2017年12月17日日曜日

大本義幸「霊には重さも形もないが圧力はある」(「俳句新空間」NO,8)・・



ーBLOG俳句空間媒体誌ー「俳句新空間」NO.8(2017年冬・編集発行人、筑紫磐井・北川美美、協力・佐藤りえ、500円、発売・邑書林)の特集は「世界名勝俳句選集」、30名ほどの参加がある。筑紫磐井の「編集後記」には、

 初めは虚子にならって『日本新名勝俳句』にしようと思ったのだが、流石に「俳句新空間」らしく日本を超えた海外作品が集まったり、具象性のない抽象的な俳句が集まったり、規格にこだわらない名勝俳句があふれ始めたので、名称を改めることにした。「世界名勝俳句」はたぶんどこでも見ることのできない特集であろう。

と記されている。というわけで、大本義幸の句以外は、集中から海外名勝俳句を以下に紹介しておきたい。

    四万十川
  河とその名きれいに曲がる朝の邦     大本義幸
    シャム
  アユタヤの古都真昼間の大夕立      網野つきを
    カナダ イエローナイフシャム
  オーロラの家たくさんの鍵を持つ     小野裕三
    ブルガリア
  初夏の街角かもめも物乞ひも       神谷 波
    ペトログラード
  外套と荷物一つが革命家(ボルシェビキ) 筑紫磐井
    シベリア
  シベリアと見紛ふほどの裘        仲 寒蟬
    ハワイ
  虹の島年に何度も合歓の咲く      前北かおる
    ポカラ、ネパール
  闇汁の闇の内なる神々よ        真矢ひろみ
    ブレスト
  原子力空母一隻霧が隠す         松下カロ
    ギリシャアテネ
  林檎選るアクロポリスの裾の市      小沢麻結

他に、前号作品評の、もてきまり、小野裕三。また、巻頭の散文・松下カロ「風景は自画像である」はいずれも玉文である。
    


        府中・東京農工大(農学部)のキャンパス畑より↑

2017年12月16日土曜日

亀田虎童子「着ぶくれて抜き差しならぬ旅に出づ」(『日常』)・・



 亀田虎童子第6句集『日常』(文學の森)、集名は次の句に因む。

  亀鳴くや普通の人の普通の日    虎童子

「あとがき」には、二度の入院手術ののち、

 寝たきりと言うわけでもないが十年ほどのベッド生活を続けている。今でも週に一度の医師の往診と訪問看護師の世話になっている。
 日本の敗戦後、多くの日本兵がシベリヤに抑留され、厳寒のさ中でも強制労働に従事させられたという悲惨な状況はよく知られている。うろ覚えの話であるが、その日本兵の中に一人の詩人が居り、この過酷な日々を「これが私の日常である」と述べていた。これを読んでしみじみと「日常」の重さを感じさせられた。

と記されている。
 ところで、愚生が亀田虎童子に初めて会ったのは、もうずいぶん昔のことだ。八田木枯主催の「花筵有情」の案内をいただいたときだ。花見の季節に「花筵有情」は決まって飯田橋沿いにの土手で一日中行われていて出入り自由の酒宴だった。その場所には「花筵有情」の木札がぶら下がっていた。今でも古い写真が手許にあるが、それには三橋敏雄、中田世禰、松崎豊が写っている。青柳志解樹と初めて会ったのもその会だった。
 まだ若かった愚生は、会の帰りに八田木枯、亀田虎童子、もう一人どなたかと車でバーに連れられていき、ママさんは「あ~ら先生、いらっしゃいませ」と言ったので、皆さん常連だったのだろう。そこでは、俳人は誰でもみんな先生と呼ばれているらしい(もっとも、いまは、現俳協の事務所でも、お互いにセンセイと呼びあっているから、まるで学校の職員室みたいである)。本句集には一見どうということのない、それとない上手い句作りで、じつに味わいのある句が収められている。滋味というべきか。
 ともあれ、愚生好みの幾つかの句を挙げておこう。

