
  雨音のやめば鳥声春障子
  兄さんの草笛に音重ねけり
  とんとんと風踏み郡上踊かな
  遠吠えに返すものなし春星忌

 ことさら結び付けようとは思わないが、左耳の聴力を失う、とあったので、改めて少し思いを馳せたのである。母上の山田弘子には生前一度だけお会いしたことがある。まさに急逝だったので、娘の山田佳乃には、俳句をやっていたとはいえ、覚悟無き主宰継承となったのではないかと推測、それなりの苦労があっただろうと思う。
 ともあれ、集中よりいくつかの句を以下に挙げておこう。
 
  下宿屋の煙草の跡も畳替
  触れ合へばすぐに壊れてしやぼん玉
  赤子みな救世主めくクリスマス
  春風や首で争ふフラミンゴ
  茶の花の包みきれざる黄を零す
     金丸座
  花道を朧にしたる紙吹雪
  睡蓮や手窪のやうに日を受けて
  咲き残るものに縋りて冬の蝶

山田佳乃(やまだ・よしの)、昭和40年大阪生まれ。



  

2018年2月12日月曜日

宮本佳世乃「ふくろふのまんなかに木の虛のある」(「オルガン」12号)・・・



「オルガン」第12号には、いつもながら興味深い記事が載っている。今号も外山一機と福田若之の対談、浅沼璞と柳本々々の往復書簡「字数の問題をめぐって(卷3)」、特集は、「田中惣一郎『一日泡影』を読む」や連句興行など・・。
 外山一機と福田若之の対談はとりあえず、現在の若い俳人がどのような意識で俳句に向かうとしているのかが、伺えて、実に面白いものだった。発言の微妙なニュアンスもあるので、興味ある方は、直接本誌に当たられるのがよいだろう。なかでは、福田若之の以下の発言にその真摯さが貴重なもののように思えた。

 とにかく、俳句表現史を経て獲得されるのは、結局のところ、他の誰かよりも新しいというような新しさでしかないけれど、そうじゃなくて、誰とも比べることができないがゆえに鮮しいという、そういうところに僕は行き続けたいと思うんです。 

 もっとも、始終挑発的に発言し続けているのは外山一機で、それに対して福田若之が誠実に答えるという印象だったが、それでも外山一幾の書く批評文の分かりづらいところの在処については幾分なりとも正直に発言していたように思う。気になった点といえば、しばしば「『鬣』の人たち」という物言いがでてくるのだが、一機自身が「鬣」同人なのではないか、と、つい突っ込みを入れたくなるのは、愚生がいくばくか歳を取り過ぎているせいなのだろうか。
 ともあれ、以下に宮本佳世乃の「祝・現代俳句新人賞」の歌仙「まんなかに」の卷(捌・浅沼璞)のオモテ六句、ウラ二句までを引用し、同人の一人一句を挙げておきたい。

     歌仙「まんなかに」の卷

   ふくろふのまんなかに木の虛のある   宮本佳世乃
    みみは奥までぬける凩        浅沼 璞
   風流の初いねがてなほうたひ      福田若之
    碑が文字かくもやはらか         鴇田智哉
   船べりに月さしひとり女の子      宮﨑莉々香
    港に親のふえる十月         田島健一
 ゥ
   トイレットペーパーすーつと晩秋へ   北野抜け芝
    ペリエの壜の指紋みつめて      大塚 凱  


  葉を偸む死にいちだんと綺麗な葉      田島健一
  旅客機のまるごと消えて冬のくれ      鴇田智哉
  鯨、可能性から解き放たれて青空      福田若之
  ブーツが汝が地下鉄に花束が我が      宮﨑莉々香
  一頭の吊るされてゐる空ッ風        宮本佳世乃 










2018年2月11日日曜日

北大路翼「キャバ嬢と見てゐるライバル店の火事」(『アウトロー俳句』)・・



 北大路翼編『新宿歌舞伎町俳句一家ー「屍派」-アウトロー俳句』(河出書房新社)、巻末の「謝辞」に、
  
  僕の考える「アウトロー」の定義も曖昧なものであるが、これだけは言える。アウトローとは、つらさ、苦しさ、愚かさ、哀しみ、怒り、妬み、嫉(そね)みなどをすべて受け入れてしまう寛容さだ。要は愚鈍で立ち回りが下手なだけなのかもしれないが、それを優しさだと僕は思いたい。つまり、不良は優しくなければいけないのだ。

