2019年1月16日水曜日

大本義幸「くれるなら木沓がほしい水平線」((北の句会報別冊「大本義幸追悼資料」より)・・・



「木靴(きぐつ)」(「北の句会報別冊・大本義幸追悼資料)、これをまとめたのは丸山巧で、「北の句会 報告」の冊子と同じく丸山巧の手作りである。内容は、2003(平成15)年12月7日句会(句会報では6号)から、昨年5月30日句会(92号)までの全投句115句を収載(これ以外に前身の「豈関西句会」、冊子に載っていない「北の句会」については堀本吟が追加調査中)。また、平成20年の句集『硝子器に春の影みち』(沖積舎)の出版を記念して、北の句会全員から、句集からの70句選と、それによって北の句会が選んだ「大本義幸句ベスト」の再録が収録されている。その結果、最高点10点を獲得した句は、

   くらがりへ少年流すあけぼの列車 《第一章「非(あらず)」》10点
 
であり、以下、
   
   初夢や象がでてゆく針の穴       8点
   わたくしがやんばるくいな土星に輪   7点
   硝子器に風は充ちてよこの国に死なむ  6点
   密漁船待つ親子 海光瞳を射る朝     〃
   匙なめて少年の日をくもらせる      

 と続いている。これらの句と、「BLOG 俳句新空間」(第105号・1月11日)の筑紫磐井篇・大本義幸追悼特集「大本義幸 俳句新空間 全句集」約170句収録を加えれば、『硝子器に春の影みち』(平成20年刊)以後の「豈」誌以外に記録された句のほとんどすべてを見渡すことができる貴重な資料となるだろう。
 同封されてきた「北の句会 報告」(2018年9月 秋分号)には、3月定例句会(2018年3月18日・大阪市福島区民センター)大本義幸の欠席選句コメントが載っている。以下に再録しておこう。

 風船を何処までも老ひ風となる   中山登美子
  発想の類似句はありそうだが、「風となる」の遠近法がいい。
 風船を配る税務署春浅し       岡村知昭
  リアル、今頃の景。
 いつまでもある鉄橋下の赤風船    島 一木
  少年の思い出のように忘れられない赤い風船
 血がうすくにじんでいたり薄氷   谷川すみれ
  見たくもない光景だが、そんなこともあるのかと。
 ふらがなになってひさしい嚏かな  岩田多佳子
  漢字で、くしゃみをする人もいないと思うが、作家が老いて。

 因みに、この号は、野口裕句集『のほほんと』の出版祝賀会(8月26日、於:カルメン)が行われ、出席者それぞれによる句集『のほほんと』の10句選を持ち寄り、充実した会の様子も記されいた。
 ともあれ、追悼資料『木沓』より、いくつかの句を以下に記しておこう(攝津幸彦に関する句はすべて)。
 
  幸彦忌鹿のみむれて哀しけれ         (6号)
  黄砂は黄泉(よみ)でおこった津波だろうか  (7号)
  桃の花つよく匂う夜に腐乱死体の弟といるわが生家 (8号)
  マフラーを頂きまする幸彦の         (15号)
  コスモスはかたかなで書くさようなら     (16号)
  薄氷(うすらい)のなか眼をひらくのは蝶だ  【折句「うめだ」】
  ゆめをみている獺である朝桜         (20号)
  朽葉(わくらば)の墜ちるはやさのわがいのち (23号)
  海をてらす雷(らい)よくるしめ少年はいつもそう (25号)
  薄氷(うすらい)を踏んでいたると鳥翔てり  (26号)
  銀河ありもんごろいどの青痣あり       (31号)
  硝子器に春の影さすような人         (32号)
  形代の鼓動のはじめいなびかり        (34号)
  ふらここのゆりやみしかば死人充つ      (42号)
  ギーと漕ぐ自転車の思想で冬を越し      (48号)
  ぼうたんは異界のにおい濡れており      (51号)
  片影を昼とおもいぬ幸彦も          (59号)
  雨の消印であるかけさの白鳥(しらとり)は  (61号)
  しはしろくてぷよぷよゆきよふれ       (62号)
  死にきれず飽かずみているいぬふぐり     (66号)
  大根は輪切りに死は平手打ち         (67号)
  わっせわせ肋(あばら)よ踊れ肺癌だ     (68号)
  たんぽぽが死にたいと云う夕暮れだ      (69号)
  天上に渦この硝子器に塩軋み         (71号)
  その先に死が見えるかも検査する       (76号)
  凡庸に生きて六度の癌を賜る         (77号) 
  貧困のブレないかたち黄砂来る        (79号)
  螢来よ水の象(かたち)に眠る姉       (80号)
  癌はこわいよ幸彦、巨泉既になし       (82号)
  わが声は喃語以下なりこの冬は        (84号)
  又の世は豆腐になって生まれたし       (88号)
  わが死後も晴れていつかと聞く天気      (89号)
  死を運んで紙風船がやってくる        (91号)
  われわれは我ではないぞ烏瓜         (92号)




