2017年12月31日日曜日

小池正博「逢いたいが虫の種類が分からない」(「川柳スパイラル」創刊号)・・



「川柳スパイラル」創刊号(編集発行人・小池正博)、創刊の辞の結びに、

 これまで川柳人しか知らなかった川柳の遺産をもっと一般の詩歌に関心のある読者に届ける方法を模索してゆきたい。したがって、本誌は川柳人だけではなくて、広く短詩型文学に関心のある読者を想定している。既成の川柳イメージを裏切り、「川柳っておもしろそう」という未知の読者や作者に出合うために、渦の生成にチャレンジしようではないか。
 みなさんのご支援をお願いする。

とある。内容はというと、門外漢である愚生は、最近の情勢に疎いこともあるが、スパイラルに参加者の方々の名をあまり知らない。とはいえ、どうやら隅々にまで小池正博の眼がよく働いている印象である。小池正博「現代俳句入門以前 第一回」の「おれのひつぎは おれがくぎうつ  河野春三」の句をめぐって、

 瀬戸は一人称が繰り返されていることに注目した。そして、前の「おれ」と後の「おれ」に違いを読み取り、「おれ」を見ているもう一人の「おれ」がいることに、自分の分裂、というより自在さを感じとった。

それを、小池正博は「自分の柩でさえ他人の手を借りずに自分でうつのだという自己主張の強さだと思っていたからだ。私には自我の強度と見えたものが瀬戸には自我の自在さと受け止められたのである」と、ショックを感じていたという。さらに、川柳の歴史的な経緯について「そもそも川柳には『私性』などというものはなかった。川柳は第三者の立場に立って社会や人間を風刺するものと考えられていたから、個性ではなく誰にも共通する普遍的な感情を表現するものであった。川柳は社交的文芸であったのだ」と説明している。さらに現代川柳に対する見取り図を示してくれるなど、愚生の蒙昧な川柳観にいくつかの示唆を与えてくれている。他にも、柳本々々と安福望「おしまい日記」、川合大祐「いかに句をつくるか」、兵頭全郎「妄読のススメ」、小津夜景インタビュー(飯島章友)など、興味深く読んだ。作品は以下にいくつかを挙げておきたい。

   吹きよせの抒情をひとつ托卵す    清水かおり
   おにぎりの具や環礁に核のあと    湊 圭史
   夕飯の味噌汁にいくミサイル     柳本々々
   VA-----------と魂   川合大祐
   繋がれていますとはっきり言ってやれ 石田柊馬
   直線が泡立つ先を見に行こう     畑 美樹
   数式の途中でバトルロイヤルに    飯島章友
   待ち人と無言は平行線にいる     兵頭全郎
   叫びAカノンとなって叫びB     小池正博

  
★閑話休題・・・

 一緒に投げ込まれていた「THANATOS」石部明(小池正博 八上桐子)の「JUNCTION」に書かれていた『現代川柳の精鋭たち』(北宋社・2000年7月)について、思い出したことがる。
 北宋社社主の渡辺誠は、愚生の『本屋戦国記』を出してくれ、愚生が書店員をやっていたときからの友人であった。森猿彦の名で小説を書き、俳句も書いて、一時は「豈」同人でもあった。当時、俳句の言葉より川柳の言葉の方が自在で面白いので、そのテキストとなるべき川柳のアンソロジーを出したらどうかと提案したが、愚生には手に余るので、「豈」同人の樋口由紀子に人選その他をやってもらおうということになったのだ。この流れは邑書林の「コレクション川柳」まで続いた。
 その後、幾度か連絡を試みたが、森猿彦こと渡辺誠の消息は不明である。
 思えば、俳句はその保守性ゆえか、短歌や川柳の先鋭な言葉たちを横目にみながら、いつも一番後ろから周回遅れのランナーが、あたかも先頭にあるような錯覚をもたれるように走ってきたようである。いや、むしろ、その滅びゆく感受とともに滅びても構わない、という感じなのかもしれない。ともあれ、石部明の句を以下にいくつか挙げておこう。

  体臭を消してしまえばただの闇     明
  わが喉を激しく人の出入りせり
  しぬということうつくしい連結器
  入口のすぐ真後ろがもう出口
  五月の木みんな明るく死んでおり
  びっしりと菊その裏は姉の部屋

 新人ばかりではなく、十年、二十年と創作を続けているベテラン作家にとっても川柳は、言語表現として滅多に成功することのない絶望的な形式なのである。(石部明・「川柳大学」1997・8月) 

石部明(いしべ・あきら)、1939年1月3日~2012年10月27日。岡山県生まれ。


皆さん良いお年をお迎え下さい。愚生は義母他界のため、年賀のご挨拶は失礼いたします。


            府中・大國魂神社欅並木参道・竹明り↑ 




2017年12月30日土曜日

西村麒麟「鳥好きの亡き先生や冬の柿」(『鴨』)・・・



 西村麒麟第二句集『鴨』(文學の森)、帯には第七回北斗賞受賞とある。この北斗賞には少しばかり感懐がある。偶然だったが、表向きは清水哲男顧問との交替しての入社になった(入社前日に清水哲男から吉祥寺のライオンでレクチャーを受け、哲男さんの2年半の在職期間の長さだけはクリアーしようと思いながら、結果的に愚生は4年間務めた・・・)。その最初の仕事として、社長・姜琪東の下命によって、「俳句界」新人賞に相当する企画を出せということで、40歳までの人で、既発表可の150句を応募良くその企画が通り、北斗賞は第一回の川越歌澄から、堀本裕樹、髙勢祥子、鈴野海音、藤井あかり、抜井諒一、西村麒麟など、活躍著しい俳人を生み出してきている。
 今年第8回目は、「俳句界」12月号の速報によると、堀切克洋「尺蠖の道」(選者は横澤放川・鳥居真里子・山本素竹)である。堀切克洋には「豈」60号に、特集「平成29年の『俳句界』」に「俳句における〈十九世紀の罠〉」という犀利な玉文を寄せていただいていた。
 北斗賞の企画のそもそもは、愚生が若かった頃を含めて、若い人達には句集を出したいと思っても、多くが自費出版であって、それだけの資金や蓄財などない若者には、句集を無料で出せ、作品を世に問うことができるというのは、実力で勝ち取れる賞としては魅力があるのではないかという発想だった。愚生の退社後もこうして継続し、しかも有能な俳人の文字通り登竜門となりつつあるのは嬉しいことだ。
 ともあれ、『鴨』よりいくつかの句を以下に挙げておこう。

  山動く飯田龍太の忌なりけり     麒麟
  ぷつぷつと口から釘や初桜
  二人ゐて長さの違ふ蠅叩 
  夕立が来さうで来たり走るなり
  向き合つてけふの食事や小鳥来る
  露の世の全ての露が落ちる時
  鶴鳴くやどの名で呼べど振り向かず
  ぼうふらの音無けれども賑やかな
  墓石か石碑か秋草の中
  少し欠け好みの月や玩亭忌
  蔵一つ凍らせて行く雪女
  
 西村麒麟(にしむら・きりん)、1983年、大阪市生まれ。



 
 
 

   