  涅槃西風八田木枯目覚めどき     虎童子
  夜桜や酒も団子もなき所
  天気とは天の気まぐれ寒戻る
  忘れたり思ひ出したり名草の芽
  白玉や他人事なる立志伝
  百薬の長然る可く暑気払い
  色褪せるまで生きられず揚羽蝶
    卒寿なれば
  百に十(とを)足りぬと言うて柿を剥く
  会はざりし人への悼句月に雲
  裸木のなんぢやもんぢやは普通の木
  むかしからありし路地裏一葉忌
  老い止めの薬のなきや初薬師
  
 亀田虎童子(かめだ・こどうし) 大正15年埼玉県生まれ。



2017年12月15日金曜日

三輪初子「山茶花のつぎ咲く花を待たず散る」(『あさがや千夜一夜』より)・・



 三輪初子エッセイ集『あさがや千夜一夜』(朔出版)、帯の背に「映画と俳句と人生と」と惹句されている。石寒太が言うには「誰がいつどこから読んでもいい。心の動いたところからパラパラ読まれたらそれでいい」ともあったので、愚生はまず「八人目の侍」を読んだ。それは、三輪初子が生涯のベルトワンを書いて下さいと言われ、日本映画では、黒澤明監督作品『七人の侍』(1954年)であるという話だ。そのシーンを語る、

 夜盗の人質にされた村の子どもを救うため、勘兵衛が髷(まげ)を剃り落とし偽の坊主になるくだりは歴史的に伝わる物語を、若侍が腕試しのため稲葉義男扮する侍にきりつけるのは塚原卜伝の実話より、宮口清二の剣の達人に挑む剣術は柳生十兵衛の新陰流から引用された、とのことである。

 の部分に愚生は思わず反応したのだ。じつは愚生も三度くらいは『七人の侍」をこのシーンのために観ている。しかし、物語に感動してではない。しかも「真剣ならばオレの勝ちだ!」というセリフを巡ってだった。
 愚生は新陰流兵法転会(まろばしかい)に20歳代後半から30歳代半ばまで所属していた。その仲間たちとそのシーンを語り合うために是非見ておかなければならなかったからだ。たぶん、新陰流兵法(ひょうほう)の映画の指導は柳生宗家がしたのではないかと思う(手許に資料がないので不確かだが)。
 そのシーンの形は新陰流を習うときの最初の勢法(かた)で、参学円之太刀(さんがくえんのたち)の五本のうちの最初、一刀両断の形だった。打太刀(うちたち)に対面して、使太刀(したち)側(愚生)が無形の位(くらい)から、右足を開き、太刀を車(しゃ)に構え(剣を斜めに横に下げ持つ)、使太刀(いわゆる敵方)の正面からの打ちに対して、刀を体に沿って上げてゆき雷刀(らいとう・いわゆる大上段)にし、使太刀から切り付けてくる太刀筋に、遅れて打ち出し、打ち下ろされて来る刃に乗り勝つというものだった。この雷刀から相手に遅れ気味に真っ直ぐに打ち下ろす太刀は、剣の勝ち筋として必ず勝てるという、いわゆる秘伝とされた太刀筋で、小説などによって有名になっている、柳生の兜割りであろう。愚生らは転打ち(まろばしうち)と言っていた(上位の位に行くときに一度だけ先生から教わり、それぞれ、下段、中断、上段、無刀の位だったような・・・)。
 もちろん、剣にも時代による形の変遷がある。甲冑をつけての打ち合いの場合は腰が低く、現代剣道のように腰の位置は高くない。
 話を元にもどそう。本書は阿佐ヶ谷にあった元ボクサーであった夫と一緒にやっていた今は無きレストラン「チャンピオン」に集まってきた人たちとの出合いのエピソードである。その店で句会も行われていたのだ(残念ながら愚生は行ったことがない)。レストランだから、当然食べ物の話題も沢山出てくる。なかに「ポテにん」という人気メニューがある。どうやらそれは一口大に切ったジャガイモとにんにくの素揚げにしたもので、「夏バテ予防に最適」なのだそうである。俳句では、富沢赤黄男の妹・宇都宮粽88歳の折りに会ったとき、『天の狼』を見せられた時のことなど・・・。
 ところで、愚生の実母の結婚前の姓は三輪である。従って、今は昔のことになるが、最初にお目にかかっった時に愚生には珍しく、その名・三輪初子を一度で覚えたのだった。
 ともあれ、エッセイにちりばめられた句をいくつか、以下に挙げておこう。

