2017年4月24日月曜日

中村裕「地球にそら砂の軋みをからだぢゆう」(『石』)・・・・・


                                                         子息・中村虎州巳(こずみ)↑

昨日、4月23日(日)は、アルカディア市ヶ谷に於て「中村裕さんを送る会」が行われた。去る2月19日に膀胱がんのため、68歳で急逝。発起人は池田澄子、遠山陽子、永安浩美、世話人は寺澤一雄、村井康司、佐藤文香。案内に記された長男・中村虎州巳の「ごあいさつ」によると、

 父、中村裕は二年前に膀胱摘出手術を受けて以来、ガン治療に専念する毎日を送っておりました。昨年暮れから容態が急激に悪化し、残念ながら二月十句十九日に還らぬ人となりました。家族に見守られながrの安らかな死でした。これまでの父の俳句・文筆活動を応援してくださりありがとうございました。

とあった。折笠美秋と同じ北里病院に入院していたらしい。闘病中には遠山陽子・佐藤文香と三人句会もやっていたという。彼が亡くなる直前のある日、遠山陽子・佐藤文香が見舞ったのが最後になった、とのことだった。
 モニターには、彼が師事した三橋敏雄をめぐる会合のスナップ写真が流されていたが、山本紫黄、松崎豊、加藤郁乎、髙屋窓秋など鬼籍に入った方々も多くいた。愚生が中村裕と会ったのもたぶんその中の何かの会だったと思う。
 フリーランスのライターで編集者だった彼が、三橋敏雄に出合って(たぶん、三橋敏雄連載の「昭和俳句栞草」〈「太陽」〉)、俳句を書き始め、住居まで三橋敏雄の傍に転居したのは、髙柳重信宅の近所に引っ越して毎日のように訪ねた三橋敏雄の例にならったのかもしれない。
 愚生と同年齢だから、複雑な気持ちだ。彼が世田谷区のシルバー人材センターに登録して、俳句のカルチャー講座の講師をやると決まって、愚生にも、府中市のシルバー人材センターへの登録を勧めてくれたのは彼だった(もっとも、愚生は俳句講師ではなく、府中市グリーン・プラザ勤務だが)。その代わりというわけではないが、愚生がやっていたしんぶん「赤旗」2年間の俳句時評では、後を託すべく彼を推薦した。彼が最初の手術で入院したことを知ったのは、たまたま会った、その担当記者からだった。65歳を過ぎて、優雅に年金暮しというわけにもいかず、お互いの生活の心配をしていたようなものだ。
とはいえ、思い出すのは、『俳人合点帖』の石田波郷の章で、昭和18年の波郷のマニュフェストとでもいうべき「風切宣言」について、中村裕が

 (前略)「一、俳句の韻文精神徹底、一豊饒なる自然と剛直なる生活表現、一、時局社会が俳句に要求するものを高々と表出する事」。
 つまり「韻文精神」と時局社会が俳句に要求するものを高々と表出すること」は、同一平面上でしっかりつながっていたのである。波郷のいう韻文精神とそれを具体化するための切字の重視は、戦時体制下の国家社会の要請に沿うものであった。(中略)
波郷のとらえた境涯や「人間全体」は、戦争を内に含むものだったことになる。それが境涯や「人間全体」を抹殺するにもかかわらずである。石田波郷は、俳句という伝統文芸の危うさを、身をもって示したといえるのではないだろうか。

と述べたことである。只今現在、日米同盟下の半島をめぐる情勢に、いかなる戦争にも反対するという機運のかけらもないのは、平和ボケのせいか、まさか戦争にはなるまいという楽観からか。ふと、戦前の新興俳句弾圧直前もやはり、そうだったのではないかという思いがよぎるのである。 
ともあれ冥福を祈る。

中村裕(なかむら・ゆたか)1948年~2017年、北海道美唄生まれ。著書に『やつあたり俳句入門』(文春新書)、『疾走する俳句ー白泉句集を読む』『俳人合点帖』(ともに春陽堂)、共著に『ビジュアル・コミニュケーション』など多数。句集『石』(鞦韆堂)。




2017年4月22日土曜日

小町圭「金色に枯れたものから箱にしまおう」(『小町圭選集』)・・



『小町圭選集』(ふらんす堂・本体1800円)、仕様は現代俳句文庫と同様だが(本集の装丁は和兎)、エッセイ・論・主要句を収載した個人選集として、その作家の大方を知るには、格好のテキストになるだろう。
 解説の中で、「面白い俳句という地平を開いた」という前田吐実男の評について、村井和一は、