とある。そして、本書は俳句の本らしく、一応、四季の章立てが施してあるが、さすがに「厳冬」「春寒」「炎天」「秋雨」と形容の春夏秋冬である。その各章の間に北大路翼のエッセイと秋澤玲央の写真がふんだんに挿みこまれている。また、各句には、短めのコメントが付され、句の読みを補足してくれている。

 (前略)そんな歌舞伎町のど真ん中。薄暗い路地の奥に「砂の城」というアートサロンがある。体重を乗せるたびに悲鳴をあげる古びた階段を三階まで上ると、八畳ほどのスペースがある。五人も座ればいっぱいになる穴倉のようなカウンターだ。
ここで僕らは新宿歌舞伎町俳句一家「屍(しかばね)派」を名乗り、句会を行っている。月一回の定例会以外にも、人が集まれば自然発生的に句会は開かれる。(中略)
 途中参加も、退席も自由だ。屋根裏部屋で膝を突き合わせながら、明け方まで俳句を詠んでいる。

という。愚生は一度だけ、その砂の城に登城させてもらったことがあるが、句は作らなかった。
ともあれ、本書よりいくつかの句を以下に挙げておこう。

  呼吸器と同じコンセントに聖樹(せいじゅ)    菊池洋勝
  目の前でされるピンハネ懐手(ふところで)    喪字男(もじお)
  もう会はぬ奴に鯛焼き買うてやる         才守(さいもり)
  駐車場雪に土下座の跡残る            咲良あぽろ
  口で泡作れる特技春を待つ              照子
  春愁(しゅんしゅう)や喪中葉書に御飯粒       龍翔(りゅうしょう) 
  鞦韆(しゅうせん)やこのまま消えてしまひさう    Peach(ぴーち)
     さきほどのバナナですがと電話来る        二階堂鬼無子(きなこ)
  カーネーション父が誰だか分からない       ゆなな子
  父の日の競艇場へ無料バス            津野利行
  でいいやと注文されるハイボール         木内龍
  片蔭(かたかげ)や一つくらいは俺のビル     天宮風牙(ふうが)
  全員サングラス全員初対面            西生ゆかり
  そぞろ寒(ざむ)捨てたエロ本もう一度      布羽渡(ふうど)
  わしらみなアンチ巨人や月尖(とが)      北大路翼


北大路翼(きたおおじ・つばさ) 1978年生まれ。新宿歌舞伎町俳句一家「屍派」家元。砂の城城主。




2018年2月10日土曜日

西東三鬼「葡萄あまししづかに友の死をいかる」(『西東三鬼全句集』)・・



『西東三鬼全句集』(KADOKAWA・ソフィア文庫・本体1240円)、解説は小林恭二。中で、

 三鬼を語る難しさは、彼が根からの演技者であった点にある。その演じぶりはきわめて堂に入っており。その作品や所行を編年順に漠然と追っていると、常に三鬼が変節しているように見える。しかしそれは達者の役者が悪役を演じると、「あなたがそんな人とは知りませんでした」という非難の手紙が届くのと同じで、当を得ていないことはなはだしい。(中略)
 そういう事情もあって本解説では、無謀を承知で、三鬼の全体像を語るというより、デビュー時についてのみ語ることにしたい。もし絞るのであれば、三鬼がもっとも光彩陸離としたこの時代をとりあげるのが筋であると思うからだ。

 と述べているが、愚生もまた、その時代の三鬼の作品を、あらためて読むと心躍るのである。
 本三鬼全句集がこれまでの全句集ともっとも違うのは、初句索引と季語索引を付していることである。もちろん、句の制作順、句の初出誌、句の異同を逐一あきらかに記した三橋敏雄編著の沖積舎版は、年譜を含めての緻密さでは、角川ソフィア文庫版を凌ぐけれど、廉価である本文庫は、学生や若い人達、また、年金暮しの老人にも手にすることが出来(愚生は図書館だが・・)、かつ手軽に句を味わえるという意味では実にありがたい一書である。
 また、その都度刊行された句集を底本にしているので、句の重複もあるが、拾遺の章では初出形も補っている部分、一部に、自句自解の章も付されている。
 ともあれ、いくつかの句を以下に挙げておきたい。