2017年12月28日木曜日

鳥井保和「目頭を押さへ水洟すすりをり」(『星戀』)・・



 鳥井保和第4句集『星戀』(本阿弥書店)、集名は、

  星戀の冴ゆる一等誓子星     保和
  きさらぎの星戀の星誓子星

に因む。誓子星とは天狼星、シリウスのことである。『星戀』は、今年7月に中公文庫で、「星戀」以後、随筆「星」を補って、新字新かな使いで、読みやすく復刻版が出版されたから、山口誓子(俳句)・野尻泡影(随筆)共著でご存知の方も多いだろう。
誓子晩年の弟子である鳥井保和は、「あとがき」に以下のように記している。

  (前略)そして誓子の句碑巡り(全国に二○一基)を生涯の目標として、これからも誓子の聲咳に接した最後の一人になるまで「天狼」の誓子の俳句精神を継いでゆきたく思っている。

ところで『星戀』を愚生の近くにある府中市立図書館で検索したら、昭和30年発行の中央公論社の新書版のものもヒットした。早速借りて開いたら(写真下のように)、扉に誓子特有の文字で、

  星恋のまたひとゝせのはじめの夜   誓子

 とあった。
 鳥井保和の『星戀』は多くが旅吟で占められている。従って帯の自選十二句をみてもその通りになっている。誓子の『星戀』は一月から十二月に別れ、旅先で詠まれているが、様々な星詠みに収斂されている。一月から十二月まで、泡影の随筆もその月々に合わされている。
 ともあれ、愚生は帯の句とは別に、誓子の弟子らしく誓子忌を詠んだものと、いささかの愚生の好みよって、いくつかを以下に挙げておきたい。

    〈山の井は噴きて溢れてとどまらず 誓子〉の句碑あれば
  山の井の溢る蹲踞余花明り           保和
  誓子忌の天満星(あまみつほし)の朧なる
  なんぢやもんぢやあんにやもんにやの花涼し
  日に風に汚れてゐたる波の花
  夜も白き雲の居座る旱星
  葉の色に透くる小さき蝸牛
  山脈の黒々として冬満月



           
    誓子の星恋の句が記された新書版と最近復刻された文庫版

鳥井保和(とりい・やすかず)、昭和27年、和歌山県海南市生まれ。






2017年12月26日火曜日

攝津幸彦「荒星や毛布にくるむサキソフォン」(「未来図」12月号)・・・



 角谷昌子が「未来図」10月号~12月号まで三ヶ月に渡って「時代を担った俳人たちー平成に逝った星々」㉞~㊱で攝津幸彦を論じている。その第一回の序論ともいうべき部分の冒頭付近で、俳句は「感動を詠む詩」だと教わってきたといい、また、

 「感動を詠む」ため、言葉は必然的に伝達性を高める。
 人間探求派を例に挙げれば、草田男の「貫通相」(対象と自分の心が響き、貫き合う)、波郷の「韻文精神」「生活」重視、楸邨の「真実感合」(人間の内面性の追求)などが俳句にとって大切なことだと信じてきた。ところが、攝津幸彦のように言葉をフラグメント(断片)のように用いて意味を拒絶する俳句がある。

と記し、その最後の部分に、富澤赤黄男、高柳重信、攝津幸彦の三俳人に共通しているのは、「抱え込んだ虚無感を反抗と否定の精神で超克し、独自の句境を切り拓いたことだろう」と続けて、以下のように断定してみせてくれたのには、思わず納得してしまった。

 「感動を詠む」ことが現状肯定に繋がるのは当然だ。三俳人は、常に批判精神を抱き、従来の言語表現を単に踏襲せずに、意味の伝達性を排除して言葉を「書く」ことに集中した。彼らの創作態度は「諷詠」ではない。(「未来図」10月号)

 連載2回目(11月号)では、「抒情への挑戦」「鮮やかなイメージ」とテーマを立てて論証している。第三句集『與野情話』の「泳ぐかなやさしき子供産むために」「生前の手を乾かしぬ春の暮」の句を例にして、

 作者は、『與野情話』の「あとがき」に、句作とは「私」から「非私」への「往復運動」であり、俳句とは「旦暮(あけくれ)の詩」と記す。日常を描きつつ、いつしか俳句は「私」を離れ、別の時空へ「私」を連れ出す。

述べる。さらに連載最後と思われる三回目(12月号)では「無意識の世界へ」「「現象への懐疑」をテーマにして、次のように語っている。

 幸彦はまた、現実とは「怪物世界」であり、自己の存在の根拠として「俳句という罠をもって、この怪物と対峙」すると語る。すべての現象を疑い、日常の怪物や心のカモメに妥協することなく、反逆し続け、言葉を生け捕っては十七音の器に解き放つ。彼の俳句は、映画「時計仕掛けのオレンジ」の映像のように多彩かつ断片的に躍動する。俳句こそ幸彦の「生」を探る存在証明だ。

 限りなく無名に近く、49歳で没する攝津幸彦の俳句の読み方を、生前いち早く示したのは、仁平勝の攝津幸彦第三句集『陸々集』の「別冊『陸々集』を読むための現代俳句入門」だった。没後10数年を経て、竹岡一郎が現代俳句評論賞を、攝津幸彦が生きた時代との照応を描出した論で受賞し、この度は、角谷昌子の手によって、攝津幸彦の大方を知ることのできる分かりやすい論述で、まさに平成時代が終わろうとする前に、平成を代表する俳人として描出した慧眼に敬意を表したい。
 ともあれ、論に抽かれた句のなかからいくつかを挙げておこう。

  姉にアネモネ一行一句の毛は成りぬ     幸彦
  南浦和のダリヤを仮りのあはれとす
  幾千代も散るは美し明日は三越
  南国に死して御恩のみなみかぜ
  送る万歳死ぬる万歳夜も円舞曲(ワルツ)
  唇として使ふ真昼のあやめかな
  階段を濡らして昼が来てゐたり
  麺棒と認め尺取虫帰る
  境涯に使はぬ言葉繁りあふ
  おほかたの我が身に倦みて更衣

角谷昌子(かくたに・まさこ)、1954年、東京生まれ。



              撮影・葛城綾呂↑


  

 

2017年12月25日月曜日

中内亮玄「前衛は赤錆びの匂い指太し」(『赤鬼の腕』)・・



 中内亮玄第二句集『赤鬼の腕』(狐尽出版)、集名は以下の句に因むものだろう。

 秋の道赤鬼の腕が落ちていた     亮玄

 中内亮玄にはなかなか縁がある。著者からは、わが「豈」同人でもある岡村知昭が所属しているからだろう、彼の同人誌「狼」もいち早く恵まれていた。そこで思い出したのだが(老いが進んで記憶が早々となくなっている様子だが)、愚生が「俳句界」(文學の森)に勤めていた頃、もう五年近く以前のことになるだろうか。何かの折りに、編集長に彼の作品か文章、どちらかを推薦したように思う。あるいはまた、愚生が現代俳句協会の現代俳句新人賞選考委員をやっていたときに、当該年度の受賞作無しを主張した折の(協会にとって新人賞受賞作無しは初めてだった)、実質新人賞だったのが中内亮玄ではなかったろうか(もちろん、応募者無記名の選考である)。

