2018年7月18日水曜日

田巻幸生「三日月の雫のような花が咲き 茗荷の香り古稀近き恋」(『生まれたての光』)・・



 田巻幸生エッセイ集『生まれたての光ー京都・法然院へ』(コールサック社)、心に沁みる解説は淺山泰美「うつくしい軌跡」、その結びに、

 三十歳までしか生きられないだろうと言われた幸生さんは、この三月、めでたく古希を迎えた。医師からは鬼籍だと言われたそうである。うつくしい奇跡はきっと、この先も続いてゆくに違いない。

とある。そうした病に加えて、著者の「三月九日ーあとがきにかえて」では、

 ニ〇一一年、高校の司書を退職した年に死と対峙する手術を二度した。やっと起き上がれた翌年、八千代市のエッセイの会と、ふるさと、京都に本部があるという理由だけで短歌結社「塔」に入会した。この六年間に書き溜めた文、短歌、写真をと欲張った本になった。

と記されている。本書には、エッセイの最初に著者の短歌が多く添えられており、ブログタイトルに挙げた歌には、以下のエッセイが続く。

(前略)法然院。谷崎潤一郎の墓がある寺で有名だが、潤一郎の墓のすぐ近くに、歌人で実業家の川田順の墓がある。(中略)妻を亡くされ六十三歳の時に、短歌の弟子として鈴鹿俊子と出逢う。彼女は京都帝国大教授夫人で三十六歳。三人の子供の母であった。姦通罪がある時代、若い俊子の情熱に押されて二人で出奔。当時、皇太子の短歌指導者であり、三大新聞歌壇の選者でもあったので「老いらくの恋」と新聞に書き立てられる。彼は恋を終わらようと自殺を計る。それも法然院の妻の墓に頭を打ち付けたそうだが、友達が駈けつけて未遂に終わる。俊子の離婚が成立し、一九四九年、順、六十八歳、俊子、四十一歳。京都を離れ子供を連れて結婚生活に入る。

 愚生は、18歳から3年間、京都は百万遍の学生寮で暮らしたことがある。法然院には、散歩がてら、よく行った(当時は、哲学の道も整備されておらず、拝観料もなく、訪れる人も少なかった)。雪の降る日、その雪景色も素晴らしかったが、谷崎潤一郎の墓(確か「寂」の文字が刻まれていた)の前で、夫人の谷崎松子に偶然お会いした。お供の人が一人おられたが、愚生は、偶然にその墓前にいたにすぎないのだが、お参り有難うございます、と挨拶されたのをよく覚えている。四季折々、紅葉も格別だった。もう50年も前の話だ。ともあれ、本書中よりいくつかの歌を挙げておこう。

  ふるさとのおけら火廻す初夢の八坂神社の父母若し      幸生
  路地路地に虹の切れはし確かめて府庁前にて虹に追いつく
  歳月が葡萄のように熟れてゆくつかめぬ風を追いかけるうち
  朝七時「生きてるぞコール」の九年半父の電話は二月に途絶え
  ハイハイからバイバイまでの人生を忘れたふりして花殻を摘む
  公演のベンチはどれも剥げたまま雲の数だけ影がうごめく(コニーアイランド)
  岩々より湧き上がりたる風の音は三億年まえの海のさざ波(ラスベガス)

田巻幸生(たまき・さちお)、1948年、京都市生まれ。


2018年7月17日火曜日

佐山哲郎「果てしなき欲望を観る祖父とゐて入谷金美館便所臭いよ」(「塵風」第7号)・・



「塵風」第7号(塵風句会編集部発行、発売・西田書店)の特集は「映画館」、インタビューは、「ハビイ氏が語る 新宿昭和館の日常」。ブログタイトルに挙げた佐山哲郎の一首には、以下の前書がある。

 祖父は好きだった(と思う)。上野あたりの娘義太夫にも通っていたが、それが下火になったのか、小学生の私を出汁にして入谷金美館に私を連れていった。演者はなんと今村昌平の果てしなき欲望。青年長門裕之を誘惑する渡辺美佐子の色気に目を瞠った。