 思えば大本義幸は、この浮薄にみえる現在只今を、そうばかりではないぞと全霊で詠んいた、現代版境涯俳句とでも言える句句であった。 

 大本義幸(おおもと・よしゆき)1945年5月11日~2018年10月18日。享年73.愛媛県西宇和郡伊方町に生まれる。愛媛県立川之石高校文芸部一年上に坪内稔典がいた。その坪内稔典とともに「日時計」「黄金海岸」同人で、「現代俳句」(ぬ書房)創刊に尽力した。  


             撮影・葛城綾呂 ↑

2019年1月15日火曜日

樋口由紀子「コンテナがもれなくついてくる情緒」(「晴」第2号)・・



 「晴」第2号(編集発行人・樋口由紀子)、前号の作品評を山田耕司「見上げれば、空は〈晴〉」が書いている。前号の樋口由紀子「冷凍庫に蛸の頭を補充する」「綿菓子の必要以上に巻く事情」の句をあげて、

  (前略)さて、これらの作品は、自らに果たしているさまざまなシバリの果ての結果であることも忘れてはならない。ひょっとしたら、樋口由紀子は、川柳を書く行為を楽しんではならない、と自らを戒めているのかもしれない。あるいは、「ああ、あるある」という他者との共感の回路をあえて塞ごうとしているのかもしれない。
 ともあれ、マッス(大衆)がなだれこむ意味回路から距離を置き、シバリを個人単位において課してゆくことは、川柳という形式の内部を安易にまとめて飲み込まず、むしろ、常に革新させていこうとする姿勢の現れであるのかもしれない。

 と記している。この川柳、大衆については、無縁とは思えない月波与生が「いま『現代川柳論』を考える/分断される川柳、接続する川柳」と題して論を展開している。それは斎藤大雄「現代大衆川柳論」について批評しているのが、その結びの部分に、

 『現代大衆川柳論』は、「わかる川柳、わからない川柳」に分断してしまい「わかる川柳が現代大衆川柳である」としたところに、最初の躓きがあった。それを当事者目線ではなく神の目線のような上位から論じたところに次の躓きがあった。
 川柳を分断していくのではなく、この時代を共に生きる者同士が接続するためのツール、つながっていくための方法として川柳を書く、川柳を読む。そのことを意識的に進めていくことが現代大衆川柳のはじめの一歩になるのではないかと考えている。

 と、これも誠実に記されているのであるが、門外漢の愚生としては、どうもよく理解できないところがある。「大衆川柳」の「大衆とは何か」という規定のないままのせいか、「大衆」のイメージの違いが見えてこないウラミを残しているのではなかろうか。たしかに「わかる川柳が大衆川柳である」という言い方も相当に乱暴な言い方でもあるが・・。 ともあれ、以下に同誌より一人一句を挙げておきたい。