  ガザ空爆飯を喰う手はどっちだ     亮玄

 金子兜太に心酔している中内亮玄には本書第二章に「靑鬼の尻」(小論集)が併録されている(「五七五の器 俳諧韻律論」、「俳諧哲学者 金子兜太」、「主体写生論」、「現代俳句という伝統俳句」など)。また『兜太の遺伝子』というエッセイ集もあるくらいだから、半端なく、句法においても兜太の力技的俳句表現をなす。本書題字も金子兜太揮毫である。これだけ兜太づくしであるにもかかわらず、たぶん、あえてだと思うが、兜太による推薦文や帯文はない。兜太による選句でもない、いい心ばえだと思う。それはまた、「生涯ハ胡乱ナリ、我、俳壇ノ鵺ナラン」の献辞を扉にかかげていることに通じていよう。
 愚生は若き日、金子兜太の造型俳句論を実作上で克服しようとしていた時期がある(今となっては無残にも実現していないが)。金子兜太の名句は不思議なことに、その兜太自身の造型論におさまらない、説明しきれない句にいい句が多いように思う(天才ということかも・・・)。
 中内亮玄は若い世代における俳人の膂力として、同年代では傑出しているのではなかろうか。
 ともあれ、集中よりいくつかの句を以下に挙げておこう。

  剥き出しの心臓である冬の汽車    亮玄
  子どもという実に無邪気な輪を覗く
  雪虫や皆同じにはなれぬ様
  ピアニカ吹く無防備な足伸びている
  爆撃間近魚さばきますと魚屋  

中内亮玄(なかうち・りょうげん)、1974年、秋田県生まれ、福井県育ち。




             撮影・葛城綾呂↑



  



  

2017年12月24日日曜日

桂信子「忘年や身ほとりのものすべて塵」(『この世佳しー桂信子の百句』)・・



宇多喜代子『この世佳しー桂信子の百句』(ふらんす堂)、書名の由来は、

  大花火何と言つてもこの世佳し  (平成14年作) 信子 

に因んでいるだろう。第十句集『草影』以後として、主宰誌「草苑」に発表された句である(全句集には収録)。以下は辞世の句、

  昨夜(よべ)よりのわが影いづこ冬の朝 (平成16年)
  冬真昼わが影不意に生れたり     
  
 主宰誌「草苑」最後の号(二月号)の最後の句である、という。本書巻尾に、宇多喜代子は以下のように記している。

 桂信子の主宰する「草苑」は「桂信子の草苑」であって、「草苑の桂信子」ではない、桂信子に代る人はいない。桂信子を師と仰いだ「草苑子」がこれを理解しての終刊であった。 

 その「草苑」は会員誌「草樹」として「草苑子」全員に引き継がれている。随分以前のことになるが、「草苑」編集長であった宇多喜代子は、「私が編集長をやっているのは、桂信子が死んだら『草苑』を終わらせるためよ」とつねづね言っていた。そして見事にそのことをやり抜いた。宇多喜代子が「草苑」を継承しても誰も文句は言わないどころか、宇多喜代子こそその継承者に相応しいと誰もが思ってたいたはずである。
 あるとき愚生が桂信子に作品依頼をしたことがあった。その時、桂信子は「俳句はいくらでもできるのよ」と言っていた。あるいは現俳協の総会などでの挨拶には、さっぱりした歯に衣きせぬ調子で「俳句って楽しい、っていう人がいるけど、そんな簡単なものじゃありませんよ」とも聞いていたので、その「いくらでも出来るのよ」には少し驚いたのだ。
ともあれ、幾つかの句を本書より以下に挙げておこう。

  ひとづまにゑんどうやはらかく煮えぬ    信子
  夫逝きぬちちはは遠く知り給はず
  誰がために生くる月日ぞ鉦叩
  ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき
  窓の雪女体にて湯をあふれしむ
  鯛あまたいる海の上 盛装して
  鎌倉やことに大きな揚羽蝶
  たてよこに富士のびてゐる夏野かな
  死ぬことの怖くて吹きぬ春の笛
    その朝、林田紀音夫氏の訃をきく(八月十五日)
  蝙蝠傘林田紀音夫逝きたると
  これよりは一月一日窓秋忌
  亀鳴くを聞きたくて長生きをせり
  











 




2017年12月23日土曜日

山田浩明「黒いレースの手袋に抱く邪(よこしま)」(第174回遊句会)・・


 一昨日は月に一度の遊句会(第174回、於:たい乃家)だった。兼題は「手袋・除夜の鐘・冬の海)、愚生は「冬の海」の句ができず、従って「冬の海」の句は出さず、当季雑詠で出句するワザにでたものの、その邪心が裏目にでてというわけでもないが、見事に一句も開かず、無点。二次会は、目出度いボウズにカンパイされた。愚生の選句は気付いてみれば、すべて「冬の海」の句をいただいていた。
 顧みて今年は、いわゆる俳人ではないが、俳句と宴席を楽しむ遊句会の面々に縁あって出合い、お蔭で有意義、かつ楽しい時間を過ごさせていただいた。深謝・・・。
 何はともあれ、みなさん恙なく良いお年をお迎え下さい。
 当日の一人一句を以下に挙げておこう。

  拉致(らち)の子に思い届けよ冬の海     石飛公也
  手袋や十指に余る懺悔(ざんげ)あり     村上直樹
  手袋や片割れ残り香仇情(あだなさけ)    川島紘一
  除夜の鐘未だ厨(くりや)は落ち着かず   原島なほみ
  しくじりと暮らすが人や除夜の鐘     たなべきよみ 
  五つほど身に沁みにけり除夜の鐘       武藤 幹
  拒みつつ誘いもしつつ冬の海         山田浩明
  寂しげや片手袋のアップリケ         橋本 明
  冬の海はるか向こうのさようなら      春風亭昇吉
  院の一声隠岐に静もる冬の波         渡辺 保
  望郷の水漬(みず)く屍(かばね)や冬の海 植松隆一郎
  強面のミトン姿に場が和み         中山よしこ
  冬の海騒ぐは人間ばかりなり         石原友夫
  冬の海ヤン衆不在の御殿かな         天畠良光
  手ぶくろの妻后(つまぎさき)美しみちのくの 大井恒行

欠席(番外)投句は、

  点盛りの無き句数へる除夜の鐘        加藤智也
  冬の海鬼太鼓(おんでこ)にのり波に踊る   石川耕治
  片方になりし手袋捨てられず         林 桂子

次回の兼題は、初句会・おでん・日脚伸ぶ(村上氏出題)。



               石飛氏持参の郁子の実↑ 


  
  
  
  
  
  

  

2017年12月20日水曜日

井口時男「まぼろしの花見る我ら日は傾き」(「鹿首」第11号)・・・



 「鹿首」第11号、特集は「野に生きる」。「鹿首」という怪訝な誌名は、副題にあるように「『詩・歌・句・美』の共同誌」に因む。
 記事のそれぞれは興味深いものばかりだが、愚生には、とりわけ高柳蕗子「ここ掘れわんわんとシロが呼ぶー短歌のオノマトペ」だった。髙柳蕗子から以前に聞いたことがあるが、彼女のパソコンには短歌や俳句のデータベースが相当数あって、キーワードを入力するとたちどころに、その語を含む短歌が分かると言っていた。そうしたデータベースを資料にして本論も書かれている。そして、その視点は、いつも思うのだが、高柳蕗子の独特の分析力と具体的な作品を通して説得力を生んでいる。そのデータベースは、「私の短歌データベースは(2017年4月現在約7万9千首)に「むんむん」を含む歌はこの三首だけだった」と記されていた。その三首とは、