  果てしなき欲望を観る祖父とゐて入谷金美館便所臭いよ

 写真やイラストもふんだんなので、愚生のようなあまり映画館に通ったことのない者にも楽しめる。といはえ、愚生にも思い出がないわけではない。二十歳代なかば、下は店舗になっている三鷹駅前の団地に住んでいたころのことだ。ごく近くにあった三鷹オスカー?に仕事の休みの平日に暇つぶしに幾度か入った記憶があるが、見た映画は覚えていない。もう一つは、飯田橋は佳作座での解雇撤回闘争をしていた争議団の支援の、抗議申し入れ行動でけっこう行った記憶だけがある。遠い昔の話だ。
 本特集の記事の多くに共感させられたが、とりわけ、久保隆「『映画』をめぐる共同性の場所」に、

 歌舞伎というものは、わたしは観劇したことはないが、芝居の中で役者の通称名が客席から発せられるようだが、むろん、当時の文芸坐や昭和館の観客たちは、誰も歌舞伎座を観劇したことはない、といい切っていいと思う。例え清順映画に、歌舞伎的様式美があったとしてもだ。

というあたりの、挑発的なものいいには、思わず納得させられた。愚生もそうだったからにすぎないが・・・。ともあれ、以下に同号よりの一人一句を挙げておきたい。

  歌舞伎町一丁目一番地嫁が君        啞々砂
  あやとりのこの娘飽かずや花の雲      亞羅多
  中横と躑躅閉じつつ常世かな       井口吾郎
  三月の対話がうまくいかぬチェロ     井口 栞
  階段をヌードの降りる春の暮        伊 豫
  息白しラインダンスの端のひと      笠井亞子
  明日死ぬよと九官鳥は言わず       かまちん
  風飼いのかいやぐらから薄狼煙       ことり
  凍て窓を開け放ちたる幸福論        虎 助
  うらゝけし掃除当番だろお前       小林苑を
  余生とは期日なきもの初硯        小林暢夫
  「また独りごと言ってるし」言ってるし 近藤十四郎
  父の日のぼんやりかかる月の暈      斉田 仁
  みながみなみなしでいへばみなしぐり   佐山哲郎
  擦れ違うマスクの女みなふたえ       子 青
  春の夜の廊下が濡れてゐて怖い       月 犬
  白髪の息子がつくる蕪汁          貞 華
  春先の志村坂上女子多し          東 人
  ハクモクレン夜が余白へ流れ込む     長谷川裕
  木が切られ寒く晴れ             温
  革命の話枝豆尽くるまで          風 牙
  沙羅の花咲くここにをりいちにちをり    振り子
  アフリカやオクラを切れば星がある      槇
  啄木の酸ゆきサラドよ初夏よ       皆川 燈
  睡蓮の家まづ描いて街の地図       村田 篠
  病棟にマグロ解体ショーのデマ       喪字男
  吹かれてはたんぽぽたんぽぽから自由  山中さゆり
  いつまでとこの湯たんぽに問うている    由紀子
  新居者の鍵かけて出る春のをと       ラジオ



2018年7月15日日曜日

河内静魚「風船の不安なかるさ持たさるる」(『夏夕日』)・・

 


 河内静魚第6句集『夏夕日』(文學の森)、集名の由来は巻頭の句、

   美しきところへ涼む夏夕日    静魚

そして、「あとがき」には、

 句集名の「夏夕日」は、そんな都心のぶらつきの中から浮かび上がった。夏夕日の色彩の氾濫は、自由で気ままな身に、こよなき観想の場を提供してくれた。不思議なのだが、季語もいきいきと呼吸する。はるかなる憧れの海原、山野、京都、淡海が、目の前に浮かび上がる。そして、過ごしてきた月日を忘れメルヘンに遊び、少年の頃に戻ったりもした。都心の夕日の光と影が、幻のようにそのような四季の自然を呼び寄せてくれたのである。

と記している。河内静魚は自宅(港区白金)が再開発によって、新しい住まいができるまでの5年間を文京区千駄木に住むことになったのだという。いわば、都会の真ん中で幻視の旅を句の世界にしているのだ。
 ともあれ、いくつかの句を以下に挙げておこう。