   おぼれてもおぼれなくても海である   松永千秋
   報知器が鳴らぬ善人から燃やす     月波与生
   うんちくで磨かれている五七五     水本石華
   国境にやっと天つゆゆきわたる    樋口由紀子
   厄介をかけますお豆腐の角へ     きゅういち
   助っ人の助っ人になる木が折れて   広瀬ちえみ



2019年1月14日月曜日

佐々木鳳石「お鑑も小さく戦火の新春祝ふ」(「川柳で知る戦争とくらし」1より)・・



 田村義彦「川柳で知る 戦争とくらし」(東京新聞夕刊・連載)、その第1回目に、

 七十年以上前、この国は戦争をしていました。米英中心の連合軍と。で、勝った勝った万歳は緒戦のころだけで、やがて連日連夜の空襲に逃げ惑う日々が続きました。
 その爆弾が雨のごとく降る中、発行し続けた川柳誌があった。現在も刊行中の「川柳きやり」と「番傘」。リアルタイムの戦時下の世相と庶民の思いが凝縮された句は戦乱の中の究極のショートショートだ。本当のことは言えない言論統制下で、工夫の表現で庶民が伝える戦争の実相。

 と書かれ、川柳作品が掲載され、現在連載は6回目まで来ている。俳句と同じ五・七・五の形式をもっているためか、愚生にも興味がある。戦前、新興俳句運動は昭和十五年の、いわゆる新興俳句弾圧事件によって、壊滅し、そこに馳せ参じた多くの若き俳人たちは沈黙し、獄に繋がれたものは病死した俳人もいた。しかし、新興俳句が弾圧を受ける前に、さらに、三年も早く昭和十二年に弾圧されたのが新興川柳だった。

  手と足をもいだ丸太にしてかへし   鶴 彬
  屍のゐないニュース映画で勇ましい

 は、昭和12年、治安維持法違反で再び逮捕された鶴彬は、翌年13年に獄中死する。享年29だった。俳句にも自由律俳句の山頭火に、似た発想のものがある。

    傷戦兵士
  足は手は支那に残してふたたび日本に 種田山頭火

 山頭火は放浪の俳人として名高いが、関東大震災直後、東京に舞い戻っていた山頭火は、主義者と間違えられて、留置されたこともある。

 ともあれ、東京新聞連載を楽しみに読んでいる。その中のいくつかの作品を以下に挙げておきたい。ただし、出典の句は「川柳きやり」と「番傘」のみだと断り書きがあった。

  嘘ばかり聞いて三年八ヶ月    合田笑宇坊
  童話本にも配給といふ活字     小川舟人
  配給の豆腐と肉がかち合はず    田中南都
  売つてやる売つて頂く列にらむ   宮川春渉
  大根の葉捨てる娘を叱りつけ      白秋
  箱野菜せめて半坪ほしく住み    菅野十思
  気前よく羊羹切つて出す落語   矢田貝静吉
  酒に縁なく一月の日記書く      句沙彌
  陶製のアイロンもある新家庭      為雄
  胃ぶころも戦ふ日日の続くなり   水谷要人
  綿供出座布団にする藁を打ち      修雅
  敢然と女性が挑む御堂筋      森本 一

 たまたま、本新聞の上段には、上野千鶴子と荻上チキの新春対談が4回に渡って掲載されていた。その中の上野千鶴子の発言に、

  フェミニズムは女も男のように強者になりたいという思想ではありません。弱者に寄り添ってきた女という経験の中から、弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想のことです。自分だけ勝ち残ろうとする自己決定・自己責任のネオリベ思想とは相いれません。弱者が生きやすい社会は、強者も生きやすいはず。ひとは依存的な存在として生まれ、依存的な存在として死んでいきます。それを受け入れたらいいではありませんか。

 とあった。なかなか難しいことだが、原点かも知れない。

田村義彦(たむら・よしひこ) 1941年、北海道釧路市生まれ。



2019年1月13日日曜日

高屋窓秋「頭の中で白い夏野となつてゐる」(『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』より)・・・



