2017年12月19日火曜日

伊丹三樹彦「青塔子と保徳 長門は俳句の関」(『俳句愛のわが友垣』)・・

 


 メモリーフォト&ハイク コレクション 伊丹三樹彦『俳句愛のわが友垣』(青群俳句会)、本年2月に肺炎の診断で、三週間の入院加療のところ、二週間で退院でき、その間にも三百句以上を作ったという。その「前書き」に、

 で、次なるシリーズを考えて、記念写真に短いコメントを足す趣向を考えた。思えば好人物ばかりの友垣だった。(中略)が、九十七歳ともなれば、その師友との永別が続く。如何に愛し愛されたかを、書き残さねばと、アルバムを新調し。再編成したら十冊を超えた。
 忘れ得ぬ故友の紙面復活を望み、俳縁上の人びととの思い出をコメントにした。

とある。その中に4名の男女が駅の?ベンチに腰掛けた写真があった。そのページの句が、「青塔子と保徳 長門は俳句の関」であり、コメントが以下のものである。

 久行保徳の「草炎」大会に招かれて徳山や光方面へ旅した。先代は大中祥生で、東の楠本憲吉と共に「靑玄」の誇る存在だった。特に祥生らの山口勢は俊秀揃いで俳句の長門藩士。登村光美、上野敬一も然り。

 思えば愚生は、15,6歳の頃、毎日新聞「防長俳壇」大中青塔子(せいとうし、のちの祥生「しょうせい」)選に投句した。その句が載ったのが最初に作った句だった。何もわからず「土手焼きの煙にけぶる葉の桜」と、そのまま我が家の向かいの土手の景色を詠んで投句したのだった。その後、立命館大2部文学部に入学後、数回、青塔子にハガキで句を送った。感想が付された返信があった。世間を知らないとはいえ、よく、こんな図々しいことができたものだ。愚生18歳のころだったろうか。しかし、青塔子は昭和60年11月6日に62歳で亡くなっている。「青炎」主宰であることなど全く知らなかった。そして愚生は、当時の「立命俳句」会に入会した。国崎望久太郎、松井利彦が顧問だったように思う。いま思うと少数ながら天狼系の句会だったのだと思う。大学にはもう一つの俳句会があり、これは、「靑玄」系、坪内稔典らだったのだと推測できる。
 ともあれ、句のみだが、いくつか本書より挙げておこう。

   山寺の灌水浴びて 夫婦句碑 (三木市細川町)    三樹彦
   かにかくに 明(あきら)と三樹彦 俳枕
   かの日は暮石の 今は和生(かずお)の 笑み受けて
   きまって公子 晴れの舞台の朗読は
   テレビで俳宴で 中原道夫と道連れ
   百歳疾(と)く過ぎし我来翁 わが指標
   発想は稔典 伊丹家トリオを翔ばせしは
   靑玄の青春 四人男の背は女流
   水脈(みお)引くは琵琶湖で 艫(とも)の三女流
     この句のコメントは「公子の右は坪内順子、稔典夫人である。坪内夫妻は川之石高校の同級生」とある。現「船団」での俳名は陽山道子。

伊丹三樹彦(いたみ・みきひこ)1920年、兵庫県生まれ。


   

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