  水枕ガバリと寒い海がある       三鬼
  不眠症魚は遠い海にゐる
  白馬を少女瀆れて下りにけむ
  算術の少年しのび泣けり夏
  緑蔭に三人の老婆わらへりき
  ピアノ鳴りあなた聖なる冬木と日
  兵隊がゆくまつ黒い汽車に乗り
  湖畔亭にヘアピンこぼれ雷匂ふ
  訓練空襲しかし月夜の指を愛す
  寒燈の一つ一つよ国敗れ
  おそるべき君らの乳房夏来る
  中年や遠くみのれる夜の桃
  穀象の一匹だにも振り向かず
  みな大き袋を負へり雁渡る
  露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す
  赤き火事哄笑せしが今日黒し
  大寒や転びて双手(もとて)突く悲しさ
  限りなく降る雪何をもたらすや
  広島や卵食ふ時口ひらく

 西東三鬼(さいとう・さんき)、1900年5月15日~62年4月1日、岡山県苫田郡(現・津山市)生まれ。




            撮影・葛城綾呂↑

2018年2月9日金曜日

駒木根淳子「望月の天の穴めく死者生者」(「麟」第62号)・・・



 「麟」第62号(麟俳句会)の特集のひとつは、駒木根淳子句集『夜の森』。世評の高かった句集だから、評者もそれぞれにいいところを突いている。ブログタイトルにした中七「天の穴めく」句には、わずかながら、石牟礼道子「祈るべき天と思えど天の病む」の翳が窺える。ただ、今号の本誌で、愚生がより惹かれたのは【俳句貯金箱】飯野きよ子「野澤節子の『春あけぼの』」である。それは、「蘇生」という前書きのある野澤節子「あけぼのの春あけぼのの水の音」の句をめぐる渡良瀬吟行に思いをはせ、結びを次のように述べていて、気分をしんとさせる。

 節子は枯れきった芦にも同化し、原初的な自然との関わり合いの中に生き、また生かされていた。節子の〈春曙〉の句は〈水〉の持つ激しさや優しさを、静かに聞かす琴の音のようにも思えた。

〈春曙〉の句とは、

  春曙夢中の滝を見つづけて    節子

である。他には連載の野口明子「おいしいスケッチ」、今回は「寒天造る」であるが、こうしたエッセイにも「麟」は、清しい志を留めているように思える。
ともあれ、以下に本号より、一人一句を以下に挙げておきたい。

   しぐるると眺めしのちに濡れゆけり     山下知津子
   玄関は出て立つところ石蕗の花       飯野きよ子
   綿虫の影を持たざるまま暮るる       駒木根淳子
   戦へとあやふき地球冬の虹         野口明子
   王義之の書や山蟻に淡き影         染谷佳之子



           撮影・葛城綾呂↑
   

2018年2月8日木曜日

青倉人士「手錠が光っているだけの昭和だった」(「俳句人」第682号)・・・



「俳句人」第682号(2018年2月・新俳句人連盟)の特集は「青倉人士追悼」である。愚生はお会いしたことはないが、その略歴には、おおよそ、

  1927(昭和2)年4月12日、京都府福知山市生まれ。前号は月海。
  1949年7月、定員法に基づく国鉄の人員整理(レッドパージ)で職場を追われる。50年6月、京都の自由労働組合に入会。労組常任として生活保護を担当。俳句は、連盟横村庄一郎の紹介で連盟入会。50年10月、井沢唯夫と「京都俳句人」第5号の共同編集者となる。58年京都俳句作家協会の設立に協力。2014年より新俳句人連盟顧問。京都支部報「いき」発行人。「青い地球」「あまのがわ」「二弦」「未完現実」各同人。2002年~2005年口語俳句協会事務局長を務める。2017年10月24日逝去、享年90。