  現代俳句協会青年部編『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』(ふらんす堂)、序は高野ムツオ、「おわりに」には現代俳句協会青年部・神野紗希。本書はまた現代俳句協会70周年事業のひとつであった。「はじめに」も神野紗希だが、それには、

  現代に生きる人々が、新興俳句運動やその作家について知り、考える手引きとなるような本を作りたいと思い、このアンソロジーをまとめた。新興俳句作家四四名にに関する評論と100句抄に加え、新興俳句にまつわる一三のコラムを収録した。執筆者はほぼ10代~四〇代までの若手俳人。新興俳句運動も、多くは当時の若者たちの手によるものだった。時代を共有しない現代の若手が、彼らの作品をどう捉えるだろう。時代を隔てているから客観的に見つめられる部分も、同じ若者同士だからこそ分かり合えることもあるはずだ。
 昭和初期に綺羅星のごとく時代を駆け抜けた彼らの俳句が、新たな荒野を歩まんとする現代の俳人の灯となれば幸いである。

 と記されている。愚生もそう願いたい。貴重な仕事だと思う。宇多喜代子が言っていたように、一人ではできない、組織があってできること、それも手弁当で・・と座談会で述べていたことは、こういうことである。こうした無私の情熱が俳句を支えているのだ。
 本書が刊行されるらしいことは、執筆の数人の方から若干の問い合わせがあったり、川名大からは苦労話も聞かされていた。まだすべてを読んでいるわけではないが、多くの論者、あるいは作品の抄出において、これまで川名大が成してきた新興俳句に関する仕事に大いに恩恵を受けていることが分かる。そういえば、髙柳重信が折笠美秋の見舞いに、みずから「新興俳句の歌」というのを(もちろん替え歌だが)テープに吹き込んで渡したもののコピーを福田葉子からいただいて聞いたことがある。新興俳句の名の下に散っていった多くの若き俳人たちへの愛惜の情と、口惜しみと、その反面のロマンチシズムが、けして上手いとは言えなかったが重信の歌声に籠められていたように思う。その替え歌の歌詞には、白泉や、三谷昭や、赤黄男、窓秋、鷹女などの名などが入っていた。
 若い人たちの各俳人の100選も楽しみ(愚生には文字が小さすぎるのが難点だが
・・)、また、コラムなども、改めて、新興俳句の評価を考えさせてもらった。まずは冒頭の青年部選による「新興俳句百句抄」だけでも十分興味がもてて面白い。以下にその中から幾つかを冒頭近くから紹介しておこう。ともあれ、類書なき座右の書となるにちがいない。

  来し方や馬醉木(あしび)咲く野の日のひかり  水原秋櫻子
  一片のパセリ掃かるゝ暖爐かな          芝不器男
  夏山と熔岩(らば)の色とはわかれけり      藤後左右
  ひるがほのほとりによべの渚あり         石田波郷
  まつさをな魚の逃げゆく夜焚かな        橋本多佳子
  スケート場沃土度丁機の壜がある         山口誓子
  午前五時あざみにとげのなかりけり        伊藤柏翠
  汝が吊りし蚊帳のみどりにふれにけり       中尾白雨
  蛾の迷ふ白き楽譜をめくりゐる          平畑静塔
  重ねたる鉄の切口光冷ゆ             湊楊一郎
  ラガーらのそのかち歌のみじかけれ        横山白虹
  うららかな朝の焼麺麭(トースト)はづかしく   日野草城
  血に痴れてヤコブの如く闘へり          神崎縷々
  あらはれてすぐに大きくくるスキー       長谷川素逝
  目つぶりて春を耳噛む処女同志          高 篤三 
  花の上に天の鼓のなりいでぬ          井上白文地
  しんしんと肺碧きまで海のたび          篠原鳳作
  街灯は夜霧に濡れるためにある          渡邊白泉
  青空に/青海堪えて/貝殻(かひ)伏しぬ    吉岡禅寺洞
  恋人は土龍のように濡れてゐる         富澤赤黄男
  ひとりゐて刃物のごとき昼とおもふ        藤木清子
  