  流さるることをしづかに秋の雲   
  海見えてすこし揺れたり発電車
  鶯餅の尻だか腹だかよく伸びる
  羅や鏡がはりの他人の顔
  来る水と去る水秋の川とんぼ
  次の波あひだを置かず寒かりし
  見えてこそ淡海はよけれ初諸子
  春二番その頃よりのものおもひ
  紙折りて夜の深さよ素逝の忌

河内静魚(かわうち・せいぎょ)、1950年、石巻市生まれ。
月刊「俳句界」(文學の森)7月号より、編集長に就任。



2018年7月14日土曜日

小中英之「風立てば風を朋とす含羞の花うすくれなゐの国籍知らず」(『ユーカラ邂逅』)より・・



 天草李紅『ユーカラ邂逅ーアイヌ文学と歌人小中英之の世界』(新評論)、愚生はといえば、副題に記された「アイヌ文学と歌人小中英之」に、愚生の若き日、小中英之歌集『わがからんどりえ』を手にして以来の、その歌のいくつかを思い出すためのよすがであって、それにまつわるもろもろに興味があったのだけれど、それだけではない著者・天草李紅のアイヌ文学に向けられた眼差しに深く射られたのである。その第Ⅱ章の「途絶の足音 佐々木昌雄ノート」の最期に記されたことが、本著の内容をよく言い当てているように思えるので、以下に引用する。

(前略)本書でとりあげてきた違星北斗(いほしほくと)もバチラー八重子も森竹市(もりたけたけいち)(本書一九三頁4参照)も鳩沢佐美夫も、北海道の文献にはかならず出てくるのに、日本の文学史に掲載されないのは、かれらがアイヌの文脈のなかでしか語られていないことを意味する。知里幸恵(ちりゆきえ)の『アイヌ神謡集』(本書一六一・二〇六頁参照)の日本語訳が「翻訳自体の美しさ」において賞讃されたりすることと、それは軌を一にしていると佐々木は言う(「鳩沢佐美雄の内景」『コタンに死す 鳩沢佐美雄作品集』新人物往来社)。つまり文学作品の評価においても日本のあり方が問われているのであって、佐々木の評論は、これまでアイヌの文脈でしか語られなかったものを、日本の問題としてとらえなおすという意味をもつよく担っていたはずである。 

 そして、「まえがき」には、

 小中英之の透明な短歌の向こうには、アイヌの自然が息づいている。
 かれがアイヌゆかりの北海道平取(ぴらとり)の地に暮らしたのは、少年時代の一時期だが、その出会いはけっして行きづりのものではなく、そこから出発し、またそこへ戻ってくる、そういう性質をもった宿命的な場所のように感じられた。(中略)
 そういうものを、小中は「約束」という名で呼んだように記憶する。小中英之にとって、そこは最後の希望の砦だったのではないだろうか。
 
と述べられている。また、巻末には、当時の状況を知るてだてにと「本書関係年表」が「近代アイヌ文学の流れ」「近代短歌の流れ/小中英之年譜(太字)」「参考事項」として示されいる。その年表によると、『わがからんどりえ』(角川書店)は1979年に上梓されている。愚生が、吉祥寺駅ビルの弘栄堂書店に勤務していた頃だ。その前年には小池光『バルサの翼』、さらに前年は永田和宏『メビウスの地平』や同時代には福島泰樹、河野裕子、佐佐木幸綱など、愚生が興味をもった短歌集が目白押しだった時代でもある。
 ともあれ、本書のなかよりいくつかの歌を以下に挙げておこう。

  蛍田てふ駅に降りたち一分の間(かん)にみたざる虹とあひたり  英之
  はなやぐにあらねど秋のまぼろしを魚ら光りてしきり過ぎたり
  月射せばすすきみみづく光りほほゑみのみとなりゆく世界
  小海線左右(さう)の残雪ここすぎてふたたび逢ふはわが死者ならむ
  中生代白亜紀ふみてたまきはる蜂起にかけし死はも反るべし
  ハヨピラの丘に雪降れまむかえどすでに神(カムイ)の顕ちがたくして
  少年の日におぼえたるユーカラのひとふし剛(つよ)き救ひなりけり