 小町圭の方法的実験を不毛とする向きもあるだろう。俳句がたえず正統であり続けることの退屈を作者は知ってしまったのだ。

と述べている。その「正統であり続ける退屈」とは、なんでもありの写生、とりわけ有季定型、花鳥諷詠の、いわゆる俳句の王道のことであろう。その王道からの逸脱をこそ前田吐実男は「面白い俳句という地平」と評したのだ。いずれにして、現代俳句という、現在的な俳句の世界においては、かなり難しい道行であることは疑い得ない。それでも、今後も小町圭はこだわって前に進もうとするにちがいない。
ともあれ、いくつかの句を以下に挙げておこう。

  苦瓜を食べてしまうましまうまし     圭
  雪女お尻にプラと書いてある
  みかん金色持って行きなと手に落ちぬ
  一億円金魚を作ろうと思う
  とりとめもなくあれはせきれい
  産声や降る雪よりも新しい
  汚れちまった八月を影干しに
  夕焼けや只今父は湯灌中
  呉れるなら母が欲しいと生御霊




2017年4月21日金曜日

北大路翼「滅びゆく日本の隅で金魚飼ふ」(『第七回田中裕明賞』)・・



 『第七回田中裕明賞』(ふらんす堂)は、第七回田中裕明賞決定までの選考委員会の経過と、受賞記念の神楽坂吟行、祝賀会の様子などをまとめた冊子(というよりも一冊の分厚い単行本という感じだが)である。候補作句集のいちいちの評価について、石田郷子・小川軽舟・岸本尚毅・四ッ谷龍の各選考委員が意見を交わしているのだが、四ッ谷龍のある種の激しさに(もちろん、作品の評価をめぐってだが)、他の選考委員は抗しきれないという感じがしないでもない。それだけ四ッ谷龍の田中裕明賞に対する熱意が半端じゃないということなのではないだろうか。とはいえ、今回の候補作をみると、たしかに北大路翼『天使の涎』が句集としては最右翼で相応しい、と思う。もっとも、『天使の涎』が他の俳句関係の協会賞を受賞するとは到底思えない。それだけでも田中裕明賞の価値が上がろうというものだ。ついでと言っては恐縮だが、本書冒頭の受賞作品『天使の涎』から32句が紹介されているが、意外に普通の作品ばかりが大人しく並んでいる(一句独立では弱いか?)。むしろ、選考委員の評議の中で語られた句の方が面白く、受賞作に相応しいインパクトがあるようだ。その意味では岸本尚毅が語っていた、受賞作なし、受賞作ありとすれば北大路翼という、田中裕明賞のもつ性格上の判断は妥当なのかもしれない。
ともあれ、以下に、授賞式当日の吟行句会から一人一句を挙げておこう。

  風鈴の音はじめから狂ひある     藤井あかり
  百日紅人通るたび昏くなる      山口蜜柑
  のぼり来し坂かへりみて空涼し    小川軽舟
  三伏の石階に湯を使ふ音       石田郷子
  カフェに浴衣楽しくなつてゐるらしき 岸本尚毅
  時計草ひらく普通のかくれんぼ    鴇田智哉
  着水は身を平らかに通し鴨      矢野玲奈
  鬼灯とわからぬように置いてある   北大路翼
  人体を象る椅子や蝿が附き      四ッ谷龍
  百日紅紙の音たてくづれけり     鎌田 俊
  首細き人のささやき風知草      森賀まり
  脈々と藤下闇の木肌かな       中町とおと



2017年4月20日木曜日

内藤明「皺くちやの拳を開きたらちねはキスチョコ一つわれに呉れたり」(「合歓」第76号より)・・



「合歓」は歌人・久々湊盈子の主宰誌で季刊。義父は新興俳句俳人の湊楊一郎。毎号のインタビューページが特徴でもある。今号は「内藤明さんに聞くー存在の奥にあるもの」。その最後に以下のように結んでいる。