           撮影・葛城綾呂 葉牡丹↑

2019年1月12日土曜日

崎原風子「鉄打つ音みな新緑に向きひびく」(「奔」第2号より)・・


 
「奔」第2号(2019年春号、編集発行人・望月至高)、時宜を得たというべきか、「沖縄特集」である。本誌副題にある「句と評論」という題には、戦前に発行されていた新興俳句誌「句と評論」をいやでも思い出させる。『現代俳句辞典』(三省堂)の川名大による解説には、1931年7月に東京で創刊され、38年通巻75号で終刊とあるが、きっかけはその前年37年に細谷源二や中谷春嶺が工場俳句を推進するのに伴って渡辺白泉ら6人が脱退し「風」を創刊したとある。「風」には三橋敏雄も参加していたはずだ。
 崎原風子(本名・朝一)を本誌で見つけたのは、安里琉太「『沖縄』の俳句について」の文中である。愚生の記憶では「海程」が金子兜太の主宰誌になったとき、当時の編集長であった大石雄介、原満三寿、谷佳紀ら当時の有望な若手が「海程」を脱会した。その原満三寿と谷佳紀で「ゴリラ」という同人誌を創刊し(後年、谷は「海程」に復帰、後継誌「海原」にも参加)、20号で廃刊にするのだが、その寄稿者の中に崎原風子の名があったように思う。たしか「ゴリラ」の表紙は小口木版の日和崎尊夫だった。そんなこともあって、懐かしい思いになったのである。いわば、知る人ぞ知る幻の俳人である。金子兜太著『今日の俳句』(光文社・1965年)には、

  ツイスト終り河へ鮮明に靴ぬぐ母   崎原風子(ふうし)
  婚礼車あとから透明なそれらの箱

 の句が収録されている。今回、安里琉太の玉文で、改めて、沖縄生まれの崎原風子がアルゼンチンに移民していたことをおぼろげながら思い出した。その他、今号の沖縄特集には、いわば政治的な主張についての論に多くが割かれているが、その沖縄の在り様が、俳句の表現に具体的な成果として顕れているのか、については、俳句に関わる愚生には一段と興味がある。それは、未来ある若い二人、俳人で写真家でもある豊里友行により直接的に、また安里琉太には、より、内面的、象徴的な句表現としてあらわされているように感じた。
 あと一つ、望月至高「追悼 兜太と六林男」で思い出したことがある。正確な年は覚えていないが、現代俳句協会が、「数は力だ!」で会員1万人体制を目指していた。もちろん会長に金子兜太、副会長に鈴木六林男、小川双々子らがいた時代である。愚生は40歳代で、その頃、久保純夫や山﨑十生、高野ムツオ(全体で、若手の幹事はこれくらいしかいなかった)、そして、兜太の肝入りで創られた青年部長・夏石番矢がいたと思うが、その総会直前の幹事会で、丸山海道がいきなり副会長に抜擢された(当時「京鹿子」200名を引き連れて現俳協に加盟したと言われていた)ことに対して、「今まで何もしてきていない者がいきなり副会長では、スジが通らない」と猛烈に反対にしたのが鈴木六林男だった。小川双々子も続いた。若輩の愚生はただ眺めていたが、それでも、協会の組織運営上からすれば、俳人協会を脱して一挙に200人を加盟させるのだから、それ相応の処遇をもってするのが、組織としての礼儀だろう・・・と組織論からすれば当然のことかも知れない、とも考えた。さらに老害を排する、ということで、役員の定年を80歳に定めることにしたとも記憶している。ともあれ、個人誌ながら、大冊となった望月至高の古稀過ぎてなおの膂力に驚いている。というわけで、以下に、一人一句を挙げておきたい。