天草李紅(あまくさ・きこう) 1950年生まれ。



2018年7月13日金曜日

東徳門百合子「父母に焚く紙銭の嵩や秋彼岸」(「澤」7月号より)・・



「澤」7月号の特集は「俳句とアニミズム」である。執筆陣は坂口昌弘「日本文学を貫通するものはアニミズムなり」、高橋和志「松本たかしと能」、上田信治「波多野爽波ー原始彫刻と怪人の笑い」、関悦史「死と変容の充足ー永田耕衣のアニミズム」、柳元佑太「田中裕明ー言葉に棲むアニマと遊ぶ」、田中亜美「少年・狼・東国抄ー金子兜太のアニミズムをめぐって」、望月とし江「アニミズムと擬人化」の錚錚たるメンバーの他に、「澤」同人の方々の「俳句と一句鑑賞」などが誌面を飾っているが、もっとも面白く読めたのは、対談という気楽さもあろうが、中沢新一VS小澤實「相即相入の世界ーアニミズム俳句を読む」であった。読みどころ満載なので、興味のある方は、本誌を手にとってもらうのが一番だとおもう。が、対談のなかでごく一部だが、以下に引用する。

 中沢 (前略)長々と話をしましたが、芭蕉の時代、元禄期のいろいろなものを見て行くときには、今の常識で見てはいけないということが非常に重要です。〈伊勢〉と言ったら、今は皇室の重要な場所で国家神道の中心だと思いますが、芭蕉はそうは思ってないですからね。第一、国家のことは考えていない。徳川さまの世という風には思っていたでしょうけれど。そういう時代に芭蕉の句を解釈するときにはタイムトリップするべきです。伊勢と聞いたら「ふふっ」と思わなくてはいけないし(笑)蓬来と聞いたら、「ああ、こういう形ね」(笑)って思わないといけないのではないでしょうか。それが、アニミズムというものだと思うのです。(中略)
小澤 正岡子規以降が本当の俳句で、それ以前のものは別世界のものだという考え方の人もいます。貧しいことだと思いますね。
中沢 それは明治以降の神道を見て、あれが本当の神道だと思っているようなものです。で、はだか祭りなどを見ると、こんなのは神道じゃないなどと言うのでしょう。ところが、どっこい、逆なんだよね。

 ところで、ブログタイトルにあげた東徳門百合子(ひがしとくじょう・ゆりこ)の「父母に焚く」の句は、東徳門百合子が「第5回澤叢林賞」を受賞しているうちの一句である。それにしても東徳門を「ひがしとくじょう」とは、まず沖縄の人以外には読めないと思うが、彼女は沖縄出身である。数年前に、ある処で、その昔、愚生が少しだけ関わっていた労働争議の当該者だったことを知ったのだった。まさか俳句などという夏炉冬扇の器をたしなんでいるとはつゆ思わなかった。お祝いの意味をこめて、受賞作のなかから、いくつかの句を以下に挙げておこう。

   騎馬戦のわれは馬なり太り肉     百合子
   秩父祭男衆(おとこし)の化粧濃し
   総務部へ妊娠届出す小春
   死ぬ父に母が接吻夜の梅
   椅子の脚つかみ立つ嬰桃の花
   
 また、同号の「同人二〇一七年の一句」から、愚生のちょこっと知り合いのよしみの方の句を挙げさせていただく。

   硬貨入れ灼けし遊具に跨りぬ        相子智恵
   葉桜や鋲に閉ぢたる検死創         池田瑠那
   ネアンデルタール以来なる鬱冬籠      小澤 實
   まないたに豚カツ切るや花の昼       押野 裕
   奔馬性結核の友白きシャツ         梶等太郎
   別れるまへの変顔やめよ冬紅葉       榮 猿丸
   全焼す木造一部二階建           林 雅樹
   ジェットコースターに叫び流行風邪治す   東徳門百合子
   うち揚げられし魚(うお)へ夏蝶とめどなし 堀田季何
   心臓スカラベ付き胸飾(ベクトラム)青冷ゆる  望月とし江