 とあった。
 追悼文は、伊藤哲英「青倉人士さん追悼 俳句に捧げた人生」、石川貞夫「非戦つらぬく一本の棒ー青倉人士顧問を偲ぶ」、鈴木映「青倉人士 追悼 有難う青倉さん」でいずれも熱い。以下にいくつかの句を挙げておきたい。

   うすっぺらい紙に印一つそして職場追われる    人士
   朝から影を踏んで俺の影が踏めない
   階段一つ一つおりる 母がここから落ちた
   高齢者という見捨てられた列に並んだ
   ごはんがこぼれた茶わんの大きさが見えない





 追悼繋がりと言っては実に失礼恐縮の極みだが、あと一人、是非、「追悼 平松彌榮子」(「小熊座」2018年2月号)を紹介したい。
 追悼文は、我妻民雄「霜葉は二月の花より紅なり」、増田陽一「平松彌榮子さんの『魂の木・転生と再生」。その我妻民雄の追悼文の末尾に、

  『雲の小舟』は第十五回の鬣俳句賞を受賞した。その推薦の辞に曰く「派手なパフォーマンスよりも、専一的な求心的な営為の継続を知らしめた句集」とある。世の中に具眼の士があって、霜葉に日が当った。 合掌

とあった。また、増田陽一は、

 何時も死と転生の匂がしたけれど、不思議に暗くない。彌榮子さんは笑顔も声もいつも朗らかで居られた。『足萎えも三年経たれば浮寝鳥』などと、こちらも微笑したくなる。

と記している。「馬酔木」で波郷と句座を同じくし、「鷹」で飯島晴子と競い並びたち、「小熊座」では鬼房・ムツオ両主宰の信頼あつく最後まで巻頭の定座を譲らなかった、という。

   百歳のわれを見てゐる朧の木      彌榮子
   ながらへてきのふのふゆるゆすらうめ
   黄砂降る肉体に肉ありもせず
   木犀日和雲の小舟は金の縁
   肋より光の漏れて冬の暮

平松彌榮子、享年90。



          撮影・葛城綾呂↑



2018年2月7日水曜日

中川智正「一会(いちえ)なく訃報ありけり麦の秋」(「ジャム・セッション」第12号)・・



 「ジャム・セッション」第12号(JAN.2018・非売品)は、年2回刊行の江里昭彦の個人誌である。ブログタイトルにした句には、「大道寺将司氏の病死に二句」の前書きがあり、「あとがき」に江里昭彦は、

 (前略)同一の建物内で暮らしながら、死刑囚同士を頑として接触させない当局の厳重管理により、二人は、北極と南極ほどの遠さに隔たっていた。「一会なく訃報ありけり」の嘆息が、ひえびえと滲みる。

と記している。前書の付された残りの一句は、

   虹ひとつ消えて我らの前の虹   智正

である。
 また、別のエッセイ「人生がうまくいかないということ」で、江里昭彦は、中公新書『世代の痛み』の上野千鶴子と雨宮処凛の対談を引用しながら、雨宮処凛の「わたしも95年の地下鉄サリン事件以降に、猛烈にオウムに入りたいとおもいました」という発言を「貴重な発言」と記し、

 サリン事件のころに雨宮さんが感じた「生きづらさ」に、いま、別の種類の生きづらさが重なり、加速し、現代の日本社会はますます険悪になってゆく。

と述べている。さらに本誌「あとがき」では、雨宮処凛の「国民年金も、掛金が払えないので入っていない人が多いし、正社員などの特権階級に属している人しか、老後を迎えられない」や上野千鶴子の「健康と収入の疫学的関係を調べると見事に相関しています。寿命と経済階層も相関関係にあります」という内容に対して、

 ここでは老後問題ではなく「老後ないかもしれない問題」が提起されている。同じ日本社会のなかで暮らしながら、団塊世代と団塊ジュニアとでは、見える光景がまったく違う。そこに気づかなかった。