  金蠅や夜どほし濤の崩れ去る       安里琉太
  花デイゴ家族の墓は基地の中    親泊ちゆうしん
  みんな武器すて鉄砲百合が痛快      豊里友行
  月光にわたしの縊死を捧げたし      今井照容
  ひとを鶏を強制終了する津波       江里昭彦
  吃音の狐われを蒼きフォビアに誘いつ  大橋愛由等
  乱獲の網に人骨敗戦日          望月至高
  風にある海邦(うみぐに)の声あやはびら 大井恒行



        崎原風子の作品・日録が寄稿されている「ゴリラ」↑
        本ブログ読者より(匿名氏)より提供(1月14日)。


          撮影・葛城綾呂 焔立つ ↑  

2019年1月11日金曜日

芭蕉「湯をむすぶ誓も同じ石清水」(『いくらかかった「奥の細道」』より)・・・



 戸恒東人『いくらかかった「奥の細道」』(雙峰書房)、帯文に、

 『奥の細道』は170万円の旅だった!
 『曾良旅日記』の謎の記号から/その真実を読み解く

と惹句されている。「奥の細道」141日、江戸から大垣までの費用は、いくらかかったのだろうか?という当時の旅の現実を類推した比類ない書である。大胆といえば大胆だが、戸恒東人のかつての仕事・大蔵省造幣局長であってみれば、当時の物価、貨幣価値など充分に研究できる下地があったにちがいない。そしてまた、かつての『誓子ーわが心の帆』においても中国現地に足を運んで調査し、その足跡を辿っていたが、本書もまたそうした現場を訪ね、調査している。ブログタイトルにした芭蕉の句は、那須温泉神社を参詣したのち殺生石を見物した折りのもので、本書では、

  芭蕉は温泉神社で《湯をむすぶ誓も同じ石清水》の一句をものにし、曾良は《石の香や夏草赤く露あつし》と詠んだ。
 この日の航程は記されていないが、往復2里ほど。また支出額は、
 通常旅費   200文
 神社お賽銭等 100文
 宿泊代    200文
  計     500文

といった具合だ。芭蕉に同行した『曾良旅日記』には謎の記号があり、それは、

 すでに東洋大学名誉教授村松友次氏の優れた研究があり、日記には謎の記号がところどころにありあって、それは二分と一両を示すものではないかというものであった。

と著者「あとがき」にある。「おわりに」の項では、

(前略)謎の記号のある個所で、1024とか1240とか読める数字が書かれているが、これは銅銭と金貨との交換レートであろうと考えた。元禄時代には、1分1000文という公定レートはあったが、、実際には1分1200文、また1分1240文という市場レートで交換されたということは、銅銭が安かったということになる。
 この研究を通じて分かったことは、芭蕉は案外余裕のある旅をしていて、宿もみすぼらしい所には泊まらずに、宿がなければ庄屋の家に泊めて貰ったりしていたこと。また旅の後半には路銀も大部余ったので、温泉に泊まったり、酒も結構たのしんだのではないかということである。

 と記されている。総費用については、「総支出額は5万6720文(14両720文)となった。1文30円換算で170万1600円となる。また1日当たりの平均支出額は、402文(1万2068円)である」という。



★閑話休題・・西あき子「薬喰まづ百薬の長を召せ」(『魚眼レンズ』)・・・


西あき子第一句集『魚眼レンズ』(雙峰書房)の序は戸恒東人。跋は原田紫野。その序文に、

 句集名の『魚眼レンズは、集中の、

  大夕焼魚眼レンズに収めけり    「螺鈿の月」

から採ったものである。見る者は誰もその光景の偉大さに身の竦む思いがするが、カメラに収めようとすると普通のレンズでは収めきれない。そこで魚眼レンズにその荘厳なるパノラマをしっかりとカメラに収めたのだ。光に対する敬虔な姿勢はこの句集の骨格をなしている。