 約一名闘う主婦がむんむんと夜中覚醒しているのです
                      久保芳美『金襴緞子』2011
 むんむんと二階がふくれてゆくような春雷の夜にふとん敷く妻
                        吉川宏志『夜光』2000 
 枝と葉をゆさぶり合って前列の女子生徒らはむんむんと泣く
                  佐藤羽美『ここは夏月夏曜日』2013 

である。また、本論の中で「もひもひ痒い、ふわふわ叱る」と題された部分に、

 日本語は単音を二つ組み合わせて二回重ねれば、たいてい何かの感じを表せちゃうから便利だ。ふわふわ、ふかふか、微妙に違う。もふもふ、もひもひ・・・。
 「もひもひ」なんて言葉はありません。でも使ってしまえば通じるかもしれない。例え
ば「背中がもひもひ痒い」と言えば、日本の人ならわかってくれそうだ。
 逆に一般に通用する「ふわふわ」も、例えば、「ふわふわ叱る」などと、変わった使い方をしたどうだろう。微妙なニュアンスが生じる。もしあなたが歌人なら、うまく生かして歌を詠むのでは?あなたがもし読者なら、違和感なく受け止めるのでは?

と述べられている。なるほどと思う。
ともあれ、本号のなかに掲載されている句作品から一人一句を以下に挙げておこう。

   朝霧や阿蘇の五岳もやや目覚め (阿蘇)   井口時男   
   大過去へ焼け落ちてゆく西の空        黒田正美
   春浅し空ふらここに雨すだく         奥原蘇丹
   湧水は羊                  三沢暁大
   花ふぶき みんな渡してしまいたい      徳永政二
   光る田に直線の声つばくらめ         翁 譲
   半径五百米内博覧記             風山人
   AIに勝てる棋士なし人類(ひと)の春    星 衛
   明かりなし老梅ほのか彼此(かこ)の風    研生英午








2017年12月19日火曜日

伊丹三樹彦「青塔子と保徳 長門は俳句の関」(『俳句愛のわが友垣』)・・

 


 メモリーフォト&ハイク コレクション 伊丹三樹彦『俳句愛のわが友垣』(青群俳句会)、本年2月に肺炎の診断で、三週間の入院加療のところ、二週間で退院でき、その間にも三百句以上を作ったという。その「前書き」に、

 で、次なるシリーズを考えて、記念写真に短いコメントを足す趣向を考えた。思えば好人物ばかりの友垣だった。(中略)が、九十七歳ともなれば、その師友との永別が続く。如何に愛し愛されたかを、書き残さねばと、アルバムを新調し。再編成したら十冊を超えた。
 忘れ得ぬ故友の紙面復活を望み、俳縁上の人びととの思い出をコメントにした。

とある。その中に4名の男女が駅の?ベンチに腰掛けた写真があった。そのページの句が、「青塔子と保徳 長門は俳句の関」であり、コメントが以下のものである。

 久行保徳の「草炎」大会に招かれて徳山や光方面へ旅した。先代は大中祥生で、東の楠本憲吉と共に「靑玄」の誇る存在だった。特に祥生らの山口勢は俊秀揃いで俳句の長門藩士。登村光美、上野敬一も然り。

 思えば愚生は、15,6歳の頃、毎日新聞「防長俳壇」大中青塔子(せいとうし、のちの祥生「しょうせい」)選に投句した。その句が載ったのが最初に作った句だった。何もわからず「土手焼きの煙にけぶる葉の桜」と、そのまま我が家の向かいの土手の景色を詠んで投句したのだった。その後、立命館大2部文学部に入学後、数回、青塔子にハガキで句を送った。感想が付された返信があった。世間を知らないとはいえ、よく、こんな図々しいことができたものだ。愚生18歳のころだったろうか。しかし、青塔子は昭和60年11月6日に62歳で亡くなっている。「青炎」主宰であることなど全く知らなかった。そして愚生は、当時の「立命俳句」会に入会した。国崎望久太郎、松井利彦が顧問だったように思う。いま思うと少数ながら天狼系の句会だったのだと思う。大学にはもう一つの俳句会があり、これは、「靑玄」系、坪内稔典らだったのだと推測できる。
 ともあれ、句のみだが、いくつか本書より挙げておこう。

   山寺の灌水浴びて 夫婦句碑 (三木市細川町)    三樹彦
   かにかくに 明(あきら)と三樹彦 俳枕
   かの日は暮石の 今は和生(かずお)の 笑み受けて
   きまって公子 晴れの舞台の朗読は
   テレビで俳宴で 中原道夫と道連れ
   百歳疾(と)く過ぎし我来翁 わが指標
   発想は稔典 伊丹家トリオを翔ばせしは
   靑玄の青春 四人男の背は女流
   水脈(みお)引くは琵琶湖で 艫(とも)の三女流
     この句のコメントは「公子の右は坪内順子、稔典夫人である。坪内夫妻は川之石高校の同級生」とある。現「船団」での俳名は陽山道子。

伊丹三樹彦(いたみ・みきひこ)1920年、兵庫県生まれ。


   

2017年12月18日月曜日

高橋龍「神は死ぬ。ニーチェは霜げても生きる。」(「面」122号)・・



 「面」122 DECEMBER’17、表紙裏(表2)に、山本紫黄の句が掲げてある。

    白魚の本場の白い洗面器    山本紫黄

 『現代俳句辞典』(富士見書房)には、その名が山本紫黄(しおう)と読みが付してあるが、愚生らはもっぱら紫黄(しこう)と言っていた。その辞典には大正10年4月12日、東京足立区生まれとあった。愚生の記憶があいまいで申し訳ないが、今年で没後10年を迎えているように思う。もちろん師は三鬼であったから「断崖」同人にして、「面」同人であった。
 ところで、本誌「あとがき」に高橋龍は以下のように記している。

 俳句を卵にたとえると、卵に黄身白身があるように俳句にも黄味白身がある。黄味は意味自身白身は姿である。わたしは、常日頃中身なけれど姿よしを旨としているので、音韻や字形漢字かなの混じり具合などが気になって仕方がない。ゴジラを誤字等とフィネンガンズ風に書いてみたい。

 また、冒頭には「自宅で呼吸器内科治療を受けているので、通院以外に家を出ることは滅多になく、少しは本を読む努力と時間が得られるようになった」と意気軒高にも見えるも、なかなか痛々しい。病のいくばくかでも軽くなり、博覧強記ぶりの健在を示し続けてもらいたい。
 ともあれ、幾人かの一句を以下に挙げておきたい。

   もう秋か メルトダウンに陽は落ちて   島 一木
   年逝くやトランジットの椅子にをり    山本左門
   からまったところで黙る二枚舌      とくぐいち
   