とも述べている。じつはその団塊世代にだって老後破産がしのびよっている。愚生だって、実娘の家に転がり込んでいなければ、いまごろはそうなっていたかも知れない(家族共同体というセーフティネットにかろうじてひっ掛かっている有り様)。年金だけでは暮らせない、さりとて生活保護の対象にはならない、福祉の恩恵を受けるにはその水準をクリアーできない、限りなくボーダーライン上の生活なのだ。さすれば健康維持しかないのだが、老人ともなれば、皆が健康でいられるとは限らない。いわば安倍政権の一億総活躍時代の中味は、好むと好まざるとに関わらず、優雅な隠居生活は無理なので、死ぬまで働き続けろということらしい。
 本誌の他にも『高江が潰された日(写真と文)』(沖縄平和サポート)のコピーが同封されていたり、愚生には興味深いものばかりだった。深謝。そういえば15年ほど前、愚生が、まだ地域の合同労組の前線にいたころ、雨宮処凛に講演をお願いしたり、短い時間だったが、沖縄平和行進に参加した折に、オスプレイの配備される前の高江のヘリパッド建設反対、そして、辺野古の海にも座り込んだことを思い出した。今はと言えば無為に、たまに俳句を創って、シルバー人材センター(健康であれば80歳でもオーケー)の請負(労働基準法適用除外)先で、一億総活躍時代の一翼担わされて?いるのだ。これも人生ということだろう。
 ともあれ、同誌より以下に一人一句(一首)を・・・。

    なんにもない部屋に卵を置いてくる    樋口由紀子
      米国海軍元長官(第七十一代)リチャード・ダンジック氏と面会して
    長官の後は一気に冬将軍         中川智正
    骨壺やほねを拾えど歯は棄てて      江里昭彦
    終い湯にいつも来ている青年のまたたくましきいれずみに会う 浜田康敬
    わが猫背誰かに見られ冬田越す      小宮山遠
    菜種梅雨ダンボールより足二本      椎名陽子



            撮影・葛城綾呂↑



2018年2月6日火曜日

日野百草「狐火の赤か救急車の赤か」(『無中心』)・・



 日野百草第一句集『無中心』(第三書館)、愚生の懐かしくも、少し感懐のある出版社からの刊行だ。かつて30年ほど前に書店員だったころ懇意にしていた出版社だ。当時は
『マリファナ・ナウ』や『ザ・漱石』、ザ・〇〇、歳時記シリーズなどを出し、一等最初は『パルチザン伝説』桐山襲の海賊版?だったような・・・(ほぼ、忘却の彼方に沈んでいるが、間違っていたらゴメン)。
 話を句集本題に戻して、著者「あとがき」によると、

  心筋梗塞で死にかけて、心臓の半分が壊死した身となり、いつやもしれぬ今生を鑑みて、わずか句歴三年で句集を出すに到った。
 表題は河東碧梧桐の無中心論から頂戴しているが、彼の無中心に対する世間の長きに渡る誤解に対する辯駁として句集を編んだ。私自身の、これからの俳句の新たな無中心としての意味合いもある。これは至極単純な話であり、俳句に伝統だの、現代だのという垣根は存在しないということであり、テクストの中心も創作の段階では存在しないということである。
 旧来的な中心を、これからの俳人は持ってはならない。

とあり、威勢がいい。序文は「無中心の中の自己写生だ」と述べる星野高士、解説は「日の俳句力の核心にあるのは〈虚構の構成力〉」という秋尾敏、そして編集人には松田ひろむとある。少しく俳壇の事情を知る人にとっては、まことに無中心の幸運の産物というべきか。
 ともあれ、いくつかの句を以下に挙げておきたい。

   風光る中を歩いてゐたはずだ    百草
   難民の子が死ぬ蠅の王生まる
   ガマ深く薬莢を抱く大百足
   託児所のよく泣く児らと月を待つ
   武器もなく立たされてゐる案山子かな
   福祉課の窓口で蓑虫となる
   人を殴つ拳と麦を蒔く拳
   原子力空母と知らず浮寝鳥
   冬の雨国敗れても人生きる
   来る人も出る人もなく雪の寺
   雪しまく一本道の先は朝

日野百草(ひの・ひゃくそう)、1972年、千葉県野田市生まれ。







2018年2月5日月曜日

津田ひびき「言の葉にすれば消えさう春の雪」(『街騒』)・・



 津田ひびき第二句集『街騒』(ふらんす堂)、著者「あとがき」には、

 (前略)ともあれ、振り返ればやはりあっという間。暮らしにそれなりの変化はあったが、今日までどんな時も俳句と繋がってこられたのは幸せなことと思う。
 句歴が長くなった分だけ俳句が向上する訳もなく、むしろ落とし穴を感じることもしばしば・・・。
 これを機会にまた初心に戻り、謙虚に楽しく、自分らしさを少しでも表現出来れば幸いだ。
 