  花盛り女あるじは耳遠き       初子
  招かれて月の都に御座(おは)す母
  雪降る夜ひと呼ぶこゑのやはらかし
  絵の中の少女は老いず小鳥くる
  夏料理ひときは皿の白きかな
  熱帯夜枕のやうなオムライス
  テンカウント響くあかつき迎へ梅雨
  火を愛し水を愛して葱洗ふ 

三輪初子(みわ・はつこ)1941年、北海道帯広市生まれ。


                                            小平霊園・冨澤赤黄男の墓↑


2017年12月12日火曜日

池田澄子「人類の旬の土偶のおっぱいよ」(『俳句ひらく』より)・・



 現代俳句協会創立70周年記念・現代俳人の筆跡『俳句ひらく』(現代俳句協会・3000円)、現代俳句協会会長・宮坂静生は「まえがき」で、本書の筆墨集について、

 現代俳句協会歴代会長、現代俳句協会賞受賞者、現代俳句大賞受賞者(現代俳句協会大賞含む)の筆跡に、俳人コラージュのページなどを盛り込み、目から楽しむ宝物として、長く座右に置けるものにしたい。
 石川九楊のことばを藉(か)りると、書とは筆触(ひっしょく)である。「筆記具の先端が接触し、摩擦し、離脱する劇(ドラマ)(「日本語とはどういう言語か」)である。

 と記している。色紙、短冊類、また愛用品などを写真に収めてあるが、現在なお活躍中の俳人の受賞者には、「私がこれから目指す俳句」のコメントが入っている。皆さんそれなりの年齢を重ねているので、自らの身に沿った言葉が刻まれている。ブログタイトルにあげた池田澄子は、記念すべき平成元年度、第36回現代俳句協会賞受賞に因むものである。先のコメントには、「現在の私には予想出来ない、私の未知の俳句」とあった。




 さて、愚生が提供した色紙は俳句コラージュのページの五枚一組の色紙である。色紙それぞれに自筆の似顔絵が即興で書かれているものだ。それは1976年の「俳句評論」の忘年句会で比田義之がブービー賞の景品として獲得したもので、その場で描かれたものである。その五人の俳人とは、高屋窓秋、三橋敏雄、大岡頌司、三谷昭、高柳重信(151ページ掲載)。
 久しく忘れていたが、東京四季出版編集部より、高屋窓秋・秋元不死男の短冊はないかと尋ねられたときに、思い出し、ちょっと面白いものがあると、知らせたことで日の目を見た。
 愚生はもともと、色紙・短冊類を集める趣味を持ち合わせていないが、秋元不死男の短冊もひとつあった。その短冊は阿部鬼九男が亡くなる直前に、辞退したが、めずらしく持っていけと強引に手渡された色紙だ。酒巻英一郎ともども見舞ったその日が永の別れとなってしまった。
 本書には、その短冊と色紙は採用されなかったので、ここに備忘のために掲載しておこう。


          獄を出て触れし枯木と聖き妻 不死男↑

 
       ちるさくら海あをければ海へちる 高屋窓秋↑



筑紫磐井「秋思より具象が大事虚子の説」(「俳句界」12月号)・・



「俳句界」12月号は、特集「平成俳句検証」で、「平成を代表する句、平成を代表する俳人」のアンケートを主要な俳人に出して、その結果をまとめ、論考「平成とは俳句にとってどんな時代だったのか?」を岸本尚毅と渡辺誠一郎が執筆している。平成は31年4月で終わることに決まった。その中で、筑紫磐井は、平成を代表する句として、

 ビル、がく、ずれて、ゆくな、ん、てきれ、いき、れ  なかはられいこ

を挙げて、

9.11テロをこんな美しく衝撃的に詠んだ句はないだろう。この状況は現在も続いている。(作者は川柳作家)

とコメントし、平成を代表する俳人に、攝津幸彦を挙げ、「昭和のレトロな作家と思われているが、平成八年になくなった。むしろ平成俳句に影響を与えている」と記している。
筑紫磐井つながりで、もう一誌を紹介すると、「翔臨」第90号に、「山本健吉の『挨拶と滑稽』-隠者の性格」と題する論考を寄稿し、竹中宏をして以下のように語らしめている。