内藤  「知」というものがここ十年二十年でがらりと変わりましたね。人工知能で偶然もデタラメもプログラミング出来るかもしれない。機械が人間を凌駕していく。その先にできることは何か。少しずれますが、空穂は生活実感をいい、武川忠一は人間をいいました。いかにも古めかしいのですが、今思えば、それぞれが時代の中でそれを脅かすものへの抵抗だったのだと思います。生活も人間も言葉も変わる部分と変わらない部分があるはずです。下手な歌を作り続けているわけですが、色々な意味で変わるものと変わらないもの、矛盾するものがともに成り立つ場として、短歌の可能性を信じたいとおもいますね。

インタビューの中から作品を孫引きすると、

 少し違ふ何かが違ふとおもひつつ宵の集ひの大方も過ぐ  内藤 明 
 身を賭して戦はざりし悔しみを哄笑の中に飼ひ慣らしゆく
 兵たりし日を語らざるちちのみの父の戦後の陰を追ひしか 

末尾になったが、今号の久々湊盈子作品から三首を以下に、

 なりかけの歌の言葉がひしめきて春の手帖は生臭きかな    盈子
 トランプのキングのくしゃみで日本が風邪ひきそうな早春寒波
 放射能汚染の有無をみるために飼わるる小鳥も交接の季



                撮影・葛城綾呂 カントウタンポポ↑
          


大場弌子「風に音水に香りや多佳子の忌」(『遠州灘』)・・



 大場弌子句集『遠州灘』(角川書店)、大場弌子(おおば・いちこ)、昭和10年、静岡県生まれ。集名は以下の句から、

   秋燕や遠州灘は母の海    弌子

跋文の黒﨑治夫は、次のように述べている。

 本句集は、「港」入会からの四年間の作品から成っている。『椎の花』から『遠州灘』までの十年間の余白がある。その余白部分にもう一人の弌子さんがいる。私は、近い将来に『大場弌子作品集』として、その余白の部分も含めて、全人格の投影された作品集を見せて頂きたいと思っている。

   涼風や俳誌「港」をふところに

一方、序文は大牧広。そこには、

 さて、大場弌子さんは、細川加賀が興した「初蝶」に拠って、俳句の道に進んだ。

と書かれ、また、

   加賀思ふ金木犀の香なりけり

 ふたたび触れるが、細川加賀という俳人は、ときに磊落、ときに繊細、そのような俳人であったと思う。(中略)
 作者は、あのかぐわしい金木犀の香を想うとき、同時に細川加賀を思う、と書いている。その純一性こそが作者を思わせるのだ。

とも記している。さすがに年齢を重ねた節目に詠んだ句には、作者の人となりが現れていよう。例えば、

  秋袷七十八とは腑に落ちぬ
  酔芙蓉八十歳とはこそばゆし
  八十のからだ大切年酒汲む
  水澄むやこれより先が晩年か

ともあれ、いくつかの句を以下に挙げておこう。

  海境(うなさか)に雲立ち上がる大暑かな
  卒業の先生の手の泣いてゐる
  片足を富士にかけたる冬の虹
  ときどきは杖となりたる日傘かな
  花の種撒いてゆゑなく溜息す
  美しく老いて行きたし酔芙蓉



  

2017年4月19日水曜日

田中裕明「大学も葵祭のきのふけふ」(『季語になった 京都千年の歳事』より)・・



井上弘美『季語になった 京都千年の歳事』(角川書店)。井上弘美(いのうえ・ひろみ)1953年京都生まれ。
愚生は京都に三年暮らしたことがある。19~21歳の頃、学生には住みよい街だったと思う。愚生はと言えば、最初に読んだ句集が虚子句集であり、最初に読んだ俳句入門書は中村草田男だったにもかかわらず、俳句形式において季語をどのように断念することが可能なのか(俳句形式が自立できるのか)、悩んでいた年頃のことだ。従って、若いゆえばかりとも言えなかっただろうが、本著に書かれた様々の情緒に興味を持てなかった頃だ。時代もそれどころではなかった(70年安保闘争)、まだ生きる事への混沌が続いていたのだ。高度経済成長直前、所得倍増計画に突き進む直前の頃だ。
四条河原町から祇園に至る、円山公園下・八坂神社付近の交差点はデモの解散地点に入る前のジグザグデモの最終地点だった。
時代祭、祇園祭はアルバイトで衣装を来て練り歩いた。五山の送り火には旅館で蒲団敷きのアルバイトをしていた。修学旅行シーズンには皿洗いのバイトもしていた。ようするに二部の学生だった愚生は、アルバイトに明け暮れていた訳である。もっとも長期間に渡ったアルバイトは大映撮影所でのエキストラに小道具係。そういえば「祇園祭」「人斬り」を撮っていた。三島由紀夫を見かけたのは、その「人斬り」のラッシュの時だった。勝新太郎は将棋が好きで、撮影合間によく差していた。馬に乗るシーンは大嫌いで、一発オーケーにするしかないようだった。みんなは少しの待ち時間にも麻雀など、さまざまな賭け事していた。入れ墨のある人たちも多く働いていた。かの柏木隆法著『千本組始末記』通りの世界だ。それでもすでに映画界は斜陽だったころだ。