 とあり、なかなか健気である。集名『街騒』は行方克巳の抄出した10句選のうちの、

   街騒の猥雑にしてあたたかし      ひびき

からのものだとあるが、「街騒」の句は他にもある。

   秋惜しむ心斎橋の街騒に
  
帯文によると、「第一句集『玩具箱』/ふしだらといふ香水のあらまほし/から、さらなる新境地へ」なのだそうである。

ところで、装幀もいい(和兎)。
 ともあれ、いくつかの句を以下に挙げておこう。

   バス停にバス待つやうに春を待つ
   ちゆんちゆんと小鳥ちよんちよんと木の芽
   山笑ふリフトから尻こぼれさう
   林檎ひた捥ぐしあわせを捥ぐやうに
   缶ビールくしやくしや阪神タイガーズ惨敗す
   愁いつつ人は老いゆく春の暮
   春愁や鏡の我にあかんべえ
   秋風やひつかけ橋は無国籍

 津田ひびき(つだ・ひびき) 1942年生まれ。


2018年2月4日日曜日

二村吉光「地球儀を白紙で包み『春』と書く」(「山河」350号)・・



 「山河」350号(山河俳句会)は、創刊が1949年2月で初代代表は小倉綠村、その後、加藤あきと、松井国央と続き、一昨年、「豈」同人の山本敏倖に継承されたが、歴史のある俳誌である。40ページほどのさほど厚くない雑誌だが、様々な試みを継続して毎月行っている。その一つに「チャレンジ俳句」という、季題と言葉の課題の2つの縛りを入れて作句するコーナーがある。同誌のモットーに「常に、新・真・深へのチャレンジ精神を忘れず、一人一人の個性を尊重」とあった。その志やよし。
 愚生に、その選句と講評を数回依頼されたので、その一部を紹介しようと思う。因みに今回の課題は「白紙」で「季は新年」。

【天】 地球儀を白紙で包み「春」と書く            二村 吉光
 地球儀をまるごと白紙で包んで、おまけに「春」と書くなんぞは、皮肉が効いています。ガマンだ待ってろ、嵐が過ぎりゃ、帰る日も来る、春が来るってわけです。とはいえ、新年にかける願いにもチョッピリ切なさがありますねぇ。
【地】 元旦や白紙に天地うらおもて                   山県 總子
 天地どころか、白紙にもウラとオモテまであるってわけですから、めでたい元旦に、気の利いたしゃれで、諧謔精神おおありです。
【人】 新春の抱負は白紙雲流る                          山老 成子
 正直な方ですね。空を見上げりゃ雲も流れ、でも、ちょっと待ってくださいよ。抱負が白紙なのは、まだまだ何でもそこに描けるってことですから、ひょっとしたら、これから抱負を豊富に抱こうとしていらっしゃる姿が目に浮かびます。
(以下は講評を略します)
【秀】 一年を白紙につつみ札納                      難波 俊子
    臨の手で白紙に返す初昔                         山本 敏倖
    福餅のよこに白紙の寿(いのちなが)                          稲田 ゆり
    なにもかも白紙に戻し年新                      榎並 恵那
    独楽まわる白紙の先へ ゆっくりと      高梨よし子
    新年の白紙うるわし野良犬も                   石鎚 優
    去年今年来世は未だ白紙です                   小林 和子
    白紙切り(いぬ)の一家に初高座                        近藤 喜陽
   一年の計まだ白紙寝正月                              竹腰 素
    三日はや机上の白紙うごかずに                    中谷 耕子

【佳】 来し方を白紙にしたし卒寿明く                   佐川 けい
  人日の「おぎゃあ」と白紙委任状             新江 堯子
  白紙からスタートします今日の春     押見 淑子
  初明り机上に白紙委任状                              後藤 宣代
  去年今年予測予定は白紙です                    渡辺 芳子

          
          撮影・葛城綾呂↑