 山本健吉は、折口の文学観を、どのように咀嚼したのであろう。そのことに無頓着であって、俳人は山本健吉をどこまで理解したことになるのか。筑紫氏の文章から、そう問われる思いだ。(「地水火風」)

それは、筑紫磐井が、同論のなかで折口信夫「隠者文学」(昭和12年)と山本健吉「挨拶と滑稽」(昭和21・22年)の記述を比較し一覧表にして、類似性を指摘し

 「挨拶と滑稽」は恩師と同じ道をたどって俳句が、芭蕉が、肯定されている。そしてその根拠とは、「隠者文学」であるという理由なのである。現代の生々しい社会ではなく、一歩退いた、市井で風雅を楽しむ隠居たちの文学であるというのである。これでは、賢明な桑原の「第二芸術」に反論など出来るわけがない。「第二芸術」に対峙するためには致命的な欠点を抱えていたのである。
 健吉の「隠者文学」性は以後も、古典的な高踏趣味として続き(健吉の季語論や『基本季語500選』によく現れている)、晩年には軽み論で決定的に俳壇や中村草田男と対立するのである。

 と結んでいる。ところで、先に上げた平成を代表する、なかはられいこの句は、他に橋本直も挙げていて、そのコメントには「具体的には『9・11』の映像を喚起させつつ、当の言語表現をふくめ様々なものの崩れる時代そのものをあらわしているように見える」とある。なかはられいこは川柳作家とあるが、「俳句界」12月号には「川柳ーこの鮮烈なる詩型よ」として鶴彬と時実新子の特集もある。時代を先鋭に撃っているのは、いつの時代も詩歌であった。ならば俳句もそうであろう。ようやく俳句にも若い世代で俳句史に新しいエポックを刻む人たちが登場してきているように思う。中でも今年出版された福田若之『自生地』はそれを象徴しているように思えた。

   フジヤマとサクラの国の餓死ニュース  鶴 彬 
   平成七年一月十七日 裂ける      時実新子






2017年12月10日日曜日

宇田川寛之「三島由紀夫の享年近づく僕たちは自決の秋の午後に生まれき」(『そらみみ』)・・



 宇田川寛之第一歌集『そらみみ』(いりの舎)、18歳のとき2歳年上の歌人・枡野浩一と知り合ったという。その時の短歌の一つが、

 「もうハタチ・・・・自覚しなきゃ」と言ったのに「自殺しなきゃ」と伝わる電話
                                   枡野浩一

だった。宇田川寛之が「短歌人」に入会したのも二十歳。そして言う。

 歌集をまとめようと思ったことが三十代半ばまでに二度ある。しかし、いずれも生活環境の激変があり、歌集どころではなくなってしまった。(中略)覚悟がなかった。以後も歌集刊行を勧めてくれる人がいないわけではなかったが、まさに生活に追われて、歌集をまとめようとは到底思えなかった。やがて勧めてくれる人は皆無に近くなった。

 纏められた短歌は2000年から15年の間の作品415首、二十歳から「短歌人」の欠詠がなかったというから、歌数は相当なものにのぼったはずだ。数首を除いて、20代の作品はほぼ捨てたようである。
 愚生が彼を知ったのは、「俳句空間」(弘栄堂書店版)の新鋭投稿欄である。もう20数年前のことだ。『燿ー「俳句空間」新鋭作家集Ⅱ』に参加してもらった。一人100句・16名のアンソロジーだった。その頃、宇田川寛之は俳句も作っていたのだ。当時23歳、アンソロジーのなかではもっとも若手であった。その時の正木ゆう子の評に、「追想に本音のような天気雨」「パラフィンのごとき言ひ訳繰り返す」などの句を挙げたのち、「もともと体質的にこの作者には『切れ』に対する必然性が希薄なのかもしれない。現在は俳句は開店休業中で、短歌の雑誌に属しているという。優しさは短歌では長所に転じるだろう」と記している。その優しさは本歌集に満ちている。愚生は年のせいか、おもわず涙腺を刺激された歌がいくつもある。宇田川寛之は、いまや充実の時を迎えようとしているのかもしれない。静かに六花書林という詩歌の出版社を一人で立派にやっている。
 ともあれ、いくつかの歌を以下に挙げておこう。