   白朮火を傘に守りゆく時雨かな   大谷句佛

そういえば、白朮詣(おけらまいり)には、一度行ったことがある。まだ京都市内縦横に路面電車が走っていた。ごく普通にお参りできた。井上弘美が本著に記した、

十二月三十一日午前零時。一時間前から歩行者天国になった四条通を八坂神社に向かって歩いていくと、祇園一力あたりで前に進めなくなった。

というような事態もない頃のことだ。もう50年以上前になる。
井上弘美の除夜の句は、

    しんしんと闇積もりゆく除夜の鐘   弘美



2017年4月17日月曜日

久保純夫「褌が靡いていたる戦争よ」(『四照花亭日乗』)・・



 久保純夫第10句集『四照花亭日常』(儒艮の会)
久保純夫(くぼ・すみお)1949年、大阪府生まれ。1971年「花曜」入会、鈴木六林男に師事。本句集巻尾に記された略年譜をみるだけで、はるかに来つるものかな・・・感慨が生まれる。
久保純夫(当時は「純を」だった)に初めて会ったのは、京都のさとう野火宅だった。
愚生が終刊号のつもりで出した「立命俳句」第7号(1970年刊)を出した直後にわざわざ連絡をとってくれたのだった。その後、彼は「立命俳句」を引き継ぎ発行、さらに同人誌「獣園」をさとう野火を発行人にして立ち上げた。いわば。愚生が俳句同人誌に関わった最初だった。そして、すぐにも彼は第一句集『瑠璃薔薇館』を上梓、その後の第二句集『水渉記』、第三句集『聖樹』のそれぞれの版元である沖積舎、海風社とも愚生とは無縁ではない版元だった。そして1990年の評論集『スワンの不安』、第4句集『熊野集』(1993年)は愚生が務めていた弘栄堂書店を版元として出版された。また、その句集は彼の現代俳句協会賞受賞のきっかけともなった、想い出深いものだ。その受賞は、戦後生まれの俳人が久々に、それも40歳代で受賞する快挙だった。今回の冊子作りの第十句集も彼らしいといえば彼らしい出し方だと思った。「あとがき」にいう。

  この地に住むようになって10年。その歳月はいわば謐かなる激動の日日であったように想います。晴であれ、褻であれ、日常生活のなかにはさまざまな雑用が存在します。私はこの雑用のそれぞれを、自らの生きる姿勢として、智慧として、使命として、俳句を書いてきました。そのときどきを「儒艮」に発表してきたのです。
 ものは愛おしい。家の中で触る、目にする、使うものみなすべて。その想いからは、日本の、世界の、あらゆる状況が繋がっています。思想が生まれてくる刹那でありましょう。

幾つかの句を以下に、
   
     鈴木六林男先生の墓に参る
  瀧までの紅葉に染まり天香る
  片笑窪いつもさよならしておりぬ
  結婚はともに三度目青葡萄
  ひめみこのいずこに届く音叉かな
  半島(ペニンシュラ)を匕首という先師かな
  青春の罫紙に写す『火門集』
  たましいを喰い終わりたるなめくじら

『火門集』は阿部青鞋句集のことだろう。  
装丁は、夫人の久保彩。
末尾に句集の各章のタイトルとなった句から一句ずつを挙げておこう。
  
  野菜屑溜ればミネストローネかな    純夫
  形代やあなたもいっしょに波の下
  一斉にファスナーたちは馬鹿になり
  猫又と諍うている彩のこと
  酢橘風呂というはなけれど酢橘の湯
  ミニトマトアヌスコスモスエンプティ
  一株の水菜をくれし友の妻
  豆腐にもオリーブオイル丼に