2018年7月11日水曜日

大関靖博「貝塚に貝累々と敗戦忌」(『大楽』)・・



 大関靖博第6句集『大楽』(ふらんす堂)、「あとがき」には、

 私の物事に対する姿勢は真実に大変こだわりを持つものである。この原点は八歳の時に遡る。八歳の時に結核になり二ヶ月学校を休んだ。六十年前の結核は死の病として恐れられていた。その時、担任の先生と保健の先生の同席のもとで放課後病気の説明を受けた。今でいえばインフォームド・コンセントにあたるであろう。それまでの世俗的人生観が吹きとび人生は無と観ずるようになった。その時読んだ佛陀の伝記の影響だったかも知れない。その後十八歳で華厳経という経典に格別の関心を抱くようになった。今日迄何回か生死のはざまをさまようことがあったがいまに至るまでこの考えは深まるばかりで全く変りがない。

 とあって、生における諦念を早々と迎えてしまったか。それでも前向きな姿勢は、

 今回のタイトルの「大楽(だいらく」は〈人生大いに楽しむ〉と読むことも可能である。

とも記し、その心境を披歴している。また、芭蕉「奥の細道」を引き合いに出しながら、

 芭蕉は日光の養源院にゆき、そこから別当寺の大楽(たいらく)院に案内され、狩野探幽の子の探信が訪問していたためしばらく待たされてから東照宮を拝観したようだ。それから黒羽の大関家の家老の家にしばらく滞在したのち白河の関を超えたのである。

 と記している。たぶん、本句集は大関靖博古希の自祝の意もあろう。愚生の好みに偏するが、いくつかの句を以下に挙げておきたい。

   春耕はむかし都の大地かな      靖博
   二三本花も摘みけり草摘めり     
   今漉けば櫻紙なり花筏
   英語屋に徹する我や漱石忌
     水元公園
   菊枝さん今年も菖蒲咲きました
   麦秋や水辺に空のはみだして
   佛壇に父母の西瓜を二個供ふ
   小鳥来る青い鳥ではなけれども
   侘助の落花の数を掃きにけり
   白木蓮に人生の今白紙かな
   
大関靖博(おおぜき・やすひろ)1948年、千葉県生まれ。


2018年7月10日火曜日

田中淑恵「はるかに遠い天の書斎で/退屈な天使の頁を切る音」(『若三日月は耳朶のほころび』)・・



 田中淑恵詩集『若三日月は耳朶のほころび』(東京四季出版・限定500部)、装幀家、豆本作家でもある田中淑恵の第二詩集である。もちろん装幀は著者自装による瀟洒な出来栄え。加えて、カバー、帯、表紙、見返し、扉、本文、花布、栞紐それぞれに使用された紙や布のデータも奥付前に記されている。
 帯の惹句は皆川明〈ミナベルホネンデザイナー)、それには、

 宙に産み放たれた言葉は/ほんの僅かな光と共に/囀り、愛しみ、渇き、熟れ、往来し、潜った。
 それは朽ちることなく/生命を育み/絶望と希望の鼓動を/記憶に刻み続けるだろう。/振子のように。

と記されている。また、著者「あとがき」には、

(全略)しかし、「絶望のなかの希望」が生涯の自分のテーマだったし、それがあったから、どのような苦難も乗り越えられた。存在のかなしみは存在のよろこびと裏表なのだ。絶望のなかにも、あやまたず胚芽のような幽かな希望が内包されると信じる。

 そうなのだ。人はたった1%の希望でもあれば、それは100%の希望に転化するのだ。そうして絶望を希望に転化させながら生きてゆくことができる。愚生の勝手な読みでいうのだが、制作年一覧によるともっとも最初の詩は1989年の「白鷺」である。言葉の持っている緊密感は、収録された詩篇の中では、もっとも高いように思えた。ただ、最近、昨年、一昨年あたりの詩がもっとも多く収載されているのだが、それはそれで、安定感の増した言葉たちが置かれれいる。実際に手に取って読まれるのがよいだろう。ここでは、スペースの都合もあるので短い詩篇を一篇のみ挙げさせていただこう。

         古書街の五月

 古書街の五月
 カスタニエンの花の下は
 開封された小指の嘆きに満ちている

 花の蕊々(しべしべ)がふりそそぎ
 古い時の記憶があふれはじめて
 ふいの落涙のように
 舗道の敷石にはらはらとこぼれる
 
 風のひとすじを引き抜いて
 あふれやまない指先を
 こぼれぬうちに封印する

 記憶の使者である
 わが指先を愛しみながら

 田中淑恵(たなか・よしえ)東京生まれ。