2017年12月18日月曜日

高橋龍「神は死ぬ。ニーチェは霜げても生きる。」(「面」122号)・・



 「面」122 DECEMBER’17、表紙裏(表2)に、山本紫黄の句が掲げてある。

    白魚の本場の白い洗面器    山本紫黄

 『現代俳句辞典』(富士見書房)には、その名が山本紫黄(しおう)と読みが付してあるが、愚生らはもっぱら紫黄(しこう)と言っていた。その辞典には大正10年4月12日、東京足立区生まれとあった。愚生の記憶があいまいで申し訳ないが、今年で没後10年を迎えているように思う。もちろん師は三鬼であったから「断崖」同人にして、「面」同人であった。
 ところで、本誌「あとがき」に高橋龍は以下のように記している。

 俳句を卵にたとえると、卵に黄身白身があるように俳句にも黄味白身がある。黄味は意味自身白身は姿である。わたしは、常日頃中身なけれど姿よしを旨としているので、音韻や字形漢字かなの混じり具合などが気になって仕方がない。ゴジラを誤字等とフィネンガンズ風に書いてみたい。

 また、冒頭には「自宅で呼吸器内科治療を受けているので、通院以外に家を出ることは滅多になく、少しは本を読む努力と時間が得られるようになった」と意気軒高にも見えるも、なかなか痛々しい。病のいくばくかでも軽くなり、博覧強記ぶりの健在を示し続けてもらいたい。
 ともあれ、幾人かの一句を以下に挙げておきたい。

   もう秋か メルトダウンに陽は落ちて   島 一木
   年逝くやトランジットの椅子にをり    山本左門
   からまったところで黙る二枚舌      とくぐいち
   
   山彦や
   根に添う 
   蟬の
   歳月を                上田 玄
  
   花の雨一人ジャンケンしておりぬ    網野月を
   初参り神社の亀は今日も留守      田口鷹生
   緑陰のベンチの端と端に人       北川美美
   こがらしや見えなくならぬ後姿     池田澄子
   蝶よ蜂よわれは腕から枯はじむ     遠山陽子
   半生を書けば四行名残り萩      吉田加津代
   日本列島ほどよく折れて花冷えす    加茂達彌
   木犀の匂へる手なり水を飲む      木林幹彦
   いつ使う千枚通し敏雄の忌       三橋孝子
   土間深く日のさしてゐる鏡餅      岡田一夫
   「猫八」を偲ぶ初音の二た三たび   山本鬼之介  
   寝入らんと月光の端渡りける      福田葉子
   顕わなる齢に生きて吾亦紅       本多和子
   一輪は百年後のわれ草の花       渋川京子
   大いなる虫の吐息の虹立ちぬ      髙橋 龍




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