  愚図愚図と雨降りしきる。渋滞に連なるのみの二十代はも   寛之
  間の抜けた謝罪を朝に投函す酒のちからの口論の果て
  転居通知を投函せしが〈転居先不明〉と戻りきたるいちまい
  花水木はじめて見る子を抱きつつ五月の空のした抜けられぬ
  来年二月古稀を迎ふるはずの父、途切れ途切れの例のさびしさ
  待ち合はせ時間に遅れ焦る吾を背後から呼ぶこゑはそらみみ
  どしやぶりはおもひがけずに来るものぞひとつの傘に子と身を寄せて
  受賞者へ短きメールせむ「友がみな」などぼやくことなく
  無名なるわれは無名のまま果てむわづかばかりの悔いを残して
  匿名の許されてゐるゆふぐれを行き交ふひとはみな他人なり

一句献上! 

  宇田川のひろく散りたるこれは空耳   恒行

宇田川寛之(うだがわ・ひろゆき)、1970年、東京都生まれ。




2017年12月7日木曜日

江田浩司「手にそっとふれてゐるのはきのうから消えずに残る夕日だらうか」(「扉のない鍵」創刊号)・・



 創刊の挨拶に、文藝別人誌「扉のない鍵」とある。同人誌ではない別人誌なのだ。編集後記に以下のように記されている。

 ◇「扉のない鍵」は、[文藝別人誌]という聞きなれない名称の雑誌である。私は当初、本誌に集う者が、普段とは異質な創作を行う場として別人誌を位置づけていた。また、同人誌のような関係性をなるべく無化した上で、他者による競演を意識したところもある。しかしそれは、あくまでも表層的な意味づけにすぎないだろう。各別人のテクストが、本誌にどのような本質を付与できるのかが、本誌の生命線である。

 編集人は江田浩司、発行人は[TNK]、発行所(発売・北冬舎)は江田浩司方、[別人]三十人によって創刊された雑誌である。各自のジャンルの壁はないとあるが、小説、エッセイ、評論などもあるものの、印象は、やはり短歌の別人誌の感じである。特集は「扉、または鍵」にまつわる(題詠)創作に加えて、加部洋祐歌集『亞天使』をめぐる「闘論会」ライブ版が約50ページを占めている。
 別人のなかには愚生の既知の方も何人かいらっしゃる。かつて「豈」同人だった生野毅もいて、「蛭化」という詩を寄せている。冒頭は、

 一枚の大きな扉は おお空に吊るされ 身じろぎもせず 時に微風にたじろぐ 

から始まる詩篇である。ともあれ、以下に三人の方の各一首を挙げておこう。

    ひろいそらどこまでもひろい春のそら(とくに何もないな、なにも) 加部洋祐
  どこまでが季何のからだか例ふれば鼻腔の空氣、胃の中の柿 堀田季何
  歳月はここにも滲む 玄関のだんだん回りにくくなるシリンダー 生沼義朗
  扉なき世界みだらに放たれて 排水溝の孤児(みなしご)阿修羅 玲はる名



★閑話休題・・・

 江田浩司には大冊の近著『岡井隆考』(北冬舎)がある。巻末の岡井隆自筆年譜抄や岡井隆著作一覧、岡井隆研究史などだけでも読み応えがある。論考はさすがに精緻を極めている。ただ、愚生が岡井隆を読んでいたのは、国文社・現代歌人文庫『岡井隆歌集』までで、いわゆる岡井隆失踪後は『鵞卵亭』『人生の視える場所』までである。その後は、ほとんどその営為に接してこなかったので、本著によって改めて、岡井隆の詩的営為について蒙を開かれる思いだった。当時、並走していた塚本邦雄も魅力的だったが性に合ったのは、岡井隆の方だった。尊顔を拝した最後は、「現代俳句シンポジウム」の企画で、健在だった三橋敏雄との対談の折り、現在、日野草城の評価が低い、もっと見直されてよい俳人だと語っていたのが印象に残っている。

江田浩司(えだ・こうじ)1959年、岡山県生まれ。