   山彦や
   根に添う 
   蟬の
   歳月を                上田 玄
  
   花の雨一人ジャンケンしておりぬ    網野月を
   初参り神社の亀は今日も留守      田口鷹生
   緑陰のベンチの端と端に人       北川美美
   こがらしや見えなくならぬ後姿     池田澄子
   蝶よ蜂よわれは腕から枯はじむ     遠山陽子
   半生を書けば四行名残り萩      吉田加津代
   日本列島ほどよく折れて花冷えす    加茂達彌
   木犀の匂へる手なり水を飲む      木林幹彦
   いつ使う千枚通し敏雄の忌       三橋孝子
   土間深く日のさしてゐる鏡餅      岡田一夫
   「猫八」を偲ぶ初音の二た三たび   山本鬼之介  
   寝入らんと月光の端渡りける      福田葉子
   顕わなる齢に生きて吾亦紅       本多和子
   一輪は百年後のわれ草の花       渋川京子
   大いなる虫の吐息の虹立ちぬ      髙橋 龍




2017年12月17日日曜日

大本義幸「霊には重さも形もないが圧力はある」(「俳句新空間」NO,8)・・



ーBLOG俳句空間媒体誌ー「俳句新空間」NO.8(2017年冬・編集発行人、筑紫磐井・北川美美、協力・佐藤りえ、500円、発売・邑書林)の特集は「世界名勝俳句選集」、30名ほどの参加がある。筑紫磐井の「編集後記」には、

 初めは虚子にならって『日本新名勝俳句』にしようと思ったのだが、流石に「俳句新空間」らしく日本を超えた海外作品が集まったり、具象性のない抽象的な俳句が集まったり、規格にこだわらない名勝俳句があふれ始めたので、名称を改めることにした。「世界名勝俳句」はたぶんどこでも見ることのできない特集であろう。

と記されている。というわけで、大本義幸の句以外は、集中から海外名勝俳句を以下に紹介しておきたい。

    四万十川
  河とその名きれいに曲がる朝の邦     大本義幸
    シャム
  アユタヤの古都真昼間の大夕立      網野月を
    カナダ イエローナイフシャム
  オーロラの家たくさんの鍵を持つ     小野裕三
    ブルガリア
  初夏の街角かもめも物乞ひも       神谷 波
    ペトログラード
  外套と荷物一つが革命家(ボルシェビキ) 筑紫磐井
    シベリア
  シベリアと見紛ふほどの裘        仲 寒蟬
    ハワイ
  虹の島年に何度も合歓の咲く      前北かおる
    ポカラ、ネパール
  闇汁の闇の内なる神々よ        真矢ひろみ
    ブレスト
  原子力空母一隻霧が隠す         松下カロ
    ギリシャアテネ
  林檎選るアクロポリスの裾の市      小沢麻結

他に、前号作品評の、もてきまり、小野裕三。また、巻頭の散文・松下カロ「風景は自画像である」はいずれも玉文である。
    


        府中・東京農工大(農学部)のキャンパス畑より↑

2017年12月16日土曜日

亀田虎童子「着ぶくれて抜き差しならぬ旅に出づ」(『日常』)・・



 亀田虎童子第6句集『日常』(文學の森)、集名は次の句に因む。

  亀鳴くや普通の人の普通の日    虎童子

「あとがき」には、二度の入院手術ののち、

 寝たきりと言うわけでもないが十年ほどのベッド生活を続けている。今でも週に一度の医師の往診と訪問看護師の世話になっている。
 日本の敗戦後、多くの日本兵がシベリヤに抑留され、厳寒のさ中でも強制労働に従事させられたという悲惨な状況はよく知られている。うろ覚えの話であるが、その日本兵の中に一人の詩人が居り、この過酷な日々を「これが私の日常である」と述べていた。これを読んでしみじみと「日常」の重さを感じさせられた。

と記されている。
 ところで、愚生が亀田虎童子に初めて会ったのは、もうずいぶん昔のことだ。八田木枯主催の「花筵有情」の案内をいただいたときだ。花見の季節に「花筵有情」は決まって飯田橋沿いにの土手で一日中行われていて出入り自由の酒宴だった。その場所には「花筵有情」の木札がぶら下がっていた。今でも古い写真が手許にあるが、それには三橋敏雄、中田世禰、松崎豊が写っている。青柳志解樹と初めて会ったのもその会だった。
 まだ若かった愚生は、会の帰りに八田木枯、亀田虎童子、もう一人どなたかと車でバーに連れられていき、ママさんは「あ~ら先生、いらっしゃいませ」と言ったので、皆さん常連だったのだろう。そこでは、俳人は誰でもみんな先生と呼ばれているらしい(もっとも、いまは、現俳協の事務所でも、お互いにセンセイと呼びあっているから、まるで学校の職員室みたいである)。本句集には一見どうということのない、それとない上手い句作りで、じつに味わいのある句が収められている。滋味というべきか。
 ともあれ、愚生好みの幾つかの句を挙げておこう。

  涅槃西風八田木枯目覚めどき     虎童子
  夜桜や酒も団子もなき所
  天気とは天の気まぐれ寒戻る
  忘れたり思ひ出したり名草の芽
  白玉や他人事なる立志伝
  百薬の長然る可く暑気払い
  色褪せるまで生きられず揚羽蝶
    卒寿なれば
  百に十(とを)足りぬと言うて柿を剥く
  会はざりし人への悼句月に雲
  裸木のなんぢやもんぢやは普通の木
  むかしからありし路地裏一葉忌
  老い止めの薬のなきや初薬師
  
 亀田虎童子(かめだ・こどうし) 大正15年埼玉県生まれ。



2017年12月15日金曜日

三輪初子「山茶花のつぎ咲く花を待たず散る」(『あさがや千夜一夜』より)・・



 三輪初子エッセイ集『あさがや千夜一夜』(朔出版)、帯の背に「映画と俳句と人生と」と惹句されている。石寒太が言うには「誰がいつどこから読んでもいい。心の動いたところからパラパラ読まれたらそれでいい」ともあったので、愚生はまず「八人目の侍」を読んだ。それは、三輪初子が生涯のベルトワンを書いて下さいと言われ、日本映画では、黒澤明監督作品『七人の侍』(1954年)であるという話だ。そのシーンを語る、

 夜盗の人質にされた村の子どもを救うため、勘兵衛が髷(まげ)を剃り落とし偽の坊主になるくだりは歴史的に伝わる物語を、若侍が腕試しのため稲葉義男扮する侍にきりつけるのは塚原卜伝の実話より、宮口清二の剣の達人に挑む剣術は柳生十兵衛の新陰流から引用された、とのことである。