 と記されている。ともあれ、いくつかの句を以下に挙げておこう。

  引鶴の残せし小夜の水鏡
  睫毛てふ陰もつものや春灯
  雨蛙一跳ねに身を隠しけり
  箱みかん一つふたつは傷みたる
  朝虹の人逝く道に架かれかし
  落雲雀またも視力を攫はるる
  まだ垂るる重さは持たず青葡萄
  選るほども無きを選りをり鬼灯市
  重き空曳きくる鷲の翼かな
  
 西あき子(にし・あきこ) 昭和27年 茨城県下妻生まれ。  



2019年1月10日木曜日

秦夕美「舌先に冬の乗りくる夕べかな」(「GA」82号)・・



 「GA」82号(編集発行人・秦夕美)、前号81号を発行した折に、「号数が年齢を超えましたね」と言われたという。その「あとがき」に、

  ながーいこと「詩の国」に棲み続けていると俗世の風に疲れる。生きるため、最低限の世俗つきあいは仕方ないにしても、一人で読んだり書いたりしているのが楽しい。それに孫。子供の頃はよく「ボクがしてやろか?」と何事にも手を出したがり、後始末が大変だった。それから「オレに出来ることなーい?」と言い、今は「オレにして欲しいことは?」に変わった。ボクからオレになったのは中学生の頃。(中略)以来、息子は電話で自分のことをオレと言わずリョウイチと名のる。言葉にも微妙に所有権があるのかも知れない。家のロッキングチェアーは孫専用だったのに、ときおり息子が坐っている。「坐ってみたかったんじゃない?」と孫。どちらも一人っ子。その時々でシーソーのように上下関係が変わっている。

 とある。「あとがき」以外に、当然のように秦夕美の世界がひろがる。俳句、短歌、エッセイ、さらに連載中の蕪村句鑑賞の「蕪村へ」もいずれ一本になるだろう。秦夕美の手は、現実を放り上げて、その虚空に、言葉のあわいに、いかようにも言葉を紡ぎ、描きだせる術を身につけているようにさえ思える。ともあれ、以下に句と歌をいくつか挙げておこう(「」は作品の題である)。

  幸福な王子のルビーしぐれけり     「宝石(いし)の話
  面妖な二十日月なり奉げ銃       「応へなき
  写真(うつしゑ)に色なき風のあまたゝび 「〃  」
  手足ふと道をそれけり望の汐       「〃  」
  去年今年こたびは雨の真珠湾       「 〃 」
  メメントーモリ雪像すこしはにかみて   「〃  」
  もう生きてゐなくていいが頃合の分からぬままに刻む大根 「別の世の」
  しろがねの光さしくるまひるまをわが臨終の時とさだめむ 「〃   」


★閑話休題・・座談会「前衛俳句を語る」(「俳句界」1月号)・・・


 秦夕美つながりで挙げると「俳句界」1月号の鼎談「前衛俳句を語る」。秦夕美・福本弘明・藤原龍一郎である。そして、特集「『ホトトギス』は永遠に不滅です」という、いささか皮肉を込めたような惹句の巻頭言は筑紫磐井。その結びに、

  (前略)「反伝統」が存在するためには「伝統」がはっきりと存在しなければならない。伝統は反伝統の永遠の敵である。しかし伝統なくして反伝統は存在し得ない。従って、「ホトトギス」(汀子氏のいう伝統俳句)は永遠に不滅でなければならないのである。

 と述べられている。論理的整合性からいえばそうであるが、現実的実態がともなわなければその魂を生み続けることは困難である。それでも、俳句というヤツは希望の病に犯されざるをえない。筑紫磐井はその無限運動の現実的な結末について、

 「反伝統」にあっては、中村草田男も金子兜太も永遠の価値であってはならない、乗り越えられるべき存在なのである。

と至極真っ当である。


           撮影・葛城綾呂 ↑