 の部分に愚生は思わず反応したのだ。じつは愚生も三度くらいは『七人の侍」をこのシーンのために観ている。しかし、物語に感動してではない。しかも「真剣ならばオレの勝ちだ!」というセリフを巡ってだった。
 愚生は新陰流兵法転会(まろばしかい)に20歳代後半から30歳代半ばまで所属していた。その仲間たちとそのシーンを語り合うために是非見ておかなければならなかったからだ。たぶん、新陰流兵法(ひょうほう)の映画の指導は柳生宗家がしたのではないかと思う(手許に資料がないので不確かだが)。
 そのシーンの形は新陰流を習うときの最初の勢法(かた)で、参学円之太刀(さんがくえんのたち)の五本のうちの最初、一刀両断の形だった。打太刀(うちたち)に対面して、使太刀(したち)側(愚生)が無形の位(くらい)から、右足を開き、太刀を車(しゃ)に構え(剣を斜めに横に下げ持つ)、使太刀(いわゆる敵方)の正面からの打ちに対して、刀を体に沿って上げてゆき雷刀(らいとう・いわゆる大上段)にし、使太刀から切り付けてくる太刀筋に、遅れて打ち出し、打ち下ろされて来る刃に乗り勝つというものだった。この雷刀から相手に遅れ気味に真っ直ぐに打ち下ろす太刀は、剣の勝ち筋として必ず勝てるという、いわゆる秘伝とされた太刀筋で、小説などによって有名になっている、柳生の兜割りであろう。愚生らは転打ち(まろばしうち)と言っていた(上位の位に行くときに一度だけ先生から教わり、それぞれ、下段、中断、上段、無刀の位だったような・・・)。
 もちろん、剣にも時代による形の変遷がある。甲冑をつけての打ち合いの場合は腰が低く、現代剣道のように腰の位置は高くない。
 話を元にもどそう。本書は阿佐ヶ谷にあった元ボクサーであった夫と一緒にやっていた今は無きレストラン「チャンピオン」に集まってきた人たちとの出合いのエピソードである。その店で句会も行われていたのだ(残念ながら愚生は行ったことがない)。レストランだから、当然食べ物の話題も沢山出てくる。なかに「ポテにん」という人気メニューがある。どうやらそれは一口大に切ったジャガイモとにんにくの素揚げにしたもので、「夏バテ予防に最適」なのだそうである。俳句では、富沢赤黄男の妹・宇都宮粽88歳の折りに会ったとき、『天の狼』を見せられた時のことなど・・・。
 ところで、愚生の実母の結婚前の姓は三輪である。従って、今は昔のことになるが、最初にお目にかかっった時に愚生には珍しく、その名・三輪初子を一度で覚えたのだった。
 ともあれ、エッセイにちりばめられた句をいくつか、以下に挙げておこう。

  花盛り女あるじは耳遠き       初子
  招かれて月の都に御座(おは)す母
  雪降る夜ひと呼ぶこゑのやはらかし
  絵の中の少女は老いず小鳥くる
  夏料理ひときは皿の白きかな
  熱帯夜枕のやうなオムライス
  テンカウント響くあかつき迎へ梅雨
  火を愛し水を愛して葱洗ふ 

三輪初子(みわ・はつこ)1941年、北海道帯広市生まれ。


                                            小平霊園・冨澤赤黄男の墓↑


2017年12月12日火曜日

池田澄子「人類の旬の土偶のおっぱいよ」(『俳句ひらく』より)・・



 現代俳句協会創立70周年記念・現代俳人の筆跡『俳句ひらく』(現代俳句協会・3000円)、現代俳句協会会長・宮坂静生は「まえがき」で、本書の筆墨集について、

 現代俳句協会歴代会長、現代俳句協会賞受賞者、現代俳句大賞受賞者(現代俳句協会大賞含む)の筆跡に、俳人コラージュのページなどを盛り込み、目から楽しむ宝物として、長く座右に置けるものにしたい。
 石川九楊のことばを藉(か)りると、書とは筆触(ひっしょく)である。「筆記具の先端が接触し、摩擦し、離脱する劇(ドラマ)(「日本語とはどういう言語か」)である。

 と記している。色紙、短冊類、また愛用品などを写真に収めてあるが、現在なお活躍中の俳人の受賞者には、「私がこれから目指す俳句」のコメントが入っている。皆さんそれなりの年齢を重ねているので、自らの身に沿った言葉が刻まれている。ブログタイトルにあげた池田澄子は、記念すべき平成元年度、第36回現代俳句協会賞受賞に因むものである。先のコメントには、「現在の私には予想出来ない、私の未知の俳句」とあった。




 さて、愚生が提供した色紙は俳句コラージュのページの五枚一組の色紙である。色紙それぞれに自筆の似顔絵が即興で書かれているものだ。それは1976年の「俳句評論」の忘年句会で比田義之がブービー賞の景品として獲得したもので、その場で描かれたものである。その五人の俳人とは、高屋窓秋、三橋敏雄、大岡頌司、三谷昭、高柳重信(151ページ掲載)。
 久しく忘れていたが、東京四季出版編集部より、高屋窓秋・秋元不死男の短冊はないかと尋ねられたときに、思い出し、ちょっと面白いものがあると、知らせたことで日の目を見た。
 愚生はもともと、色紙・短冊類を集める趣味を持ち合わせていないが、秋元不死男の短冊もひとつあった。その短冊は阿部鬼九男が亡くなる直前に、辞退したが、めずらしく持っていけと強引に手渡された色紙だ。酒巻英一郎ともども見舞ったその日が永の別れとなってしまった。
 本書には、その短冊と色紙は採用されなかったので、ここに備忘のために掲載しておこう。


          獄を出て触れし枯木と聖き妻 不死男↑

 
       ちるさくら海あをければ海へちる 高屋窓秋↑



筑紫磐井「秋思より具象が大事虚子の説」(「俳句界」12月号)・・



「俳句界」12月号は、特集「平成俳句検証」で、「平成を代表する句、平成を代表する俳人」のアンケートを主要な俳人に出して、その結果をまとめ、論考「平成とは俳句にとってどんな時代だったのか?」を岸本尚毅と渡辺誠一郎が執筆している。平成は31年4月で終わることに決まった。その中で、筑紫磐井は、平成を代表する句として、

 ビル、がく、ずれて、ゆくな、ん、てきれ、いき、れ  なかはられいこ

を挙げて、

9.11テロをこんな美しく衝撃的に詠んだ句はないだろう。この状況は現在も続いている。(作者は川柳作家)

とコメントし、平成を代表する俳人に、攝津幸彦を挙げ、「昭和のレトロな作家と思われているが、平成八年になくなった。むしろ平成俳句に影響を与えている」と記している。
筑紫磐井つながりで、もう一誌を紹介すると、「翔臨」第90号に、「山本健吉の『挨拶と滑稽』-隠者の性格」と題する論考を寄稿し、竹中宏をして以下のように語らしめている。



 山本健吉は、折口の文学観を、どのように咀嚼したのであろう。そのことに無頓着であって、俳人は山本健吉をどこまで理解したことになるのか。筑紫氏の文章から、そう問われる思いだ。(「地水火風」)

それは、筑紫磐井が、同論のなかで折口信夫「隠者文学」(昭和12年)と山本健吉「挨拶と滑稽」(昭和21・22年)の記述を比較し一覧表にして、類似性を指摘し

 「挨拶と滑稽」は恩師と同じ道をたどって俳句が、芭蕉が、肯定されている。そしてその根拠とは、「隠者文学」であるという理由なのである。現代の生々しい社会ではなく、一歩退いた、市井で風雅を楽しむ隠居たちの文学であるというのである。これでは、賢明な桑原の「第二芸術」に反論など出来るわけがない。「第二芸術」に対峙するためには致命的な欠点を抱えていたのである。
 健吉の「隠者文学」性は以後も、古典的な高踏趣味として続き(健吉の季語論や『基本季語500選』によく現れている)、晩年には軽み論で決定的に俳壇や中村草田男と対立するのである。

 と結んでいる。ところで、先に上げた平成を代表する、なかはられいこの句は、他に橋本直も挙げていて、そのコメントには「具体的には『9・11』の映像を喚起させつつ、当の言語表現をふくめ様々なものの崩れる時代そのものをあらわしているように見える」とある。なかはられいこは川柳作家とあるが、「俳句界」12月号には「川柳ーこの鮮烈なる詩型よ」として鶴彬と時実新子の特集もある。時代を先鋭に撃っているのは、いつの時代も詩歌であった。ならば俳句もそうであろう。ようやく俳句にも若い世代で俳句史に新しいエポックを刻む人たちが登場してきているように思う。中でも今年出版された福田若之『自生地』はそれを象徴しているように思えた。

   フジヤマとサクラの国の餓死ニュース  鶴 彬 
   平成七年一月十七日 裂ける      時実新子






2017年12月10日日曜日

宇田川寛之「三島由紀夫の享年近づく僕たちは自決の秋の午後に生まれき」(『そらみみ』)・・



 宇田川寛之第一歌集『そらみみ』(いりの舎)、18歳のとき2歳年上の歌人・枡野浩一と知り合ったという。その時の短歌の一つが、

 「もうハタチ・・・・自覚しなきゃ」と言ったのに「自殺しなきゃ」と伝わる電話
                                   枡野浩一

だった。宇田川寛之が「短歌人」に入会したのも二十歳。そして言う。

 歌集をまとめようと思ったことが三十代半ばまでに二度ある。しかし、いずれも生活環境の激変があり、歌集どころではなくなってしまった。(中略)覚悟がなかった。以後も歌集刊行を勧めてくれる人がいないわけではなかったが、まさに生活に追われて、歌集をまとめようとは到底思えなかった。やがて勧めてくれる人は皆無に近くなった。

 纏められた短歌は2000年から15年の間の作品415首、二十歳から「短歌人」の欠詠がなかったというから、歌数は相当なものにのぼったはずだ。数首を除いて、20代の作品はほぼ捨てたようである。
 愚生が彼を知ったのは、「俳句空間」(弘栄堂書店版)の新鋭投稿欄である。もう20数年前のことだ。『燿ー「俳句空間」新鋭作家集Ⅱ』に参加してもらった。一人100句・16名のアンソロジーだった。その頃、宇田川寛之は俳句も作っていたのだ。当時23歳、アンソロジーのなかではもっとも若手であった。その時の正木ゆう子の評に、「追想に本音のような天気雨」「パラフィンのごとき言ひ訳繰り返す」などの句を挙げたのち、「もともと体質的にこの作者には『切れ』に対する必然性が希薄なのかもしれない。現在は俳句は開店休業中で、短歌の雑誌に属しているという。優しさは短歌では長所に転じるだろう」と記している。その優しさは本歌集に満ちている。愚生は年のせいか、おもわず涙腺を刺激された歌がいくつもある。宇田川寛之は、いまや充実の時を迎えようとしているのかもしれない。静かに六花書林という詩歌の出版社を一人で立派にやっている。
 ともあれ、いくつかの歌を以下に挙げておこう。

  愚図愚図と雨降りしきる。渋滞に連なるのみの二十代はも   寛之
  間の抜けた謝罪を朝に投函す酒のちからの口論の果て
  転居通知を投函せしが〈転居先不明〉と戻りきたるいちまい
  花水木はじめて見る子を抱きつつ五月の空のした抜けられぬ
  来年二月古稀を迎ふるはずの父、途切れ途切れの例のさびしさ
  待ち合はせ時間に遅れ焦る吾を背後から呼ぶこゑはそらみみ
  どしやぶりはおもひがけずに来るものぞひとつの傘に子と身を寄せて
  受賞者へ短きメールせむ「友がみな」などぼやくことなく
  無名なるわれは無名のまま果てむわづかばかりの悔いを残して
  匿名の許されてゐるゆふぐれを行き交ふひとはみな他人なり

一句献上! 

  宇田川のひろく散りたるこれは空耳   恒行

宇田川寛之(うだがわ・ひろゆき)、1970年、東京都生まれ。




2017年12月7日木曜日

江田浩司「手にそっとふれてゐるのはきのうから消えずに残る夕日だらうか」(「扉のない鍵」創刊号)・・



 創刊の挨拶に、文藝別人誌「扉のない鍵」とある。同人誌ではない別人誌なのだ。編集後記に以下のように記されている。

 ◇「扉のない鍵」は、[文藝別人誌]という聞きなれない名称の雑誌である。私は当初、本誌に集う者が、普段とは異質な創作を行う場として別人誌を位置づけていた。また、同人誌のような関係性をなるべく無化した上で、他者による競演を意識したところもある。しかしそれは、あくまでも表層的な意味づけにすぎないだろう。各別人のテクストが、本誌にどのような本質を付与できるのかが、本誌の生命線である。

 編集人は江田浩司、発行人は[TNK]、発行所(発売・北冬舎)は江田浩司方、[別人]三十人によって創刊された雑誌である。各自のジャンルの壁はないとあるが、小説、エッセイ、評論などもあるものの、印象は、やはり短歌の別人誌の感じである。特集は「扉、または鍵」にまつわる(題詠)創作に加えて、加部洋祐歌集『亞天使』をめぐる「闘論会」ライブ版が約50ページを占めている。
 別人のなかには愚生の既知の方も何人かいらっしゃる。かつて「豈」同人だった生野毅もいて、「蛭化」という詩を寄せている。冒頭は、

 一枚の大きな扉は おお空に吊るされ 身じろぎもせず 時に微風にたじろぐ 

から始まる詩篇である。ともあれ、以下に四人の方の各一首を挙げておこう。

    ひろいそらどこまでもひろい春のそら(とくに何もないな、なにも) 加部洋祐
  どこまでが季何のからだか例ふれば鼻腔の空氣、胃の中の柿 堀田季何
  歳月はここにも滲む 玄関のだんだん回りにくくなるシリンダー 生沼義朗
  扉なき世界みだらに放たれて 排水溝の孤児(みなしご)阿修羅 玲はる名



★閑話休題・・・

 江田浩司には大冊の近著『岡井隆考』(北冬舎)がある。巻末の岡井隆自筆年譜抄や岡井隆著作一覧、岡井隆研究史などだけでも読み応えがある。論考はさすがに精緻を極めている。ただ、愚生が岡井隆を読んでいたのは、国文社・現代歌人文庫『岡井隆歌集』までで、いわゆる岡井隆失踪後は『鵞卵亭』『人生の視える場所』までである。その後は、ほとんどその営為に接してこなかったので、本著によって改めて、岡井隆の詩的営為について蒙を開かれる思いだった。当時、並走していた塚本邦雄も魅力的だったが性に合ったのは、岡井隆の方だった。尊顔を拝した最後は、「現代俳句シンポジウム」の企画で、健在だった三橋敏雄との対談の折り、現在、日野草城の評価が低い、もっと見直されてよい俳人だと語っていたのが印象に残っている。

江田浩司(えだ・こうじ)1959年、岡山県生まれ。


2017年12月6日水曜日

石寒太「いろいろいろいろはもみぢのちりぬるよ」(『風韻』)・・



 石寒太第7句集『風韻』(紅書房)、栞には宇多喜代子、末尾近く、

 石寒太の俳句には、夢や幻を追うような難解な嘘がない。過剰な装飾や知識や蘊蓄の偏重もない。自身が生きて、見て、感じたところから自らの内部の意識とことばに近づいてゆく。ことばと接するのにもっとも至難である「生」や「死」が、ごく自然に句の中で無理なく自分のテーマとして表現されているのも、他人の考えや他人のことばではなく、石寒太自身の思い、石寒太のことばで表現さているからであろう。

と述べている。句は幅広いが、楸邨の弟子というだけあって、師にまつわる句、楸邨の句を思い起こさせる句もおおくある。とりあえず、楸邨の名を刻む句を挙げてみよう。

  七月の三日楸邨忌を修す     寒太
  楸邨の供華はなやぎし梅雨墓参
  楸邨の謎めく一句去年今年
  楸邨のことば反芻春の風
  楸邨の星出るころぞ木下闇
  楸邨忌前日鰻焼け焦げし
  楸邨の句碑にもひとつ螢来よ
  楸邨の海月のくらり沈みけり
  楸邨のことばのちから茨の實
  楸邨の怒濤きらきら夏至の朝
  楸邨の顎の黒子や十二月

著者「あとがき」には、

  『風韻』とは風趣、少しでもこころ豊かに過ごしたいとのささやかな願いからつけたが、果たして如何であったろうか。

とある。「炎環」30周年おめでとうございます。愚生が、石寒太に最初に会ったのは、現代俳句のシンポジウムの打ち合わせか、何かで東中野で坪内稔典らと一諸だったとき、毎日新聞社の名刺に石倉昌治とあったのを鮮明に覚えている。やはり、30年以上前のことのような気がしないでもない。
ともあれ、愚生好みで、いくつか句を挙げておきたい。

  病む馬のたてがみへ降り流れ星
  戦争法案通過す四万六千日
  つくつくほふしつくつくぼふしつくしけり
  瓦礫二年更地三年赤蜻蛉
  飛花落花非核宣言都市真昼
   悼・長谷川智弥子
  つばくらめ風のいのちと繋がりし
   佐藤良重句会へ
  うららかや句座に着きたる車椅子 

石寒太(いし・かんた)1943年、静岡県生まれ。



2017年12月4日月曜日

佐藤りえ「海市見てより繪のなかの潮鳴る」(「guca」リニューアル創刊号)・・



「guca」短詩系マガジン[グーカ]リニューアル創刊号、テーマは「短詩への扉をつくる人たち」(編集部は太田ユリ・佐藤文香)。
 特集1は新装版『角砂糖の日』で「編集者・平岩壮悟に聞く・新しい扉の作り方」、短歌作品は服部真里子「変身」、短歌と文は、枡野浩一「布ならば三千円で売れるけど三千円の紙は売れない」。枡野浩一は相変わらず面白い。伊勢丹新宿店で店員として働き、自分の短歌をスゥェットに印刷した、イメージとしてはTシャツに短歌が印刷されているものと思えばいいらしいが、服飾ブランド商品として展示販売しているという話だ。
枡野浩一とは、大昔のことだが(攝津幸彦没後、まもなくの頃だったとおもうが)、「豈」東京句会を新宿・サムライでやっていた頃、マガジンハウス「鳩よ!」の句会取材で来て、句座をともにしたことがある(愚生の作をふくめてどんな作だったか全く記憶がないが・・)。
 特集Ⅱは『天の川銀河発電所Born after1968現代俳句ガイドブック』の編著者・佐藤文香インタビューが掲載されている。中に、

  これから、もっと読みたいのは口語の俳句です。今回公募で選んだ五人は五人とも、文語・口語に意識的な作者でした。特に佐藤智子さんは新時代の口語俳句にあたるんじゃないかと思って。口語だからわかりやすい、というのではなく、今のしゃべり言葉が本気で俳句に攻めてきたような句がいいですね。

 とあった。愚生はそれに是非、現代仮名遣いで書かれる奔放な作品がでてくれば、もっとイキイキとするような気がする。それは、作品として表現されたときに、歴史的仮名遣いがどうしても、ある種の安定した情緒からのがれられないからだと思う。現在に秩序を与えてはいけないのだ。
 他には「々々の絵俳句」で柳本々々、この人、多才だな、と思った。
 ともあれ、以下に俳句作品から各人一句を挙げておこう。

  真葛原何もなかつたのに起伏      クズウジュンイチ
  夕凪や錠剤各種凡て白         半田羽吟
  餡ぱんの顔投げられて鳥雲に      佐藤りえ



2017年12月3日日曜日

佐々木敏光「冬の沼おぼろなるものたちのぼる」(『富士山麓・晩年』)・・



 続・佐々木敏光句集『不二山麓・晩年』(邑書林)、集名由来の句は、

  晩年や前途洋洋大枯野      敏光

である。本集は『富士・まぼろしの鷹』に次ぐ第二句集。俳句個人誌『富士山麓』(ウェブ版)の創刊号(2012年9月号)から2017年8月号までの5年間の句からの自選である。初出がウェブ上なので、(俳句・佐々木敏光・富士山麓)のいずれか2語の検索で画面がでるが、毎月相当数の句が発表されており、多作の作家である(俳句をほとんど作らない俳人の愚生など到底及ばない)。従って厳選の573句ということになる。
 巻尾に、前書風の短文に句が置かれた章がある(面白い)。ただ、他にも前書のほどこされた句が多いが、これはこれで、句の背景がよくわかるのだが、読者にとっては、一句の謎がなくなるというリスクがあろう。前書がなければ、読者にはより広がりが生まれる。つまり、前書の答えとしての一句が用意されているのである。その分、作者の生活ぶりがよく伺えるのだが、平明すぎるというものではなかろうか。平明でも句は謎を秘めて読者にあれこれ想像させる方が、より楽しめるというものだ。どのようにも書ける、詠める俳人であるだけに、現状肯定ではない日常の俳を育てかえせば、これぞ世に問う佐々木敏光一世の第三句集がもたらされるに違いない。
ともあれ、愚生好みの句をいくつか以下に挙げておきたい。

     順番は運
  銀漢や人順番に死んでゆく      敏光
  死は未踏初日にささぐカップ酒
     老人力
  堂々と財布わするる祭かな
     戦争
  春風や死にゆくために敬礼す
  夢の世にうつつありけり原爆忌
  わが庭の椅子登頂をめざす蛭(ひる)
  炎帝は核融合をしてをられ
     
  ふるさとは枯枝にある懸り凧
    老夫婦 体調不安が続く妻へ
  眠るまで妻の手をとる昼月夜
  滅亡へ遅刻しつづけ秋の暮
  ふらここに乗りてあれこれおぼろなり
  核弾頭飛び交ふ春の山河否(いな)
  このわれにわれパラサイト秋の暮

佐々木敏光(ささき・としみつ)1943年、山口県宇部市生まれ。